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Twitterの愚痴垢を覗いて、創作に大切なことを考えた話


ちょっと創作活動について書きたいと思う。

Twitterは大変エネルギッシュなツールだ。リアルタイムに様々な人の意見が飛び交う様は、文字通り情報の洪水。流れの速い川で立っている気持ちになる。底にしっかり足をつけて、動かないように自分の軸をもっていないと簡単に流されて、気が付けば知らないところに流れ着いてしまうような。濁流と言ってもいい。

私はオタクだしBL読むし二次創作も好きなので、Twitterで調べることは主に推しのことだ。イラストだって小説だって大好きで、はまっているジャンルの情報を追うにもTwitterを使っている。ちょっと検索かければ有益な情報もきれいな絵も素敵な漫画も無限に出てくる。とっても便利なTwitterだが、たまにすさまじい呟きに出会うことがある。

「相互してるのにいいねをくれないなんて相互してる意味ない」
「私が絵をあげても無反応なのに○○さんが上げた絵には真っ先にいいねしてる」
「○○みたいな人ほんと無理。作品が評価されてる意味がわからない」

愚痴垢から流される愚痴である。特に私がオタクだから、創作をしている人の愚痴をよく見る。
そして私は、やめておけばいいのに、ついついそのアカウントのタイムラインを見てしまうのだ。感覚でいえば、水族館とか動物園でいきものの動きを見ているのに近いかもしれない。自分が持ったことのない感情がぐるぐると渦巻いていて、それについつい惹かれてしまう。宇宙人とか目の前に出されたら同じように思ってしまうかもしれない。それほどに興味深い。

たいへん不謹慎だけど、「おもしろいな」と思ってしまう。

前述したとおり私はオタクで、書きたいな、と思ったジャンルでは二次創作だってする。以前にとある大きなジャンルで小説を書いて、某大きな交流サイトに公開したとき、1000人以上の人が「好き!」と言ってくれて本当にうれしかった。読んでくれた人はもっと多かった。今でも忘れない。
そして書いた作品が全然評価されないこともあった。特に私がほんとに書きたかった作風とか気持ちを詰め込んだものがそうなると、なかなかきつい。

だから書いた作品が評価されないときにつらい気持ちになるのはわかる。なんでかな、とか思ってしまう。もっとたくさんの人に見てほしいなと思う気持ちは痛いほどにわかる。作品が評価されたりコメントをもらえた時には、自分自身の好きな作品が見ず知らずの人に愛された喜びで胸がいっぱいになる。

(余談だけど、評価がどうであれ私は自分の書いた小説がすこぶる好きだ。たまに読み返して悦に入ってしまう程度には)


愚痴アカウントを作ってまで創作をしている人からは(主語をでかくしてしまって大変恐縮だが)、認められたいという気持ちを強く感じる。妬み嫉みひがみという感情は、「自分は評価されないのにあの人は評価されていることが気に入らない」という気持ちからくるだろうから。

「創作したものに評価をもらいたい、好きと言ってほしい」という気持ちはとても自然なものだ。私はその気持ちが大好きだ。大好きだが、ちょっとおせっかいながら言いたくなる。その、あなたが愚痴にして吐き出してるものは、少々勿体なくないですか、と。


創作をするにはエネルギーがいる。作品を作るのに徹夜する必要があるとかそういう体力的な意味ではなくて、何かを作りたいと思う瞬間、私たちは何かしらの気持ちや熱意を持っている。持たないとかけないと思っている。
少なくとも、「この作品好きだな」と思うものからは作者の表現したいことがくみ取れる。小説や漫画だったら「人を愛しいと感じることを、この人なりに書きたかったんだろうな」とか「この言葉が一番いいたいことかな」とか。一枚絵なら「このキャラクターをかっこよく描きたかったんだろう」とか「この水の表現がしたかったんだろうな」とか。

そういう気持ちはどこからくるかといえば自分の内から出てくるものだし、そしてその欲求に従って創作するにも、そのモチベーションを保ち続けるエネルギーがいる。ずっと燃料を燃やしていないといけない。

そうやって燃やすことのできる感情があるのなら、それがたとえ負の感情だったて、創作するエネルギーにあてればいいじゃないか。というよりも、そんなインスタントでお手軽な愚痴に使ってしまってはもったいなくないか。

嫌いなものに貴重な時間とエネルギーを使ってしまうなんて、自分から出てきた天然ガスを嫌いな奴めがけて撒いてるくらい無駄じゃないか。しかも相手は受け取りもしないわけだ。撒いた燃料は風に乗ってさよならだ。

