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東京スカイツリー

< 主要登場人物 >

・末吉 翔哉(20)   スエヨシ ショウヤ
・竹内 未來(21)   タケウチ ミキ
・三浦          ミウラ
・北原 ひとみ(20)  キタハラ ヒトミ
・竹内 多恵子(48)  タケウチ タエコ



第一部

 首もとのネックレスが、柔らかい陽の光を浴びて輝いる。薄いピンクの光が小さく自己主張をしているように目に飛び込んできた。
 竹内未來は、昨晩食事をしているときに突然「明日スカイツリーに行こう」と誘いを受けた。
 隅田川が囲う下町、墨田区の中心に東京スカイツリーが開業したのは2012年5月22日。日本各地で金環日食が観測された翌日に雨が降る中ではあるが華々しく営業を開始した。世界一大きな電波塔とだけあって、営業当初は大々的に報じられ、たくさんの来場者を集めた。開業から数年経った今現在、その熱は落ち着きを見せている。
 何度か誘いを受けたことはあるものの、未來は一度もその場所を訪れたことはなかった。玄関を出ればすぐに見えるほどに近くに建っていたため、身近過ぎて観光しようという考えが向かなかった。
 そして未來は今、紅茶を飲みながら出発を待っている。女性の身支度より支度に時間がかかるとは何事かとも思ったが、春の陽気を浴びながら朝を過ごすのも悪くない。テレビでは最近流行っている連続通り魔事件のニュースが読み上げられているが、この街に住む人間(少なくとも未來自身)は満開の桜の花びらがいつ散ってしまうのか気になっていた。同じ空の下で誰かが苦しんでいたり軽い気持ちで通り魔が人を刺殺しても、桜のつぼみは綺麗な花を咲かせ、観光に誘われたはずが待たされ、自分が毎朝飲む紅茶をこうして飲み干すことがどこか滑稽だった。滑稽と言ってはいけない気がしたが、「世の中そんなもんだ」と昔誰かが言ったのを思い出した。
 未來は立ち上がり、どこかの警察の発表を読み上げるアナウンサーの話を遮るようにテレビを消した。
「先行ってるよー」
 返事を待たずに未來はカバンを肩にかけ、玄関に向かった。家を出る前に鏡で身だしなみを整える。鎖骨の下辺りで小さいながら、確かな存在感を示しているピンクゴールドのネックレスの中でダイヤモンドが踊り、自信を持たせてくれる。

 数日前から天気予報が伝えている通り、外に出た未來を暖かな空がが迎え入れた。
 深呼吸ともため息ともとれる、大きな息を吐きつつこれから向かう、大きな電波塔を見上げる。家の屋根より高い場所に行くのは中学校のときの社会科見学で都庁に昇ったとき以来かもしれない。その当時は窓越しに遠くを眺めるだけで満足したかのように振舞っていたが、実は高所恐怖症だったのだ。果たして自分は、過去の恐怖をここ数年で克服できているのだろうか。
 そんな懐かしい思い出が頭の中で蘇ってきていて、未來は視界の端で自分に近づいてくる人物がいることに気づかずにいた。フードを深く被り、表情こそ見えないが彼は、一歩一歩着実に未來の方へと歩みを進めている。フードの中に隠れている顔が未來を見据えると、ようやく未來も彼の存在に気づいた。目が合い、未來の身体が一瞬硬直すると同時に彼はポケットに手を入れた。時が止まったかのような感覚がふたりを包み込む。男の手が動いた。
「ごめんごめん、先歩いてて良かったのに」
 未來の背後から声が聞こえ、時が再び動き出す。家の扉が閉まる音がして、長身の男性が未來の元に駆けてきた。未來がその見慣れた姿の方を振り返ると、フードの男は早足でその場を去っていく。どこか寂しげなその後ろ姿は、まるでふたりから逃げていくようにも見えた。

