ポストモダンの人間関係及び「エヴァンゲリオン」以前のオタク文化

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 ポストモダンの記号論的世界観において、人間および創作のキャラクターは「記号」の組み合わせとして現れる。「萌え」る「記号」の集積たる「データベース」(東浩紀)から「記号」が取捨選択され、人格を形成しているのだ。「アウラの喪失」(ベンヤミン)の結果、彼らのうちに「物語」を表象するものは残されていない。よってコミュニケーションは浅薄となる。

 記号論的世界観は遅れてやってきた。「萌え」を崇拝する「おたく」たちが社会性を欠如していると言うよりも、社会の側がコミュニケーションの道具たる「大きな物語」を提供できなくなったのだ。また、「合理化≒官僚化」(ウェーバー)したシステムによる地域共同体の破壊も一因である。
 「大きな物語」を失調した記号論的世界観において、経験される他者は容易に超越的存在となり得る。

 「おたく」たちは消費していく中、「萌え」る「記号」を選び、「データベース」を形成していく。そして「シミュラークル」(ボードリヤール)としての人格が「記号」を取り込み、「おたく」たちへ自らを提供する。
 記号論的世界観はこのような互酬関係によって成り立っている。

 「おたく」たちは「シミュラークル」の虚構性を無意識下において了解している。このスノビズム(コジェーヴ)は江戸文化の形式主義の延長線上にあると同時に、第一次大戦以降の世界的なシニシズムの流れのひとつの現れでもある。

参考文献
東浩紀「動物化するポストモダン」

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