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「勉強したくてもできない人が居るから、勉強しなさい」は正しいのか

Q. 勉強したくてもできない人がいるから、勉強しなさい。
A. それは自戒の言葉であって、人を叩くために使ってはいけない。

始めに

こんにちわ。ぴくむんです。

私は、
小さい頃から実生活で役に立たない学問ばかり教えられる。
「現代社会でダイレクトに役に立つ学問がない」
研究は、勉強の醍醐味であるのに大多数の人がやっていない。
「大多数の人は研究をする機会がない」

ことに対して疑問を覚えていました。そこで、

国なんてあてにせずに
自分の力で「実生活に直接役に立つ学問の確立」することや、
大学に行かなくても「誰でも研究できる環境の整備」する活動を始めようと思いました。

この記事では、「実生活に役に立つ学問の確立」の一歩として、「勉強したくてもできない人が居るから、勉強しなさい」という論調が果たして本当に正しいのか、真剣に考察してみました。

それでは、よろしくお願いします。

本文

よく説教する論調として、「〇〇の人たちは、やりたくても出来ないだから、やりなさい」がある。果たしてこれは、正しいのだろうか。

「〇〇の人たちは、やりたくてもできない」というのは、これは一つの事実である。世の中には、勉強したくて出来ない人たちも居るのは事実である。しかしながら、逆を言えば、勉強をしたくなくてもやらされる人たちがいるのも事実である。これらは
「叶えたい欲求を叶えられない」

「やりたくもない事を強制される」
という違いである。

次に、これらを理由にして、「やりなさい」という強制をするという事である。
最後は強制の一文が待っている。
上の文章を言い換えると、
「叶えたい欲求を叶えられない人がいるので、その欲求を叶える事を強制される」わけである。さて、強制という行為は、果たして正しいのだろうか。

教育という面では、子供にマナーを強制させる。
例えば服をちゃんときなさいとか友達をいじめてはいけませんとかある。あくまで、「自分で生きていく力を身に付ける」為に教育する。
その時の大義として、「叶えたい欲求を叶えられない人」が出てくるだろうか。
恐らくそこには出てこない。
「この世には友達がいない人もいるのに友達をいじめてはいけません」
という論調はおかしいだろう。

正当な理由がある時は、「叶えたい欲求を叶えられない人」を根拠にする論調は出てこないのが一般的である。

恐らく上記の論調が出てくる時は、上手く物事を説明できないが習慣や慣例もしくは、不思議な何かを伝える時に出てくる論調だと思う。

よくよく考えてみるとおかしな話で、
「叶えたい欲求を叶えられない人がいる」
というのは本当に理由になるのだろうか。

例えば、「ベンツ買いたい人がいるのに買えない人がいるから、ベンツを買う」とか「彼女作りたくても作れない人がいるから、彼女を作る」という論調は破綻しているとしか思えない。

客観的に見ると、「そうしたい人がそうすればいいだけの話」となる。

場合によっては、その論調が成り立つ時もある。
時々、人生に苦悩したら「知覧特攻平和会館」に行けという言葉がある。
これは、特攻隊に入って若くして死んでいった若者の遺品を飾っている様な場所で、行くと「若者は生きたくても生きられなかったので、私は彼らの分まで強く生きよう」と思うらしい。
しかし、これは現地に行って、何か不思議な力をもらった場合のケースである。しかも、これはパワーをもらった本人の言葉である。

自戒

日本の言葉には、「自戒」という言葉がある。自戒とは、自分で自分をいましめることである。恐らく、「〇〇の人たちは、やりたくても出来ないだから、やる」というのは、自戒の言葉に分類されるのだろう。そして、Twitterで有名な皮肉の漫画を書いているスルメという方は以下の漫画を書いてある。

https://twitter.com/surumelock/

つまり、「〇〇の人たちは、やりたくても出来ないだから、やりなさい」は、漫画の3コマ目に分類されるのだと思う。あくまで、自分を叩くための言葉で、他人から言われる言葉ではない。

つまり
正しい論調としては、
「この世には、〇〇をやりたくても出来ない人たちが存在します。彼らは生まれた時からその事を強制させられていました。私は、その人たちの事を考えるととても悔しくなり彼らの無念を晴らしたいと思いました。貴方はそうは思いませんか?」
であると思う。

勉強に当てはめるのであれば、
「この世には、勉強をやりたくても出来ない人たちが存在します。彼らは生まれた時から勉強する機会が奪われ、働くことをを強制されています。私は、その人たちの事を考えるととても悔しくなり、彼らの無念を晴らしたいと思いました。貴方はそうは思いませんか?」
が正しい論調なのだと思う。

あくまで「自戒」という棒を渡し、叩くかどうかは自分で決めさせるというのが正しいのであろう。

「自戒」で相手を叩く場合、効果はその場限りでしかない。
自分の心の底から思ってないからだ。

ただ強制されたという結果が残るだけである。

つまり、本当の意味で説教がしたいのであれば、実際に「自戒」が生まれた場所に連れていくなどして、相手が自分自身で「自戒」を思い付かせる様な事をするしかないと思う。

これは、別にこの論調に限った話ではない。
この様な「自戒」で相手を叩く行為というのは、どこにでもあふれている。
居酒屋で始める人生観の説教や、友人と話す恋愛、結婚観の雑談など誰しもが「自戒」で叩かれたことがあるだろう。
「自戒」で叩かれた場合の対処法として、「そうしたい人がそうすればいいだけの話。私は私。他人は関係ない」と言い切ってしまえばいい。

「自戒」を思い付かせる為に毎回相手を連れ回したり、諭せたりすることができるわけではない。時には何かを成す為に、無理な論調で相手を強制させることも必要だろう。
ただ、「〇〇の人たちは、やりたくても出来ないだから、やりなさい」への違和感の原因は、「自戒」で他人を叩くという行為に見えたからだろう。

あとがき

いかがだったでしょうか。

一応触れておきますが、
論調として正しい


結果として正しい
というのは別です。

親が子供に向かって「勉強しなさい」というのは、現代社会において勉強した人間の方が裕福に暮らせる可能性が高く後々楽できることを知っているので、子供のために言っているものです。例え論調が間違っていても、それが正しいということは往々にしてあります。

詭弁で言うところの

「今使っている給湯器では、ガス漏れする危険がありますので、新しい給湯器を買いませんか?」
と営業を受けた際に、不純動機の転嫁だと思い、
「どーせ、お前は物を売りたいだけだから、ガス漏れとかほざいているだけだろ。早く消えろ。」
と追い返したら、本当にガス漏れして、家が全焼した。

https://note.com/pikum55/n/ned2dd5ee4f21

に該当すると思います。
なので、例え論調が間違ったものとしても、言われた時点で自分で省みて考えて行動するべきだと思います。

改めて読みなすと面倒くさい大人になったなぁっとしみじみ思います。ひと昔前であれば、こんなこと言おうものなら、鉄拳制裁が待っていたと思います。
できれば殴られたくないですね。。。

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冒頭繰り返しになりますが、もう一度言わせてください。

私は視野の広さと興味を持てる範囲、そこから物事を考える力、素直に相手の声を受け止める力は誰にも負けません。
なので、もしよろしければ、こんな私を推してください。
推してくれたあかつきには必ず歴代史上最高に役に立つ学問を作ってみせます。

わざわざ、こんな小難しい長い弱小記事をちゃんと最後まで読んでくれるそんな貴方が大好きです。本当に感謝しています。
ありがとうございました。

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