第二部

 ポケットの中で握られている小さな箱から手を離し、末吉翔哉は遠い空にひょっこり顔を出す東京スカイツリーを見た。
 ダメだ・・・。闇雲に探しても見つからない・・・見つかるはずがない・・・。
 数ヶ月間、翔哉は時間を作ってはこの箱の持ち主になるはずだった人物を探していた。しかし、手がかりはなく、手段も方法もない条件下でその人物を見つけ出すことは当然ながら不可能な話であった。探し始める前から分かっていたことではあったが、地図を広げて捜索範囲と定めていた最後の地域を探し終えた現時点で改めて自分のやろうとしていることの無謀さを痛感した。
 帰ろう。もう、諦めよう。翔哉は傾き始めている太陽から隠れるように、住宅街の日陰から荒川沿いの土手道へと歩みを進めた。今までやってきたことへの不甲斐無さ、自分の無力さに心底落胆しながらゆっくり歩いていた。
 ゆっくり歩いていた、途中で翔哉は焚き火をしているパーカー姿の男と道路下で出会った。普段なら気にも留めずに立ち去るところだが、その男の風貌に見覚えがあった。童顔、低身長、長めの髪の毛。そして、黒系のパーカーを着こなすその姿は、都内で度々起きる通り魔事件の容疑者の特徴として挙げられているそれであった。
「あっ・・・」
 思わず口から声が漏れると、パーカーの男は顔を上げた。印象的な大きい瞳が翔哉を捉えると、逃げなければと思う翔哉を逃がさなかった。ニヤッと笑みを浮かべて男が近づいてきた。
「逃げないんですか?」
 男が翔哉の目と鼻の先で立ち止まり、翔哉に尋ねた。「へ?」と間の抜けた声を漏らすと、面白そうに男は翔哉を見上げた。
「お兄さん、分かってるんでしょ?僕、最近話題のあの人ですよ?」
「やっぱり・・・連続通り魔の・・・」
「そう、キルオくん。びっくりした?」
 少年のような風貌で、彼に斬り付けられた後「びっくりした?」と尋ねられたと、被害者は口を揃えて言ったとのこと。世間は彼を「キルオ」と名付けて恐れていた。
 目の前にいるそのキルオが、ニヤッと笑って自分の目の前に立っている。翔哉は咄嗟に踵を返し、全速力でその場を離れた。

