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生活で性格は変わる(変わってしまう)後編

告別

私の最も好きな詩人の一人が、宮沢賢治です。

都度都度、節目節目に告別と題された詩を読み返します。宮沢賢治が、教え子たちに向けて教師を辞める際に送ったとされる詩です。


けれどもいまごろちょうどおまえの年ごろで
おまえの素質と力をもっているものは
町と村との一万人のなかになら
おそらく五人はあるだろう
それらのひとのどの人もまた
五年のあいだにそれを大抵無くすのだ
生活のためにけづられたり
自分でそれをなくすのだ
(告別/宮沢賢治)

才能は簡単に失くなってしまう

町と村との1万人の中に5人はいる素質と力を持った人たちが、生活の中で削られて失くしてしまうことを宮沢賢治は嘆きます。

素質や力は、宮沢賢治が言う通り自分で失くしてしまうのです。好きでもないのに続ける仕事、偽りの人間関係、生活のために我慢し続ける中で素質や力は削られ続けます。惰性で生きていたり、怠惰に過ごしていれば、更にあっという間にそれらは消えてなくなってしまうでしょう。

前編中編と繰り返し伝えていることですが、多くの人が未知なる世界に勇気を出して飛び込む必要があるのです。どこに身を置くのか(誰から学ぶか、何を学ぶか、どこで働くか、何をして時間を過ごすのか、何を読むのか、何を聴くのか、何を食べるのか...)はとてもとても重要なのです。

賢治に嫌われるような人間にならないために

彼の詩はさらに続き、私たちの心に迫ります。

恐らく暗くけわしいみちをあるくだろう
そのあとでおまえのいまのちからがにぶり
きれいな音が正しい調子とその明るさを失って
ふたたび回復できないならば
おれはおまえをもう見ない
なぜならおれは
すこしぐらいの仕事ができて
そいつに腰をかけているような
そんな多数をいちばんいやにおもうのだ

ボーナスが周りの同僚よりも多いだとか、昇進したとか、そういうのは本当にどうでもいい。そう、思いませんか。もちろん、それが自分の好きな仕事なのなら素晴らしいことです。でも、自分の素質と力を削りながら、誤魔化しながら生きて得たものなら、私は宮沢賢治の嫌に思う多数に成り果ててしまうだろうと思うのです。

私自身、10年前、年商200億円強程度の中小企業に勤めていました。出世頭という訳ではまったくなかったのですが、ある日課長に昇進する内示をもらいました。その時にはもう、会社を辞めてピラティストレーナーとして生きていこうと決意をしていました。ピラティスで得ている月収はごく僅かです。会社から支払われるお給料の10分の1程度。それでも、決意が揺らぐことはありませんでした。1年で辞めようと決めて、その決意通りに未知に飛び込み、今の自分につながっていきます。

「お金がなくなって食べていけなくなれば、自死すればいい」。不謹慎ですが、そんなことを真剣に考えて会社を辞めました。私にとっては、宮沢賢治に嫌われてしまうような自分になることの方がお金がなくなって生きていけなくなることよりも、余程切実な問題でした。

最後に

みんなが町で暮らしたり一日あそんでいるときに
おまえはひとりであの石原の草を刈る
そのさびしさでおまえは音をつくるのだ
多くの侮辱や窮乏のそれらを噛んで歌うのだ
(告別/宮沢賢治)

この世界に頑張っていない人は一人もいません。誰もが頑張っています。でも、多くの侮辱や窮乏を避けるように頑張ってしまう生き方もあります。それが自分らしさ、輝き、可能性、才能を失うものだとしても、そういう形で往々にして私たちは頑張ってしまうものなのです。不自然な形で、ある意味、間違った形で私たちは頑張ってしまうものなのです。

この詩に初めて出会ったのは、大学生を卒業する直前でした。この詩の朗読を聞きながら、涙が止まらなかったのを覚えています。それから何度も何度もこの詩を読み返し、今も泣きそうになります。生活によって、性格は変わる(変わってしまう)のです。良くも悪くも、変わる(変わってしまう)ものなのです。

君は、どういう生活を選びますか。君の話をいつか、会った時に君の言葉で話してください。


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