「クリエイターに喜んでもらうことが一番の喜び」凛として時雨・ピエール中野が振り返る、ピヤホンと音作り。
「音楽」をテーマに繋がる場所を作りたい、という想いで本マガジン「いや、ほんと音楽が好き。」を始動したピエール中野。凛として時雨のドラマーとしてはもちろん、様々なミュージシャンのライブやレコーディングに参加するほか、ドラムチューナーやDJなど、幅広い活動を行なっている。多様な音を聴き、さまざまな環境で演奏してきた知見を活かし、2019年にはイヤホン「ピヤホン」シリーズも立ち上げた。
今回は7月18日、ピエール中野の42歳の誕生日を記念し、本人へのインタビューを実施。現在特に意識しているという健康についての話をはじめ、音楽遍歴、これまでの活動や音への向き合い方を振り返りながら、「ピヤホン」のバックボーンに迫る。
厄年をきっかけに、身体と健康に向き合い始めた40代
2022年、凛として時雨が結成20周年イヤーに突入した。全国ツアー「DEAD IS ALIVE TOUR 2022」を完走、8月には追加公演「DEAD IS ALIVE TOUR 2022 ~竜巻いて延命~」を控えている。ドラム担当のピエール中野はツアー前に左足を怪我するトラブルにも見舞われた。
ツアー初日には無事完治したが、それ以外にも不調を感じることもあったのだという。ドラマーとしてのキャリア、そして年齢を重ねることや、肉体の変化によって、音楽に向き合う際の意識が変化してきたと語る。
「僕は今年、42歳になります。男性は厄年、正確には後厄の年なんですよ。40歳になると人間ドックも推奨されるし、ちょうど身体の不調が起こりだす、ひとつの壁というか警告というか。僕も40歳になってから、近所のパーソナルトレーニングジムに通い始めたり、食事を変えたり、健康に人一倍気を遣うようになりました」
歳を重ねるごとに、これまで抱いていた「ドラムのための筋肉はドラムを演奏していれば鍛えられるだろう」という認識が変化してきたことも、パーソナルトレーニングを始めたひとつのきっかけだ。
「これまでは、脱力して軽々叩けていたものが叩けなくなるのが怖かったんです。でも、今は『余計な筋肉をつけたくないんです』とか、都度トレーナーに細かい事情を伝えて、僕に合う筋肉をつけるやり方を教わっています。それを続けていくうちに、本当に演奏が楽になって。今、一番いい状態で演奏できていますね。
メンタル面はとにかく生き延びることが回復に繋がるし、楽になってきているけど、今はフィジカル面をすごく意識しています。『怪我をした時にどうやって回復させていくか』とか『どうやって他の面で補っていくか』を考えるのが重要だと感じています」
「意識していなかったことを強く意識するようになったかな」とフィジカルを見つめ直すことで、自らのプレイに対しての解像度も上がっているという。
「10代20代の頃は『なんとなくこれがかっこいい、なんとなくこれが正解』っていうものが感覚的にあったんです。加齢や経験とともに、感覚で捉えていたものが『やっぱり正解だった!』と確信に変わり、、ピントがめちゃくちゃ合っていくようになりました。自分がなんとなく思っていたり、感覚で捉えていたことの強度が増していっています」
GLAY、大森靖子、星野源……様々なバンドと演奏して得た、時雨だけでは気づけなかったスタイル
凛として時雨以外のミュージシャンたちと音を交えるなかでも、演奏にピントが合う感覚やプレイスタイルの拡張を実感する瞬間が。凛として時雨以外で初めてドラムを求められたGLAYとのレコーディングを振り返り、中野はこう語る。
「そもそも“ピエール中野のドラム”を想定してオファーしてくださっているので、いつも通りというか、むしろ過剰に“ピエール中野”を演出するくらいの演奏をしたんです。そしたら追加オファーをくださって、しかも、僕のドラムがハマるんじゃないか?という曲をあててくれた。実際にそれがめちゃくちゃハマって、次もGLAYの現場に呼んでいただきました。
その楽曲は、いわゆるピエール中野のパブリックイメージとは真逆の演奏を求められる、淡々と刻むようなバラードだったんですけど、いい感じに入り込んでいく演奏ができて。僕はずっとGLAYやL'Arc〜en〜Ciel、JUDY AND MARY、SIAM SHADE、X JAPANなどを聴いて育ってきたんです。その音楽の遺伝子が自分の中に流れているということを改めて感じた出来事だったし、叩くごとに求められているイメージもはっきりしていった。何より、尊敬しているアーティストと一緒に演奏して、自分のドラムがちゃんと認められたことが、僕にとってすごく大きかったです」
数多くのミュージシャンとの関わりのなかでは、“ピエール中野”のドラム以上のことを求められることも。大森靖子さんのバンドでは、すでにツアーに参加していたスタジオミュージシャンたちにかなり鍛えられたと話す。
「幅広い楽曲を演奏するうえで、凄腕のミュージシャンたちに『そうじゃないんだよ』ってことをいっぱい言われて。改めて、自分のドラムと向き合ってどうしたらいいのか考えました。そこで、10代の頃は、ドラマーのプレイスタイルをひたすらコピーしていたことを思い出したんです。
それからは楽曲に対してなんとなく自分流で叩くんじゃなくて、本当の意味での完コピに挑戦しました。そしたら『そういうことだよ。ドラム変わったね』と言ってもらえて。時雨という自分のバンドにいるだけじゃ気づけなかった点だったし、いくつになっても学びはあるんだなと思いました」
プレイヤーとは違う、ドラムチューナーとしての視点