   ◇

 それは、思いもよらないことだった。
 交際を始めて――― 好きだと言う気持ちを伝えてからそう日が経たない頃、翔哉が専門学校から帰宅すると彼女が玄関先で待っていたことがあった。道行く人は厚手のコートを着て寒そうに歩く時期に家の前でじっと、待っていた。
 大き目のアウターに身を包み、深々とポケットに手を入れた彼女は、少し恥ずかしそうに顔を向けて「おかえり」と言った。普通なら「ただいま」と返すべき場面なのだろうが、翔哉はなかなか言葉を声にできなかった。まだ彼女に家を教えてはいなかったのだ。
 まるでその時の光景と同じだった。キルオと遭遇したことなど忘れて、家に帰って日常に戻ろうとした。その家の前に、黒いパーカー姿のキルオが仁王立ちしていた。フードの奥に覗く口元は変わらずニヤッと不気味な笑みを浮かべており、立ちすくむ翔哉の元へ大股で歩み寄ってきた。
「無駄だって、逃げようとしても」
 まるで同情するかのような口調で言った。刺される、と身構えていた翔哉は意表を突かれた気すらした。
「あ、やっぱり刺されると思ったでしょ。僕が通り魔だからって刺すことしか能がないって思われるなんて、心外だなぁ」
 そういうと、パーカーのポケットから銀色の物を取り出した。翔哉の家を含めた、鍵の束だった。
「帰りの道端で、お兄さん大急ぎだったから気づかなかったかもしれないけど、一式落としちゃって。これが無くちゃお兄さん困るだろうなぁ・・・って思って、追いかけちゃいました。そしたらお兄さんより先に家に着いちゃうんだもん。笑っちゃうよね」
「あ・・・ありがとう」
 鍵を受け取り、鍵を確認した。家の鍵、自転車の鍵、専門学校のロッカーの鍵。確かにこれは、翔哉が毎日使用している鍵であった。
「いいですよ。こんなの軽い仕事のうちだから。じゃあ、お礼に少し家上がらせてください」
「お礼にって・・・それはこっちが提案することだろ?」
「御気になさらず。その辺固いこと言わないでください」
 通り魔を家に入れることに抵抗はあったが、確かに彼には助けられた。電車であちこち移動しながら行動していたため、彼の活躍がなければ今日一日家に入れずに途方に暮れるところであった。鍵を開け、小柄な男を家に招き入れた。お邪魔しまーす、と友達の家に遊びに来た少年のような声で上がる。翔哉もそれに続いて玄関を越すと、男は物色することなくパーカーのフードを脱ぎ、床に腰掛けた。
 戸棚からポテトチップスを持っていくと、喜んで袋に手を入れた。無邪気な少年だ。通り魔であることを除いて。
「そういえば・・・」と先ほどから疑問に思っていたことを口に出した。
「俺の家に先に着いてたけど、有り得なくないか?」
「そうですか?」
 男は指に付いたのり塩を舐めながら翔哉を見た。
「だって、そもそも君は俺の家を知らない。なのに、俺を通り越して俺の家をピンポイントで探り当てて、ドアの前で待っていた。家を知らないのに、なんでこの家が俺の家だって分かったんだ?」
 似た質問を、随分前にした。そのときに彼女は少し悪びれながら「この間一緒に出掛けたとき・・・帰らないで翔哉くんのあと、付けちゃった」と白状した。口で叱りはしたものの、悪い気はしなかった。
「そりゃ、僕プロですから」
 一方、現在目の前でポテチを頬張る少年は、詫びることもなく言った。言っている意味が分からない。
「キルオだって、別に無差別にやってるわけじゃないですよ。しっかりとした依頼があって、しっかりとした計画を立てて、それなりの報酬があるから、やってるんです」
「プロってそういうことか・・・?」
「他にも、軽いところだとさっきみたいなお届け物とか物探しとかもやりますし、人の紹介とか証拠隠滅とか・・・とにかく何でもやりますよ。僕って言ってみれば、お金さえ貰えればヤバイ仕事でもやっちゃう、本当の意味での何でも屋さんなんです」
 少年のような男が、淡々と私情を話すのを半信半疑で聞いていたが、もう一袋、ポテチを持ってきたところで翔哉は恐る恐る尋ねた。
「例えば、情報は少ないけど人を探してほしいっていう依頼があったとしたら・・・?」
「その情報次第ですけど、僕ならその程度の軽い仕事ならやっちゃうんじゃないかなー」
 ポテチに伸ばす手を止め、少年がこちらを見た。
「え?なになに?お兄さん探してほしい人いるの?」と、スナック菓子から自分に興味の矛先を変えた彼の目はキラキラ輝いていた。
 目の前の男が不審人物なのは変わらないが、翔哉の頭の中は一人の女性のことしか考えていなかった。確かに、彼女がどこにいるのかは分からない。今日のつい先ほどまで探し続けて、とうとう見つけられなかった。ただ、この男に依頼をしていいものなのだろうか。自称プロとは言っているものの、やっていることはただの犯罪。そう、目の前の少年は、犯罪者なのだ。
「もしかして、僕に不信感抱いてます?」
 ポテチを頬張りながら、不憫な表情を浮かべた。口元にポテチの欠片が付いている。
「人探しなんて、そこら辺の探偵さんでもやってる仕事ですよ。彼らは届出を出して正式にやってるけど、僕は出してない。都道府県公認の人探し屋さんか非公認のかって、それだけの話ですよ」
「でも、それだけの違いで君の場合は犯罪じゃないか」
「そこなんだよねー」
 話を誤魔化すかのように立ち上がると、少年は冷蔵庫を開けた。中を物色した後コーラを持って、コップを2つ机に置いた。
「その探してほしい人って、どの程度まで情報あるんですか?」
 男がコーラを注ぎ、コップをひとつ差し出してきた。
「名前、出身中学、家の近くにある建造物とか・・・」
「それであの辺歩いてたんだ。それじゃあ、近くにあるお店とか家の扉のタイプとか、持ってたら自家用車の車種とか分かります?」
「え・・・?家の扉なんて関係あるのか?」
「あのね、僕プロですよ?お兄さんは知ってる情報を僕に素直に教えるだけでいいんです」
 そういうと少年は、パーカーのポケットに手を入れてくしゃくしゃの紙を机の上に置いた。何個か記入する項目があり、一番下に書名欄がある。
「はいこれ、契約書。まず家見つければいいですよね?そういう特徴とか書くスペースもあるので、分かりやすく記入してくださいね」
 探してほしい人の名前・年齢・家族構成・好きな花・家屋のタイプ・家の周辺にある目印、等々。中には探すために本当に必要か疑わしい項目もいくつかある。ボールペンを取り、翔哉は彼女と過ごした日々を思い返しながら記入した。

