見出し画像

アンドレー・カチンバ クラッキ列伝 第150回 下薗昌記 月刊ピンドラーマ2022年4月号

#クラッキ列伝
#月刊ピンドラーマ  2022年4月号 HPはこちら
#下薗昌記 (しもぞのまさき) 文

アルゼンチンがこの世に送り出した不世出の天才、ディエゴ・マラドーナが、突然、そして気まぐれにこの世を去ったのは2020年11月25日のことだった。

イタリアのナポリ時代にはブラジルが生んだ偉大なFWカレッカともコンビを組んだマラドーナだが、左利きの小柄な天才と最初にプレーしたブラジル人が存在する。

カルロス・アンドレー・アヴェリーノ・デ・リマ。サッカー界ではアンドレー・カチンバの登録名で知られた気性の荒い点取り屋である。

相手選手を挑発して、退場に追い込んだり、冷静さを失わせたりする南米ならではのしたたかな振る舞いを「カチンバ」と称するが、アンドレーもまた相手の守備陣からは嫌がられたFWだった。

1946年、サウヴァドールで生まれたアンドレーだが、6人生まれた子供のうち、男の子はアンドレーただ一人。地元のクラブ、イピランガに見出され、クラブ関係者が学費や小遣いを提供すると誘いをかけてきたが、母は簡単に首を縦に振ろうとしなかったという。

「あの時代、サウヴァドールではサッカーはガキか海辺にたむろしている奴がするものだったからね」
とはアンドレーの述懐である。

しかし、サウヴァドールの街で幼き頃からカポエイラや空手に興じ、身体能力を磨き上げてきたアンドレーの才能は本物だった。

バイーアと並ぶ名門、ヴィトーリアに移籍するとその点取り屋の才能は一気に開花するのだ。

そして、「カチンバ」の愛称に相応しく、ゴール前では相手のマークに怯むどころか「CBが奴に激しく当たりに行くと、奴は必ずそれ以上にやり返してくる。恐れるってことを知らない選手だった」と振り返るのはかつて対戦したコリチーバのCBオベルダンである。

もっとも荒々しいだけのストライカーではなかった。1973年にはガリンシャの引退試合として開催されたブラジル代表対外国人選抜の一戦で、アンドレーはブラジル代表としてプレー。そして1977年にはグレミオに移籍し、タイトル獲得にも貢献するのである。

名将テレ・サンターナが率いた当時のグレミオでは133試合に出場し、65得点。その中でもグレミオサポーターが永遠に忘れない一瞬がインテルナシオナウとのダービー「グレ・ナウ」でグレミオにリオ・グランデ・ド・スウ州選手権優勝の栄冠をもたらした得点である。

後半42分、劇的な決勝点を決めた直後、カポエイラ仕込みの宙返りを見せようとしたアンドレーは空を回れず、腹からピッチに落下。その光景はカメラマンに収められ、今でも語り草となっている。なお、あまりの痛みで交代を強いられ、優勝の瞬間をピッチで味わえなかったのも、彼らしいエピソードである。

1980年、アルゼンチンのアルヘンティノス・ジュニアーズに移籍したアンドレーは、若き日のマラドーナと同じ時を過ごしている。

「俺は当時34歳でマラドーナはまだ19歳。でも当時から質の高さは持っていたよ」
とマラドーナの死去を受け、応じた取材の中でこう振り返っている。

アルゼンチンではわずか半年プレーしたのみで、キャリアの晩年はブラジルの小クラブでプレーしたアンドレーは現役引退後、古巣のヴィトーリアでも監督を務めたが、指導者としては短いキャリアで終わっている。

マラドーナの死からわずか8か月。2021年7月28日、風変わりな登録名を持った男は天に召された。74歳の生涯だった。


下薗昌記(しもぞのまさき)
大阪外国語大学外国語学部ポルトガル・ブラジル語学科を卒業後、全国紙記者を経て、2002年にブラジルに「サッカー移住」。
約4年間で南米各国で400を超える試合を取材し、全国紙やサッカー専門誌などで執筆する。
現在は大阪を拠点にJリーグのブラジル人選手・監督を取材している。


月刊ピンドラーマ2022年4月号
(写真をクリック)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?