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「してあげる」への違和感

「聞いてあげる」
「手伝ってあげる」
「教えてあげる」



「あげる」は日常的によく聞く言葉。
対人援助をしていたせいなのか、私はこの言葉によく違和感を覚える。


手伝ってと言われていないのに「手伝ってあげた」と言っていたら
相談業が相手の話を陰で「聞いてあげた」と言っていたら
教員が子どもにルールを「教えてあげた」と言っていたら


なんか上から目線じゃない?




自分でやった方が後々身になって手伝うのが本人のためになるかわからないし
聞いてあげたのでなく質問されたから色々話しただけかもしれないし
ルールなんて知った上で行動しているのかもしれないし



「してあげる」ってなんだよ、傲慢じゃね?

「もらった」と感じるか「余計なお世話だ」と感じるかは本人次第じゃん。



自分が声をかけられる時を思い返しても、友人や同僚は「話いつでも聞くからね!」「手伝おうか?」「教えるよ?」など言う。

誰も「してあげる」なんて言わない。(もちろん冗談で言ったり例外はある)



裏に隠された気持ちは「力になりたい」「役に立ちたい」とかなのだ。
それって相手の欲を満たすからでなく、自分の貢献欲を満たしたいからするわけで。

少なくとも本人に確認しない限り「相手のため」と思ったことが相手も有難いと思っているかはわからないし、聞いた所で人は嘘もつくから真実はわからない。
おまけに相手の満足度と「相手のため」が一致するとも限らないから「相手のため」というのは「自分は相手のためと思ってやっている、やりたい」という自分の欲求と思っている。



私は大好きな友人が1人で泣いていたら飛んで行くけど、友人は1人で泣きたいかもしれない。
私は人に聞かれたことについて知っていたら知識を伝えるけど、自分で調べた方が身になるかもしれない。

人とのコミュニケーションの仕方は確証も正解もないので「してあげる」ではなく「したいからする」が自然な気がする。

自分の正解を決めるのは自分だけなのに、相手の正解を自分で決めてしまっている無意識の発言が「してあげる」に感じるのかもしれない。



人の話を聞く職種においてこの発言を聞くと私はがっかりしてしまう。
「してやってる」と自分が上でリードするかのような深層心理を感じるから。

「してあげたの、あの子ら大変で…」と言いたくなる気持ちはわかるつもり。
そう言いたくなる時もあるし、そう言うことで自分も頑張っていると励ますこともある。


ただ、言葉の節々に日常的、無意識で使うのが深層心理ではないか。

仕事に限らず、人の心に触れることは「してあげた」なんて思いたくない。
以前は支援員をしていたが、そういう人間が相手を「救う」「助ける」なんて思うのは傲慢だと度々思っていた。


つまりは、力になりたいだけなのだ。


泣いている人がいたら、背中をさすって側にいたい
しゃがみこんでいる人がいたら、手を差し伸べて待っていたい
心が絡まった糸のようにぐちゃぐちゃになっていたら、ほどき方を一緒に探したい

いつまでも泣くなとお尻を叩いたり
無理やり手を引いて立ち上がらせたり
私がほどいてあげるよと自分がリードすることをしたいのではない。

人は最後は1人。
でもそれは、誰でも自分で立ち上がる力を持っているし自分で解決する力があるから。

じゃあそれを信じて、自分はただのキッカケになればいい。

「手伝う」が近いのだろうか。


「救う」も「助ける」も相手の人生なのに主体が自分になっていて、自分の物語に引き込んでいるだけな気がして。

私は私の物語があって「救われた」ことは多々あっても「救った」ことは一度もないと思っている。


それを決めるのは本人だけだから。

道を選ぶのは本人。私じゃない。


「してあげる」は道を引っ張るような言葉に感じるのだ。
相手を下にするようで、対等な感じがしない。なんだかおこがましい。


このこだわりは私だけかもしれないけど、私が傲慢と思う言葉は相手にも使いたくないので、極力こういう言葉は使わないことにしている。

言葉というより、想いが侵食されそうだから。


「してやってる」でなく「したいからする」の心を忘れないよう。
この違和感は大切にしたいからこうして書き残すのかな。

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