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廃墟の写真展

これは、今年の廃墟の写真展に訪れた時の備忘録。

私は、廃墟が前から好きだった。

今日、こうして記録に残そうとしたのは、廃墟という「概念」の再解釈そして、廃墟がどうして好きかという事が、今日観た展覧会で言語化できたからだ。

廃墟というのは、どの様な捉え方をされるか?

「恐怖」「ボロボロ」「暗い」「心霊」「カタルシス」「残像」「人生」
2019年、ギャラリーにいた自分はこう答えた。

*残像について
→廃墟がそうでなかった頃をイメージし、廃墟の写真と照らし合わせる事。私は写真に写っている電化製品などをヒントに当時の解像度を上げる様にしている。

*人生について
→廃墟の元オーナー、関係者の思いを馳せる事。廃墟に至るまでに彼らはどの様な苦難やドラマがあったのか。それが自分たちへの教訓となり得る事もある。

今日、2024年の自分はそれらの中に以下の言葉を加えようと思う。
「還元」

建物があった場所はかつて自然があるのままの姿であった。

その後に、人間の手で物質を変化させ作り上げられた、建築と呼ばれる「機能」を持った物質が元々あった自然に蓋をした。
廃墟とは、「機能」という呪縛を解かれた事により、人間によってなされた蓋が取れつつあるという事。
元々は、何も無かった。私たちは廃墟を見ると、元々あったものが失われたように思われるが、それは実は本来の姿への「還元」に過ぎないんだと。

展覧会の写真を眺めていると、そこにいた人たちの営みが静かに砂になっていく姿を見ている様だった。
自分は、これが好きだったのだ。

たまに、備品が異様なほど丁寧に並べられた写真を見ることがある。
写真映えをさせるために、人為的に廃墟の備品を再配置された写真よりも、手付かずのまま朽ちていく写真の方が好きだ。

これこそが自由なんだと。

人間による、虚構の定義から解き放たれた物質の姿は、「定義」と「自由」を浮遊する宇宙のようなもの。
廃墟とは、時間と共にその姿を「定義」から「自由」へと変えていく。
そしてそれは、誰しもが感じる「カタルシス」や「美しさ」という概念のコードに埋め込まれてしまっているのかもしれない。

展覧会を後にし、駅へ向かう。
駅の近くで、1枚の写真を撮った。

なんの変哲もない写真。しかしその写真には、一切の自然が無い。
完全な蓋をされている事に気づく。

ここの本来の姿がどうだったかなんて、今を生きている人が知る由も無い。
しかし、ここには確かに始まりがあった。

今の私たちには、営みこそ全てだった。

(「還元」とは、感情の無い普遍的な言葉だ。廃墟の当事者であれば、この表現には甚だ違和感を感じるであろう。当の私も不動産に携わった人間として、同意できる。だからこそ、念が存在することを否定できない。)


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