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他人と比べてしまうキミへ

ぼくのことをキミがどれだけ知ってくれているのかわからないですが、ぼくは今の仕事にたどり着くまでの間に2度ほど大きな手術をしています。他にも大雨の日にバイクが転倒して足首の大きな捻挫も経験しています。学生時代にはスポーツ中の事故で…、とまあキリがないです。いろいろと歴史のある身体をしています(笑。

アウェアネスがすべて

自動車の修理とは訳が違うので、怪我をしてしまうと身体は元通りには基本戻らないのが実際です。捻挫というとたいしたことがなさそうだけれど、靭帯は伸びてしまったら、元には戻りません。その伸びた靭帯と付き合って残りの人生を生きていかなきゃならない。帝王切開だったり、ぼくみたいに腸閉塞になったりしてお腹を切る手術をしたなら、切ったものを縫いあわせるわけで元には戻らない。ダウンジャケットを一回ハサミで切って、またきれいに縫い合わせても元の暖かさは取り戻せないのは想像できるはずです。冷え性になりやすかったり、腰痛が起きやすくなったり、その経験を背負って生きていくしかないんです。

ガッカリするかもしれないけれど、その経験を人生に活かすことができれば、その後の人生をより良くすることができます。虫歯をきっかけにていねいに歯磨きするようになったのなら、長い人生で考えれば、虫歯になってよかったのかもしれない。癌になってことがキッカケで仕事を変えて、住む場所を変えて、生き方が変わったりする人もいますよね。

ボディワークの世界では「アウェアネス(気づき)」という言葉をよく使うし、何キロ持ち上げられたとか、何キロ痩せたということよりも、「どういう感覚を得られたか」「何に気づいたか」といった感覚を大切にしています。

「その経験からどういうアウェアネスを得て、どう人生に活かすのか」

キミがもし大きな怪我や病気をしたり、身体のことに限らず、何か挫折だったり、痛みを経験しているなら。立ち止まって、アウェアネス(気づき)に目を向けて欲しいんです。

他人や過去と比べない

ピラティスやヨガのグループレッスンに参加したり、ボディワークやフィットネスの何かを学んだりすると、他人と比べてしまう気持ちが湧いてきます。

「わたし以外はみんなできているポーズが、わたしだけできない」
「ぼくだけ、手が床につかない」
「わたしがこの中で一番太っている」

いろいろな考えが、心の中で浮かぶかもしれません。「他人より身体が硬いことを比べることなんてないね」という人も、友達が乗っている車と比べて落ち込んでいるかもしれないし、子供の成績を比べて気分が良くなったり、イライラしているかもしれない。「他人と比べない」って、当たり前の小学校の道徳の本にでも書かれていそうなことだけれど、難しいですね、本当に。実際、「他人と比べてはいけませんよ」と言っている先生で他人と比べることを手放せている人がどれぐらいいるんですかね(笑。想像もつかないですが、本当に難しいことだと思います。

ぼくみたいに歴史がある身体と共に生きていると、より一層そういう傾向が強いかもしれません。大きな怪我を経験してこなかった(であろうと勝手に思い込んでいる)隣の人と比べて落ち込んだり、羨ましくなったり。あるいは他人と比べてなくても、怪我や手術をする以前の自分、過去と比べているかもしれない。「昔ならできたはずだ」とか、ね。

良い詩に、最近出会いました。

ラム・ダスの詩

森の中に入り、木々を眺めてみると、
ひとつ、ひとつが違っているのがわかる。
曲がったものもあれば、真っすぐなものもあり、
常緑樹もあれば…その他いろいろだ。
木を見て、その木をありのままに受け入れる。
その木が、なぜそういう木なのか分かる。
十分に日が当たらなかったから、
そんな風に曲がったんだ…など、
なんとなく理解できる。

感情的にはならない。
ただありのままを受け入れることができる。
その木の良さを認めることができる。
ところが、
人間のこととなると、
途端にそのような物の見方を失ってしまう。
そして「あなたは、こうありすぎる」だとか、
「私はこうありすぎる」と絶えず言ってしまう。
ジャッジする思考が入ってくる。

だから私は、人を木に変えて考えるようにしている。
つまり、その人を、ありのままに受け入れるということだ。

とても自然に、読み終えるとスッと刹那、比較の罠から抜け出せるような素敵な詩だと思いました。他人と比べずに、ピラティスやヨガ、ボディワークその他。キミが取り組んでいる"何か"を続けてください。これから"何か"をはじめようと思ったのなら、ぼくに会いにきてください。

最後まで読んでくれて、ありがとう。

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