KEYTALKやthe peggiesなどのドラムチューナーも務めたことのある中野だが、ドラムチューナーとしては「まずは音楽とプレイヤーありき」の音作りをしていると語る。
「まずは楽曲がどんな音を求めているかを探すことから始めます。そこから、ドラマーがどんな音を出したいか、技術的な面も含めてどんな音を出せるかを意識する。あとは現場に入って、実際に楽器を触ったり演奏してもらったり、プレイヤーやエンジニアに会った感触を確かめます。
楽器と人に向き合いながら、“きっとこういう音が求められているんだろうな”っていう正解に向かっていくんです。また、マイクで録音されることで音の印象が変わっていくので、エンジニアやプロデューサー、編曲家の判断のもと、ひたすら微調整していきます」
「ドラムセットを組む場合もネジ1本からこだわって、細かすぎるほどに突き詰める」という中野。音に対しての緻密なこだわりと、ドラマーとして強い存在感を放ちながらも、ドラムチューナーとしてのメタ思考を持ちわせたバランサーでもある彼の視座が、繊細な一音をも眼前に迫らせるピヤホンにも活かされている。そんなバランス感覚は、専門学校での出会いによって培われていったという。
「専門学校に入って、めちゃめちゃ勉強のできる本当に頭のいい友人といい先生に出会ったんです。思考せずになんとなくできていたり、なんとなくうまくいっていたことに対しても、『なぜできたのか?』と思考を巡らすことが大事だと思えたのは、ふたりとの出会いが大きいです。
専門学校には音楽の道を目指すいろんな人が集まっているんですが、その友人は『なんで音楽で飯食っていこうと思うの?』ってくらい頭キレッキレだったんですよ。すごく知的で頭がいいし、おもしろいから、彼とずっと一緒にいました。
夜通し喋って『中野君にはこういういいところがある』『こういうところはもうちょっとこうしたほうがいいんじゃない?』って、認めてくれながらもいろいろ教えてくれて。ふたりが、僕の思考の起点を作ってくれましたね」
ドラマーに必要なことは「練習と努力」、そして思考
ドラムは、生まれ持った体格などを含め、フィジカル面での強さが求められる楽器だ。ドラマーに必要なことは「練習と努力」と繰り返す中野だが、その練習と努力の中でも思考することが重要だという。
「プロのドラマーは、自分の体格を長所にするんですよ。身体が細いからこそ出せる音、逆に大きいからこそ出せる音がある。プロは全員、自分の長所をうまく味方につけています。
どうやって味方につけるかというと、マジで練習しかないんです。練習を重ねて、勉強して、いろんなドラマーを見たり、プロのドラマーと接したりすると、練習自体の質がどんどん上がっていく」
練習の量と質の相関性。「練習量がないと質は上がっていかない」と中野は繰り返す。しかし、量をこなすといっても、どうやって自分に合った練習法を見つけ出せばいいのだろうか?
「適した練習方法やどんな質を高めるのが必要なのかは人によって違います。だから、とにかく自分でいろんな練習法を試すこと。量をこなして考えて、見つけるしかないんですよ。まずは、自分に合った練習法、向上させたい質が何なのかを探す努力をすること。そして、それは自分で見つけるしかないということを知っておくのが大事だと思います」
ドラムを始めたきっかけは「将来の不安とモテたいって気持ち」
「ドラムに関しては、たまたま努力が続けられた」と語る中野。もともとスポーツの道に進もうと考えていたが、中学時代に怪我でレギュラーから外れた経験がある。夢破れ、将来に不安を抱き始めた時に、音楽に出会った。
「たまたまクラスの子がギターのカタログを持ってきて、『楽器屋いってみない?』ってところから始まったんですよ。当時からお笑いも好きだったんですけど、完全な実力主義のスポーツと違って、お笑いや音楽、芸術の分野は実力以外にも評価点が存在する。そこだったらまだ自分も生きていける可能性があるかもしれないって思ったんです。
当時は今よりもドラムを始めるハードルが高くて、ギターやベースよりプレイヤー人口も圧倒的に少なかったんですね。だからこそドラムをやってみようと思って。やり始めたら、すごくすんなりいろんな技術が身につきました。
ちょうどYOSHIKIさんのように派手なプレイスタイルのドラマーが目立った時期だったのも大きいです。吹奏楽部の1個下の男の子がX JAPANを演奏していて、キャーキャー言われてたのを見て『マジ?ドラムやろ!』って(笑)。将来の不安とモテたいって気持ちで始めましたね(笑)」
「ピヤホンを作るのも、音作りも、クリエイターに喜んでもらうことが一番の喜び」
そんなティーン時代を送りながら、同時に様々なジャンルの音楽を聴き漁っていた中野。ある種ミーハー的とも言えるその原体験が、ドラマー、ドラムチューナーとしての音の感覚、そしてどんな音楽にも合う「ピヤホン」の音作りに繋がっている。
「同級生がオリコンチャートを見ている時に、兄の影響でUKチャートを見て出始めのThe Prodigyを先取りして聴きつつ、世代に素直に生きてチャゲアスのシングルを全部買うみたいなこともやっていたんですよね。求められている空気感もわかりながら、誰も知らない情報をシェアして喜びを分かち合うことが、僕の欲望として強いのかもしれないです。
つまり、僕はクリエイターというよりキュレーターなんですよ。1から100にすることはできるけど、0から1は作れない。だからクリエイターに憧れるし、本当に心から尊敬してる。ピヤホンを作るのも、音作りも、クリエイターに喜んでもらいたいからなんです。それが、僕にとっても一番の喜びです」