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『ドリアン・グレイの肖像』を読んだ

2021/7/1、読了。

学校の課題用に読んだので、感想がいささか長めになっている。

本書は、ヘンリー=ウォットン卿の言葉に感化されて堕落の一途をたどることとなった美貌の青年、ドリアン=グレイの生涯を描いたものである。ドリアンがヘンリー卿と知り合うきっかけとなったのは画家のバジル=ホールワードという男だが、彼はドリアンのオム=ファタール的な魅力にすっかり参ってしまい、丹精込めてドリアンの肖像画の制作を手掛けた。しかし皮肉なことに、この肖像画は以後のドリアンの悪徳の全てを一挙に引き受け醜く歪んでいく。その代わり、ドリアン=グレイはその若々しい美貌を死の間際まで保つのであった。

ファンタジックな筋立てだが、登場人物たちの人物造形と心理描写とが細かく描出されているため、不思議にリアリティーがある。ただし、バジル=ホールワードにはあまり現実的な人間的魅力を感じなかった。彼がドリアン=グレイを崇拝する様子は、まるでシャーロック=ホームズを礼賛するジョン=ワトソンのようだ。つまり、「崇拝者」および肖像という物語における象徴を用意する「仕掛人」としての役割の方が、キャラクターそのものの魅力より勝ってしまっているように感じられたのである。とはいえ、確かにバジルのような善良で凡庸な人物の存在こそが、ドリアンの人間離れした魅力を引き立たせていることは確かなのだが。

先に挙げた比喩に基づいて整理してみると、追われる側のドリアン=グレイとシャーロック=ホームズは人倫にもとる行為(前者は殺人、後者は麻薬)に及ぶも抗いがたい魅力を放っており、追う側のバジル=ホールワードとジョン=ワトソンは善良ではあるものの人間的な魅力に欠けるという共通点が見出せる。オスカー=ワイルドとアーサー=コナン=ドイルが同時代の作家であることを考え合わせると、ヴィクトリア朝時代の文化・風俗・思考様式が、「追う凡人・追われる変人」という型を招いたのかもしれない。突き詰めて考えれば面白い結果が得られそうだが、今回はあくまで『ドリアン・グレイの肖像』について書くことが目的なので、展望を指し示すに留めておきたい。

さて、バジル=ホールワードに人間的魅力を感じないと先述したが、対照的に魅力を感じざるをえなかったのはヘンリー=ウォットン卿である。彼の矛盾とユーモアに満ちた話術は非常に洗練されており、ドリアンをはじめ周りの人間達を魅了してやまない。彼の語り口は、生みの親であるオスカー=ワイルドが執筆した「序文」と共通して捉えどころがない。恐らく、ヘンリー卿は本気で言葉を発しているわけではない。その場その場を楽しくやり過ごせればそれでいいという快楽主義者なのである。その証左として、ドリアン以外の社交界の人々はヘンリー卿の言葉を真に受けてはいない。彼の警句をまともに聞くと引き込まれてしまうので、適度に受け流す術を知っているのだ。


しかし、ヘンリー卿と出会った当時のまだ純粋だったドリアンだけが彼の言葉を真に受けて、悪の道へと堕落してゆくこととなる。老獪なヘンリー卿にとっては、ドリアンを自分の色に染めることなど、赤子の手をひねるように簡単だった。ただし、さすがのヘンリー卿も、ドリアンの中の悪の華がここまで咲き誇るとは夢にも思っていなかったであろう。ドリアンが殺人を犯した後に、ヘンリー卿と会話するシーンがある。ドリアンが「ハリー、もし僕がバジルを殺したと言ったらどうする?」と尋ねると、ヘンリー卿は「そう言ったらね、ドリアン、君は自分に似合わない役を気取っているんだなと言うよ」と答える。更には「ドリアン、君には殺人を犯す素質はない」とも言う。


結局のところ、ヘンリー卿は善良な皮肉屋であった。善良でなければ物事の善悪が見極められないし、面白い皮肉を言うためには真実を知る必要があるのだから、当然と言えば当然である。ドリアンは自分を教え導く年上の同性の友に憧憬を抱いているが、いつのまにかヘンリー卿よりも堕落してしまっていたのである。