もちろん、自分が楽しく絵を描けて(または小説書けて)いればオッケー、毎日ハッピー、という人にはいらないおせっかいだろうが、呪詛のような感情を周りに撒いている人ならば、そうではないんだろう。自己完結できてないから、吐き出しているんだろう。


愚痴を吐き出す前に、別のことをしてみたらいいのにな、と思う。せっかくインターネットがあるわけで、せっかく「自分が嫌いな作品が多くの人に認められている事例」が目の前に転がっているのだから、「嫌い」とか「むかつく」とか一瞬の感情で終わらせずに研究してみてはいかがか。
もしも自分がそのように評価されたいなら、それを見て自分なりに分析したらいい。そうしたら流行る作風とかシチュエーションが見つかるし、気づきたくなかったことだって見つかる。「私の嫌いな作風がこの界隈では流行る」という悲しい現実とか。

私自身が小説を書いていた時にぶち当たった問題点は、「そもそも作品の数が少ない(圧倒的に遅筆だった)」とか「文体が流行っている作品や作家さんと比べて堅苦しい」とか。最終的に「私の作風は一番需要がある作風・シチュエーションではないな」という考えに帰結した。だからと言って作風を変えることはしなかったし、無理にペースを上げて書く気もなかった。結局、私は私の作品が好きだったから、そのままでいることにした。

「自分の作品は評価されないのに嫌いな人の作品は評価されている」と思っている人で、もし自分との違いを考えたことがない人がいれば、やってみてほしい。やってみたうえで、自分が認められたい気持ちと、自分の表現したいものを天秤にかけてみたらいい。

もしも「認められたいという気持ち」が勝ったら、自分が嫌いな相手だろうが嫌いな作風だろうが、研究したり技を盗んだりしたらいい。踏み台にしてやる、と思えば負けた気にもならないのではないか。

たまに「評価のために作風を変えるなんてプライドがない」と言われることがあるが、私はそうは思わない。認められたいとブツブツSNSの片隅で言っていたところで何も変わりはしないのだから、自分が変わるしかないのである。本当に表現したいことを忘れないで、いつかファンが沢山ついてどんな作品だって見てもらえるようになれば、形にして発表すればいい。

創作をしている人間は、演劇でいうところの裏方仕事だ。発表する作品のために舞台を組み立てて、観客を増やして、そして真っ先に注目を集めるべきなのは自分の作品だ。もちろん裏方の作者自身を好きになってくれる人だっているが、それには舞台を一回見てもらう以上に長い時間がかかる。リピーターというのは獲得に時間がかかる。

自分が舞台に立っていたって何もならない。裏方スタッフがいつまでも舞台上ででかい声出していたところで、お芝居を観たいお客は素通りしていく。たまに裏方に興味がある奇特な客が立ち止まって声をかけてくれるだろうけど。
自分の作品をたくさんの人に見てほしいなら、まずは何とかして客を集めて発表の場を整えないといけない。そして評価をもらいたいなら、客の求めるものを、作る側が理解することも必要だ。

今高い評価を受けている人達は多分、どんな作品を書いてこそすれ、そういった努力をしてきた人たちだ。「あなたの作品が好きなんです」と、お客に言ってもらえるように努力をしてたはずだ。楽して評価されてるなんて、そんなことはありはしない。


自分の気に入らないものは認めたくないけど人には認められたい。
自分は変わりたくないけど周りには変わってほしい。

誰かのことを妬む人は、そんな人なんじゃないか、と思う。

ただ残念ながらそんな都合のいい話はこの世の中転がっていない。
現実世界5人程度のお友達グループならまだあり得る話かもしれないが、インターネット界でそんなことは万に一つも起こらない。

嫉妬に狂って愚痴を吐いて自分を保っている人たちは、たぶんずっと、自分が変わらない以上はそのままだろうな、と、タイムラインを拝見しながらしみじみ思う。

もちろん、嫌いなものを嫌いと言いたいだけとか、愚痴言ってるのが創作よりも楽しいとかだったら、全然、楽しみたいだけ楽しんだらいいと思う。好きなだけ存分にやってほしいし、私もこっそり消費させていただく。

でも、憎しみとかつらい感情をインスタントに吐き出すだけで、そこから何も生まれないなら、刹那的な快感しか得られないなら、そのエネルギーを創作にあててみたらいいと思う。きっとすごく強くて濃厚でエネルギーにあふれたものができるだろうに。


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