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週末の越境

週末、自分には必要に感じていない分野のワークショップに行ってきました。

必要に感じていないと言っても、その分野の頂きに立っているという意味ではありません。それほど、私は傲慢でもありません。ただ、その分野において既に学ぶ対象があり、課題も明確で、特に混乱をしているわけでもないし、道に迷っているわけでもない。だから、友人がその先生やその教えを絶賛していても、わたしにはわたしの道があるので、「ああ、そう」といった感じでした。

いえ、もっと正直に言えば、友人たちがたいしたものでもないのに、(純粋であるが故に)過剰に良いように思い込んでいるのではないか、とすら思っていました(友人の人物眼を信頼していないようで、罪悪感が湧きますが、実際、そう思っていたのです)。

そう思いつつも、友人たちは何度も、その素晴らしさを僕に伝えます。それほど言うなら、「越境してみるか」という気分で、週末の2日間、3つの講座を申し込んでみました。

初日。後半からの参加です。
ある種の疑いを持ちつつ、講師を見ます。

先ず、安堵したのは講師に嘘がなく、欺瞞がなく、圧倒的なその分野の知識があって、信頼に足る人物だとわかりました。

「嗚呼、友人たちは騙されているわけでもないのだな。」

ただ個人的には、講師にもそのワークショップに内容にも、魅力を感じることがありませんでした。冒頭に述べたように、私には私の道があり、特に興味を惹くことも、何か自分の中でのセンセーションが起こることもありませんでした。

「翌日にまた片道1時間半かけて、ここに行くのか。
足が重いな。」

そう思いながらも、「決めたことだから」とキャンセルすることなく、2日目を迎えます。

ワークショップは、この日も前半後半と2部制になっていました。
そのどちらも前日と同様、特に渇望するような動機はなく、友人が薦めていること。そして自分の中で疑いが既にあったので、その疑いどおりの対象であれば、2日目は苦行でしかないかもしれない。でも、疑いが誤解であった場合、その誤解を一瞬で解くだけの柔らかさは、自分にはまだないかもしれない。であれば、その誤解を解くチャンスが多ければ多いほどいいだろう。ならば、2日目の前半と後半、どちらも申し込んでおいた方が良いに違いない。そういった考えから、どちらも申し込みをしていました。

前半。

講師が普段している鍛錬として、僕たちがビックリ人間といった感じでテレビで見るような動きを、私たちに見せました。その表情や言葉は生き生きとしていて、楽しそうです。そして、参加者に対して優越感など微塵もなく、ただ楽しそうに、「ぼくの好きな遊びだよ。きみもやってごらんよ。一緒にやろうよ」と砂場で、純粋な会話がはじまるかのように、彼は「じゃあ、やってみましょう」と言いました。

とても良い声のトーン、そして、とても良い表情でした。彼のエネルギーの純粋さ、美しさに魅了されていました。

その声や表情によって、自分には随分と壁があったことを改めて自覚し、好奇心を持って、その彼の教えの通りにおこなってみました。

彼が伝える、最初のステップ。
言われたとおり、取り組みます。
できているような、できていないような。
初めてのことなので、手応えが曖昧です。

「触ってもらっていいですか?」

触ってもらって、できているかどうか確認してもらうと、できていなかったようです。

できていないんだけれど、恥を感じない。彼の柔らかさ、純粋さ、エゴのなさによって、それ(安心感)はもたらされています。

私が飛び込むことによって、私の中で、さらに溶ける(解ける)"何か"があります。

「面白い…」

そして、前半を終えて、昼休憩になり、彼はよいタイミングで、僕に話しかけてくれました。雑談、いくつかの質問、やりとりをしました。横にいた薦めてくれた友人が「葉坂さん、もってるわ〜」と、年下なのに、年上のお姉さんかお母さんのような表情で、私を見ていました。

"何を"持っているのでしょうか。

自らの壁を崩して、素直になる勇気?

本当に自分がもっと柔らかくなっていれば、もっと研鑽が進んでいれば、初日から素直な自分で聴講できたでしょう。初日は自分のエゴ、傲慢さによって、不毛なものになりました。そう考えると、2日目も申し込んでいた運でしょうか。

何を持っているのか、それは曖昧ではあるものの、確かに好運に恵まれており、頑固になりはじめる立場、年齢でありながら、開き直らず、柔らかくなる試行錯誤は続けられている。仏教で言うところの善友、薦めてくれた友人を持っているとも言えます。

兎も角、良い学びになりました。


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