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『ヒロシマ・ノート』を読んだ

8/11、読了。

そもそものきっかけは、大学時代のゼミの教授による戦後思想の授業で、本書が取り上げられていたことだった。本書か石牟礼道子の『苦海浄土』を指して、「切実な書」と評されていたのを思い出す。相違ない。読み始めるタイミングを掴み損ねて長らく本棚の肥やしと化していたが、8/6及び8/9のXデーを意識しつつ緊張感を持って読める期間は今しかないと思い集中的に読んだ。

個人的に大江健三郎の小説は文体を上手く消化できなくて読めないのだが(一応断っておくが偏にぼくの未熟さ故である)、本書はエッセイ形式なのでかなり読み易かった。「原爆」が絶対悪であることは漠然と理解してはいるが、実感が湧いているかというとそうではなかったことに、読んでいて気付かされた。表立って教科書に出てくることはない、原爆を巡る委員会同士の三つ巴や歪んだ事なかれ主義。心臓を素手で握りつぶされるようにリアルな焦燥感。大江健三郎自身が取材し、その当時感じたことを率直に綴ったヒロシマ・ノートは、何しろ身を切るような実感に溢れているのである。大江先生は原爆の直接の被害者ではないが、その鋭い感受性を以てして、最大限に原爆の直接の影響下にある人々に寄り添おうとする。それと同時に自分が部外者であることを充分にわきまえ、広島の人々に向き合う。ジャーナリストとして理想的な姿勢であると感じる。

本書に登場するある被爆者は、「ヒロシマ」の人々として一括りにされるのを嫌う。各々の背景や抱えている感情の差異に拘わらず、単一のカテゴリーに分類されることへの屈辱と嫌悪。カテゴリー化されたくないが故に自制せざるを得ない本音。悪意はなくとも、「ヒロシマ」の一言で片付けてしまう自分がいたのではないか?内省を促された。

一方で、原爆症で亡くなった青年の後追い自殺をした婚約者の少女を讃える記述には違和感を覚えた。もちろん、いたいけな恋人たちを悲劇的な結末に追いやった原爆への痛烈な批判としての記述であるのだろうが、この悲劇を単なる美談として描くことに一種のいたたまれなさを感じた。少女の想像を絶する辛さをいたわりつつ、なお生の尊さを強調すべきだったのではないかという気がしてしまう。ぼくがきれいごとを言っているだけかもしれない。わからない。原爆について知った気になることは死者への冒涜だと思うから、いつまでもこれに関してはわからないままなのだろう。

自らも放射能を浴びながら、原爆症に冒された患者たちの統計を取り、得体の知れない病を明らかにしようとした医師たちの気高さには胸を打たれた。それだけに、真摯に現状を受け止める人々に降り注ぐ悪夢のような人災に対して、言うべき言葉が見つからない。

無力さを痛感させられる。平和への希求を形骸化させないために、我々ができることは何か。世論に流されずに、危険なものは危険であると直截に認識できる人間でありたい。

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