 彼女との出会いは、翔哉が当時撮影スタッフとして働いていたライブハウスだった。
 翔哉は専門学校で写真を学び、その一環としてこの場所でミュージシャンの撮影業務を行っていた。正しく言うと、ミュージシャンとして活動する高校時代からのクラスメイトのカメラマンとしてライブハウスに度々出入りしているうち、顔を利かせてもらってここに出演する多くのグループの写真を撮ることになった。
 その日は丁度、高校からの友人である北原ひとみの撮影でライブハウスを訪れていた。アコースティックギターひとつで活動する彼女は高校時代から路上ライブを繰り返しており、活動拠点をこの場所に移した後も安定した人気を得ていた。
 この日もひとみのライブは大盛況で終わり、翔哉はライブハウスを出た。その入り口で、会場内の雰囲気とは打って変わって俯いている高校一年生時のクラスメイト、竹内未來の姿を見つけた。
「竹内・・・さん?」
 恐る恐る翔哉が声をかけると、未來は顔を上げて翔哉と目を合わせた。大人らしい顔立ちに成長してはいるが、確かに、彼女は高校一年生のときに翔哉と出席番号が前後していた、竹内未來であった。
「やっぱそうじゃん!久しぶり!元気・・・そうじゃないね。ライブ中なにかあった?」
 再会の喜びに胸が躍ったが、未來の肩を落とした姿に違和感を感じた。そこに立つ女性は、高校時代、素直で快活な少女だった竹内未來の姿ではなかった。
「さっき出演してた北原ひとみって奴、あれ俺らと同じ紅葉ヶ丘高校出身なんだ。俺、高校二年のときに知り合ってそれからずっと、あいつのカメラマンやってる」
「知ってるよ。合唱コンクールのときピアノの語り弾きやった子でしょ」
「そうそう。今日はもう北原さんの出番は終わっちゃったんだけど、まだライブやってるからおいでよ」
 そう言うと、翔哉はライブハウスの扉を再び開けた。だが、未來が着いてきていないことに気づき、脚を止めた。右手に入場券を握り締めているものの、脚を前に進めようとしない。
「・・・どうした?」
「ごめん・・・やっぱ私には無理」
 背中に感じるライブの熱とは間逆の、コツコツと冷たい靴音を立てて未來は足早に行ってしまった。何かがあったのかもしれない。未來が心配になり翔哉は早足で後を追いかけた。

 ライブハウスを後にした未來は、バス停でバスが来るのを座って待っていた。大き目のアウターにすっぽりと隠した両手が震えている。寒いから、という理由もあるが、自分の現状に震えが止まらなかった。
「竹内さん」
 追いついた翔哉が後ろから声をかけてきた。未來は、翔哉の顔を見なかった。五年前、高校に入学した頃は同じクラスで席も近かったこともあり、すぐに打ち解け合った仲ではあるが、今は目を合わすのが怖い。
「久々に会って俺、すげー嬉しいんだけど、もしかして迷惑?」
 そんなことない、と首を横に振る。
「・・・私が高校行かなくなった理由、知ってる?」
 両手が震え、顔が赤面するのを感じた。こんなこと話して何になるのか分からない。自分が遠くに行ってしまっているような、妙な感覚に襲われながらただ頭に浮かぶ言葉を口に出した。
「みんなと過ごすのは毎日楽しかったよ。でも、入学してから色々あったでしょ?それでも、頑張っていこうって思ったんだけど、段々と学校で何をするのも緊張して震えが止まらなくなっちゃって・・・。社交不安障害っていう心の病気だって、お医者さんに言われた。・・・カウンセリング受けたりして症状はだいぶ軽くはなってきたんだけど、やっぱりまだ知らない人がたくさんいる場所は怖くて行けないみたい」
 頭の中に大きな影のように染み付いている記憶を未來は深く思い出したくはなかった。
 社交不安障害、翔哉はテレビで放送されていたドキュメンタリー番組でその名前を耳に挟んだことがあった。簡単に言えば、強いストレスが原因で集団の中に身を置くのが不得意になる精神疾患だ。うつ病やパニック障害を併発することもある、と専門家が伝えていた。
「今日お母さん夜勤だから家に誰もいないし、ひとみさんの歌、聴きたくて頑張って来てみたんだけど、こんな病気なっちゃった私にはダメなのかな・・・」
 自分のことを話した未來は、少し震えが納まっていた。代わりに、自分のことを他人に話す勇気を振り絞った反動で涙が溢れてきた。
 翔哉は、未來の隣に座った。未來の身体が強張るのを感じた。
「・・・そんな障害になってもさ、どっかに昔みたいに明るい竹内さんが生きてるんじゃない?」
 目の前を通過して行く車を見ながら、翔哉は未來に語りかけた。
「本当の竹内さんは、誰かと遊ぶのが大好きな人間だって、俺知ってるよ。だって学校来てるときがそうだったもん」
 そうは言ったものの、正直、翔哉には自信がなかった。当時翔哉が見ていた未來も、もしかしたら慣れるために無理に取り繕っていた姿だったのかもしれない。だが未來は、「ありがとう・・・」と呟き、洟をすすった。短いながらもかつて一緒に高校生活を送った、そのときの未來の姿を見たような気がして翔哉は微笑んだ。
 少しの間、未來は涙を拭って気分を落ち着かせた。その間、翔哉は黙って横に座っていた。
 直にバスが来る時間だ。
「ねえ、翔哉くん」と呼びかけ、未來は翔哉と夜道を散歩することにした。

