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絆の訓読みは「ほだす」なんだよ

「兄妹の絆」「家族だから」

鬼滅ブームに乗れないまま年の瀬を迎えんとしている。

鬼滅は、特別アニメを観た。
特別アニメの那田蜘蛛山編を観てから、喉につかえた魚の小骨が取れない。

「血のつながりがそんなに大事かね」

と思って以来、ずっと。


よくメディアで耳にする「絆」という言葉、もともとの意味は、馬とか犬とかをつないでる綱のことで、それが転じて切っても切れない結びつき、といった意味になったらしい。これだけ聞くと、あんまりいい言葉に思えない。
訓読みだと「ほだ-す」と「つな-ぐ」で、こちらもあまり、いい印象は受けない。

「家族の絆」は言いえて妙な言葉だと思う。
それこそ『鬼滅の刃』で使われている「絆」は、いい意味での絆だ。相手を想って、相手が大切で、個人同士にある結びつきだ。作中だと炭次郎と禰豆子の間にあるのが「絆」なんだろうなと思う。

けど、世の中いい絆ばかりではない。「家族だから」めんどうをみないといけないとか、「家族だから」我慢しているとか。「家族だから」「親だから」「子どもだから」で飲み込まれてることはある。DVとか、虐待とか、モラハラとか。「家族なんだから多少は受け入れないと」みたいな、謎の圧力がある。

「家族なんだから」発言は、那田蜘蛛山編で、鬼の累が似たようなことを言ってたと思う。

この累は、家族が欲しかったから血のつながりもない鬼を集めて、父親とか母親とかの役を与えて疑似的な家族を作って、恐怖で支配していた。けど、作り物の家族は裏切りも脱走もあって、理想通りにはいかなくて。その累の目に、”本当の”家族の炭次郎と禰豆子がうらやましくうつって、累は禰豆子が欲しくなってしまうんだけど。

それが余計に引っかかった。

炭次郎と禰豆子との対比で際立ったのかしらないが、「作り物の家族だからうまくいかないんだ」みたいに、ビシビシ感じてしまったのである。

そんなことない。

血のつながってる家族だからって、なんの問題もないわけないし、すべてが許されるわけではない。

そう思って以来、小骨が常に喉にある。

話の途中で炭次郎が「ほんとは嫌だけど禰豆子は家族だから…」って泣きごとの一つも言えばリアルなのにって思ってしまう。
言ってたら教えてください。違和感が取れます。


こんなことを考える原因は、結局のところ父親との関係にあるんだろう。

父親はもちろん父親だ。血縁上、戸籍上まごうことなき父親。
けど、私や弟が幼いころは毎週末パチンコに出かけて、世話は母親に任せきり。遊んでもらった記憶なんてほとんどなく、父の帰宅が遅いこともあって、しっかり毎日顔を合わせるようになったのは高校になってからだった。

そんな関わりかたで、すぐに打ち解けられるかと言われても、無理だ。
それこそ「家族なんだから」では済まない。

ろくに顔も合わせず、休日はほとんどパチンコで家を空けていて、食事の時は行儀作法を叱る、くらいが思い出の8割を占める人間と、急に打ち解けられるか?という話だ。

家族だから、ではどうにもならない。
けれど、家族なのに、と負い目を感じる私もいるのだ。
ずっと挟まれている。


炭次郎が禰豆子を想う気持ちは、間違いなく愛だと思う。あれは実際「妹だから」じゃなくて「ずっと一緒にすごしてきた禰豆子だから」である。「妹という立場の女の子だから」ではない。と思っている。

でも、なんとなく受けた那田蜘蛛山編での違和感は、とうぶん引っかかって取れそうにない。

違和感が消えるのか、それとも自分の気持ちに整理がつくか。
もしくは「バリバリ血のつながりのない家族が出てきます」ってタレコミがない限りは、手を付けないまま年が明けそうである。

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