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第62回 実録小説『イージーなミッションだ』 カメロー万歳 白洲太郎 月刊ピンドラーマ2021年5月号

#カメロー万歳
#月刊ピンドラーマ  2021年5月号 HPはこちら
#白洲太郎 (しらすたろう) 文

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 その日、白洲太郎と彼の妻になる予定のちゃぎのはいつものようにフェイラ(市場)で仕事をしていた。空には快晴が広がり、柔らかな陽射しが道行く人々を照らしている。そよ風が頬をくすぐるように吹いていき、太郎は思わず微笑んだ。とてつもなく爽やかな日である。このような一日はそう頻繁にあるものではなく、何かスペシャルなことが起こりそうな気配がビンビンであった。

 太郎の機嫌が良かったのはなにも天候のせいだけではない。

 先日、愛用していた海パンのボタンがダメになってしまったので、ちゃぎのに交換してもらったのであるが、今日はその海パンの再デビューの日だったのである。新しいボタンの締まりはとてもよく、以前のように海パンがずり下がってくることもない。むしろ頑丈すぎてボタンが外しにくいと感じるくらいであったが、それぐらいしっかりしていなければ、またすぐにダメになってしまうだろう。もともと服には無頓着な太郎である。重視する点は快適さと気楽さであり、長年使い古された服はその条件を見事に満たしていた。破れたり壊れたりすればちゃぎのに修繕してもらい、限界ギリギリまで使い倒す。それが太郎の衣服に対するスタンスであった。

 彼の機嫌はすこぶる良かったが、若干の不安がないわけでもない。というのも先ほどから、腹の中で妙な音がしているのである。まだごく小さな、さざ波のようなサインであったが、これを甘く見てはいけない。緊急事態というほどのものではないが、水面下では何かが確実に進行しているのである。

 脱糞に関するエピソードは枚挙に暇がないが、太郎はこれまでのブラジル生活で幾度もの危機に見舞われてきた。フェスタの最中に急にもよおし、やむを得ずマイカーの中でしたこともあったし、市場からの帰り、トイレまで間に合わず自宅の車庫で済ましたこともある。兎にも角にもうんこは話題を提供してくれるものであるが、下手すれば人の人生を変えてしまうほどの破壊力をはらんでいるのであり、読んで字のごとく『舐めちゃいけない』存在なのである。

 幸いなことに青空市場から太郎の家までは歩いて10分ほどの距離であった。公衆トイレで用を足すことを嫌った太郎はちゃぎのに屋台を任せ、自宅まで歩いて帰ることにした。これが別の町であれば選択の余地はないが、幸いなことに地元である。これをアプロベイター(利用)しない手はない。ちゃぎのは一瞬、不満そうな表情を見せたが、ついでに猫のエサを買って帰るという条件で渋々了承した。1年ほど前から白洲家の裏庭にはニャボという名の野良猫が姿を現すようになっており、ちゃぎのはその猫を溺愛していたのである。

 時刻は午前8時半。ニャボのエサをミニスーパーで購入する時間を計算にいれても、15分後には脱糞が完了しているはずである。イージーなミッションだ。ベテランらしく、余裕の表情で市場を出発した太郎であったが、その胸のうちでは微かな違和感を感じていた。本能的な勘と言いかえてもよい。つい先ほど抱いた感想とは矛盾しているのであるが、

『果たして今の自分に、ニャボのエサを買って帰るなどという時間が残されているのだろうか?』

 太郎はふとそう思ったのであった。

 市場からミニスーパーまでは5分ほどの道のりであったが、帰り道ついでというわけではない。わずかな距離ではあるが遠回りになるため、最短距離で家に帰りたい太郎にとっては余計な手間であった。が、なんのこれしき。偉丈夫を自負する太郎にとって、この程度のおつかいで怯むわけにはいかない。

 ミニスーパーに着き、手早くお目当てのエサを購入、そそくさと立ち去ろうとしたが、こういうときに限っておしゃべり好きのデボラが積極的に絡んでくるのである。デボラは太郎の親友エリアスの兄弟であるワギナーの元カノで、数か月前からこのミニスーパーで働いている。先日、太郎はその気まぐれからふと、凧揚げでもしたろうか知らん?と思いつき、この店で凧揚げセットを購入したのであるが、その際、凧揚げに関しては常人よりも知識をもっているらしいデボラの講義を長々と傾聴した経緯があり、彼女はしきりに凧揚げについての話題に触れたがったのである。邪険にするわけにもいかず、太郎はグッとこらえながらデボラの話を聞いていたが、そうこうしているうちに腹の中が唸り始めた。急に天候が悪化し、海が荒れはじめたのである。それでもやはり、口角泡を飛ばしながら熱弁しているデボラを無下にはできない。話が切れるのを辛抱強く待った太郎はポーカーフェイスで店を出ると、その途端に小走りに駆け出した。時計など持ってはいないが、10分以上のロスであることはマチガイない。これを取り戻すためには歩を早めるしかないが、そうすることによって腸への負担も激しくなり、肛門の締まりにも影響がでる。数分前までさざ波程度だった波が、すでにモンスタークラスのビッグウェーブに変貌しているのであり、もはや一刻の猶予も許されない。太郎はフォレスト・ガンプのようにリズミカルに走る自分を想像してみたが、実際の歩みは亀よりも鈍いという体たらくであった。