   ◇

 最初は断られると思ったが、翔哉は提案を快諾した。進学と同時に一人暮らしを始めたため、門限がないという話をした。一方の未來は、母親が夜勤といういいタイミングなので、人生初の夜遊びに繰り出した。
 夜遊び、と言っても未來の都合もあるため、人があまりいない場所をふたりで考えた。その結果辿り着いたのが、未來がお気に入りの場所だという首都高速道路の真下だった。川に挟まれたその堤防は、高速道路を走る車の走行音が反響しているものの静まり返った場所で、ひと気は全くない。何より荒川越しに望む建造中の東京スカイツリーが綺麗に拝めた。
 冬の夜空の下なので多少肌寒くはあったが、未來はその場所にいた黒猫と元気に戯れている。やはり彼女も昔と変わらぬ目をしている。そんな姿が可愛らしく、翔哉はバッグからカメラを取り出してシャッターを切った。
「なに撮ってるの?」
 数枚撮ったところで未來は気づき、翔哉の元にやってきた。置いて行かれた猫が横になって毛ずくろいをしている。
「モデル撮影」
 撮影した写真を未來に見せながら翔哉は言った。夜の首都高から降り注ぐ照明が雰囲気を作り出し、いい写真が撮影できた。
「やだよ、消してよ」
「なんでだよ」
「だって、可愛くないし。翔哉くんと違って高校の時からなんも変わってなくて子供っぽいし」
「確かにスズメのポニーテールのまんまだね」
 まるで雀の尻尾のように小さなポニーテールを結う未來の髪型は昔から変わっていなかった。だから消して、と翔哉のカメラを取り上げようとした手を避けたとき、翔哉と未來の頭がぶつかった。ゴツンという鈍い音がふたりの頭の中に響き渡り、頭を抑えて一緒にうずくまった。
しばらくふたりで痛みに口を閉ざした。
「・・・さっき言ったこと、間違いじゃなくて良かった」
「え?」
「入学してまだ友達いなかった時に俺が一番最初に話しかけたの、竹内さんだったの知ってる?」
「えー・・・覚えてないよ」
「忘れるなよー初めての友達なんだから」
 少しの沈黙がふたりを包む。翔哉は左手で前髪を触り、未來は翔哉の横に座って黒猫の相手をしている。
 ふたりの正面では、スカイツリーが空に伸びている。未完成のその姿は、不恰好ではあるものの、未来に抱く大きな夢を感じさせる。
「また会えて嬉しいよ」
 黒猫のお腹を撫でる未來を横目に、翔哉がハッキリと言った。しかし、未來は気づかないフリをして黒猫と戯れ続けている。
 隙を突いて、翔哉の膝に置いてあったカメラを取った。翔哉のあっという声と同時に電源を入れ、ボタンを押して撮影写真を画面に映す。
「ねー、どうやって消すの?」
「だから消さないって」
 ムスっとした未來はカメラのベルトを首にかけ、ニッと笑って翔哉を見た。
「消すまで返してあげない」
 そう言い、スカイツリーの写真を撮り始めた。カシャッカシャッとシャッター音がリズミカルに鳴り、先ほどの翔哉の告白を消し去っていく。数枚撮ったところで未來が翔哉に「どう?」と言って画面を見せてきた。
 カメラの画面に未來の撮影した風景が映し出されている。中心にスカイツリーが立つ、よく撮れた写真だった。
 翔哉なりのアドバイスを数点言い、カメラの構え方を指導することにした。未來の後ろに周り、カメラを持つ未來の手の上から自分の手を添えて、シャッターを切る。再び鳴ったシャッター音と共に、ふたりの作品が完成した。
「きれい」
「でも竹内さんの撮った写真も良かったよ。結局、自分がいい写真だと思った写真がいい写真なんだから」
「そう言えば昔、海辺で会ったときも写真について熱弁してたよね。あれからずーっと写真、好きなんだね」