ドリアン=グレイは前述のようにその生涯で様々な罪を犯すことになるが、その端緒となったのが冴えない舞台女優であるシビル=ヴェインとの恋愛事件である。ドリアンはシビルの演技を観て、「女性は男性に彼の人生で一番貴いものを与えてくれる」とヘンリー卿に語るほどに心酔する。しかし美貌のドリアンとの恋に有頂天になったシビルは、ひどく下手な芝居をするようになってしまった。「自分のものではない情熱(芝居)ならまねできるかもしれないけど、いま私の中で火のように燃えている情熱(ドリアンとの恋)はまねできないわ」というのがその理由である。結果的にドリアンはシビルに愛想をつかし、シビルは失意の末に自殺する。

個人的に、この事件に関してはシビルよりもドリアンの方に共感してしまった。もともとシビルの舞台上における演技を観たことで恋に落ちたのだから、その演技が台無しになってしまっては心が離れていくのは当然だ。シビルの内面を理解していれば演技が台無しになったところで愛が終わるはずは無いという考え方もあろうが、ドリアンとシビルは出会って間もないのだから、互いの魂と魂が呼応し合う段階にまでは到達していなかったはずだ。それに加えて、ドリアンはまだ精神的にも物理的にも幼かった。ヘンリー卿とバジルにシビルと婚約した旨を語る時、ドリアンが「あと一年もたたずに僕は成年になる」という発言をしている。ドリアンが薄情にも彼女を罵り、婚約を破棄したことは、たしかに度が過ぎているのかもしれない。しかし、若さゆえの過ちの範疇には確実に収まる、ありふれた事態である。

シビルを手ひどく突き放した翌朝、ドリアンの肖像画には「残忍な微笑み」が浮かんでおり、彼は戦慄した。もし我々にも自分の肖像画があったとすれば、それらはいまどのような表情を浮かべているというのだろう?
 
また、修辞的な問題で気になったのは第11章から始まる、ドリアンの趣味嗜好を羅列した箇所である。香水や奇妙な楽器、宝石や教会の祭服等にまつわるペダンティックな項目の羅列は、日本のある文学作品を想起させる。清少納言の『枕草子』に見られるものづくしの章段に似た匂いを感じるのだ。調べたところ、ワイルドが『枕草子』を読んでいたという事実は見つけることができなかったのだが、当時のイギリスの芸術界がジャポニスムに湧いていたという事実は発見することができた。ワイルドは1889年1月発行の雑誌『19世紀』に掲載された『嘘の衰退(The Decay of Lying)』にて日本美術について触れているという(オスカー・ワイルドの「唯美主義」再考への覚書:“The Decay of Lying”におけるジャポニスム、輪湖美帆、東京大学文学部英文研究室、2005-09-30)。なお、『オスカー・ワイルドの妻 コンスタンス 愛と哀しみの生涯』という伝記の作者であるフラニー=モイルは、『ドリアン・グレイの肖像』の下敷きになったのは、日本の寺院の壁画として描かれた馬の絵にまつわる説話ではないかと言及している。もちろん断定はできないが、ワイルドとジャポニスムにこのような連関がみえる以上、ワイルドが『枕草子』に触れたことがあるという可能性は否定できないのではないか。
 
思うところを分析しつつ書き連ねてきたが、やはり永く読み継がれてきた古典は面白い。現代の小説のように起承転結がしっかりとあるわけではないが、そうした形式にはとらわれない熱量が、物語全体を濃厚に推し進めていく。ドリアン=グレイ・ヘンリー=ウォットン卿・バジル=ホールワードの間に見られる一種の三角関係は、同性愛者かつ才能ある文人であったオスカー=ワイルドの視点によってこそ形作られたものであった。この三角関係は、ワイルド・オーブリー=ビアズリー・アルフレッド=ダグラスの実際の三者の関係になぞらえることもできよう。圧倒的な語彙とたたみかけるようでいて緻密な心理描写、そして作者のワイルドと主人公のドリアンを含めた人々の虚実入り混じる関係が重層的に折り重なることで、本作の妖しい魅力が形成されている。


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