 普段何気なく歩いている道も、状況がちがえばまるで異質な風景に見えてくる。通常であれば気がつかなかったような植物が目についたり、人んちの壁の色が変わっていることにハッとしたり、野良犬に新顔がいたり、と様々な発見があるが、それも瀬戸際に追い込まれた人間の一種独特ともいうべき現象であろう。気がつけばつま先立ちで歩く以外に選択肢のない太郎であったが、そうしている間にも目的地は確実に近づいてきている。もともと大した道のりではないのである。かなりのところまで追い込まれてはいるが、絶望といった場面ではない。頑張り次第で自宅のトイレで用を足すことは十分可能であり、彼はそれを全力でやり遂げねばならなかった。 

 亀のような歩みで少しずつ目的地に近づいていく。空は相変わらず冴えわたり、雲ひとつない晴天が広がっている。平和を象徴するかのような風景を尻目に、地獄の苦しみに耐えている自分が哀れであった。しかし泣き言をいってるヒマはない。今は少しでも早く自宅にたどり着き、無事に脱糞を済ますことだ。それをやり遂げたら、自分の人生ともう一度真剣に向き合おう、と太郎は思った。気ままな露天商稼業に身をやつし、働き盛りの年代にも関わらず、田舎で隠居生活を送る自分の境遇を羨ましく思う人もたまにいるが、やはりゆくゆくはお国のため、というか人類の役に立つような事業に取り組んでみたい。この難局を乗り越えた自分にはその資格があるはずで、ここが正念場、言わば勝負どころである。脂汗のにじむ顔でそんなことを考えていたが、そうこうしているうちに自宅の門が目と鼻の先にまで迫ってきている。安堵の気持ちなどというのはまったくなく、一瞬でも気を抜けば肛門の栓が吹っとんでしまいそうな危機的な状況であった。

 ドラッグ中毒者のようなおぼつかぬ手つきで鍵を取り出し、門の中に身をすべりこませた太郎は、つま先立ちで車庫ゾーンを通過したが、家の中に入るにはさらにもう1枚、木製のドアを開けねばならない。もはやなりふりなどかまっていられない彼は荒々しい鼻息でもって鍵をこじ開けると、駆け出したくなる気持ちを抑え、身体中の全神経を菊の門に集中させた。限界はとっくのとうに超えている。それでもどうにか正気を保っていられたのは、愛するちゃぎのを思えばこそであった。彼女の名誉のためにも、今ここでうんこを漏らすわけにはいかない。そんなことになれば、うんこたれ亭主をもつ不幸な嫁として近所中の噂になってしまうであろう。

 鬼の形相で居間を抜け、キッチンを通過した。身体はエビのように反りかえり、ギリギリのところでテンションを保ってはいるが、汚物が怒涛の勢いで溢れだすのも時間の問題である。

 這々の体でトイレに入った。

 あとは海パンをずり下げ、思いのたけを噴射するのみだ。

 勝った!

 そう叫ぼうとした瞬間、異変が起きた。

 いつもならあっさりとずり下がるはずの海パンが、ベルトで固定でもされたかのようにビクともしないのである!

 愛するちゃぎのの顔が脳裏に浮かぶ。

 なんという皮肉であろうか、彼女が処理してくれた海パンのボタンがあまりにもしっかり縫いつけられていたため、いつものようなスムーズな着脱が不可能な状態になっていたのである!

 その瞬間、太郎はすべてを悟った。

 数秒を待たずに海パンのすそから汚物がボタボタと落下していき、バスルーム内に異様な臭気が漂った。もし猫のエサなど買わずにまっすぐ家に帰っていたらオレは間に合っていたのだろうか?などと無意味なことを考えながら、彼は呆然とその場に立ちすくんだ。

 白洲太郎、39歳。

 人はいくつになってもうんこを漏らすことができると証明した男である。

 糞まみれの海パンを手洗いしてから、太郎は何気ない顔で市場へと戻った。

 海パンを履き替えたことにちゃぎのは気付くだろうか?

 そんなことを思いながら、

『毎度ありっ!』

 次々とやってくる客を相手に太郎は声を張り上げた。


白洲太郎(しらすたろう)
2009年から海外放浪スタート。
約50か国を放浪後、2011年、貯金が尽きたのでブラジルにて路上企業。
以後、カメローとしてブラジル中を行商して周っている。
yutanky@gmail.com
Instagram: taro_shirasu_brasil
YouTube: しらすたろう


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