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ハンドスタンド

小学校のころ、かけっこが苦手で、当時好きだった女の子よりも遅かった。かけっこに限らず、運動自体が得意ではなかった。体育という授業や休憩時間のドッヂボールだったり、キックベースには随分と苦手意識を持っていた。リーダー的な子どもがじゃんけんをして選手を取り合う時に、最後の最後まで残るタイプ。

少年野球のチームに入っても、バッターボックスに入れば、眼を閉じてバットを振って三振をするような。守備についてもボールが飛んで来ないように祈っているタイプの子どもだった。

恥ずかしくて、惨めで、でも自分に諦めきっている。

そんな子どもが現在、身体に関する仕事をして生計を立てている。子どもの頃から元気に公園で遊んでいそうな人たちに対して、ピラティスやボディワーク、セラピーを教えたり、最近だったらヨガを一緒に学んだりしている。

この子は子どもの頃、こんな感じだっただろう。運動好きの元気な女の子がスクスクと育って、その延長線上にヨガと出会って今に至ったのかな。そんな感じの人もいれば、紆余曲折の先に出合って、そこに何かを見い出して、あるいは見い出そうとして生きているのかなとか。人それぞれの背景、人生、道がある。もちろん、良いも悪いもなく、それぞれがそれぞれに。

治療的な分野のピラティスについては、自分なりに完成されたものを持っていて、その内容には圧倒的な自信がある。歩行器に頼りながらの生活、医師も見放した麻痺の残ったあの状態から、解剖学書を見ながら動きを探求した日々がその根拠だし、周りが呆れるぐらいの努力もしてきた。他のいくつものボディワークを学び、ロルフィングのエド博士の家に泊まりこんで学んだ。人体解剖でもなんでも、高められるなら、深められるなら、なんだってした。

そう、なんだって。

ヨガの先生が、「今からハンドスタンドをやります。できる人?」と質問されて、ぼくの心は10歳やそこらの小学生に戻る。過去積み上げてきた知識、経験はその瞬間消えて、子どもに還る。

学校の体育館で楽しそうに何度も何度も、逆立ちに挑戦している子がいた。小学生のぼくはその子を憧れるでもなく、ただただ、別の生き物か何かのように眺めていた。ぼくとは全く違う生き物。強くて、元気で、ぼくとは違う生き物。ぼくにできるはずがない。怖い。できなくても、何も困らない。

でも、数十年後、取り組むことになった。

自分の身体哲学上、正直、優先順位は高くはない。足の裏が床に設置しているもので、もっとやるべきことがぼくにはある。でも、ハンドスタンドをするとなった時に時計の針は何十年と巻き戻されて、目の前には活き活きとハンドスタンドをする元気な子がいて、またぼくはそれを見ている。

「君は見ているだけで、やらないの?」

30数年前のぼくは「僕はいいよ」と言ったはずで。

そんなことを考えると、時間をかけて取り組む価値があるのかもしれない。

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