「今でも学校で写真学んでるんだ。それよりさ・・・」
 未來の首からカメラのベルトを外す。カメラを取り返すことに成功した翔哉は、先ほどふたりで撮った写真をディスプレイに映し、「はじめての共同作業だね」と未來をからかった。怒ってまたなにかしてくると思ったが、未來は俯いて再び黒猫の頭を撫で始めるだけだった。
「・・・私の勘違いだったら聞き流してほしいんだけど、そうやって私のこと大切に思ってくれてるの、凄く嬉しいよ。でも一緒にいると、色々迷惑かけちゃうんだよ。いいとこなんてないし・・・だから、翔哉くんにはもっと素敵な人見つけてほしいな」
 黒猫が気持ちよさそうに目をつぶって未來に頭を撫でられている。
「ごめんね」
 翔哉からは未來の表情は伺うことができなかった。もし翔哉が未來に数年前に同じ言い方をしても、きっと同じ表情をして同じような言い訳をして断られていただろうと予測が出来る。しかし・・・
「・・・ごめんなんて言うなよ。俺の力なんて微々たるものかもしれないけどさ、未來に何度でもありがとうって言わせて、たくさん笑わせたいから!・・・だから、一緒にいようよ」
 微笑んだ未來の頬を涙が一粒伝って、地面に落ちた。続こうとする涙を拭って言う。
「一緒にいるじゃん」
「え?」
「隣に座って、一緒にいるじゃん」
「ずっと!ずっとずっと、一緒にいようよ!」
 まるでダムから水が放水されるように言葉が止まらない。五年間会わなかった片想いの人が今でもこんなに愛おしいとは。
 未來も、翔哉に惹かれつつあった。こんな駄目な自分を受け止めてくれる、初めての人だった。俯いていた自分の顔を上げてくれる翔哉ともっと一緒に居たい。そう思った。
「でも、こういうの初めてだから・・・なんて言えばいいのか・・・分かんないよ!」
 照れ隠しに、黒猫を膝の上で抱きしめた。一方の翔哉も、YesともNoとも付かないその対応に困惑したが、ふと「あっ・・・」と小さなことに気が付いた。
「ちょっと待って・・・未來の胸の匂い嗅いでるじゃん!」
「えっ?」と未來も黒猫を見る。拍子に少し身体から離れたが、その黒猫は確かにアウターの中に顔を入れ、服の上からではあるが未來の胸元に鼻を近づけていた。
「まぁ・・・私の胸なんてちっぽけなモンだよ。男ならもっとでかい夢見ないと!」
 目の前の翔哉は明らかに猫に嫉妬していた。
「俺にとってはでかい夢なんだよ!ちくしょー・・・」
「ちっせぇ夢抱いてるんじゃないよばーか!」
 未來は立ち上がり、翔哉に背を向けて走り出した。しばらく運動をしていなかった未來の脚が、未だにスピードの出し方を覚えていたことが嬉しくなってぐんぐん加速する。
「人の夢ちっせーとか言うな!」
 翔哉も立ち上がって未來を追いかける。速い、と言っても女子の中での話であり、本気を出せば追い抜ける速さであった。だが、このひと時を楽しみたい。できることならば永遠に続いてほしい。刺さるような冷たい空気を切り裂き、自分はあの小さなポニーテールを追いかけ続けたかった。
 目の前を走る未來が芝生に足を捕られて豪快に転けた。永遠が一瞬で終わり、翔哉は未來に追いついて抱え起こした。
「大丈夫かよ・・・?」
 抱え起こした未來の瞳が翔哉を捉えていた。頬に土を付けてまだ少し目に涙を浮かべた瞳で見つめられ、翔哉は動けなくなった。
 しばらく見つめあった後、未來が翔哉に身体を寄せて、ふたりでスカイツリーを眺めた。
「遠くから見たら本当に綺麗なんだって、いつも思う」
「完成したらきっと、世界中の人が行くんだろうな」
 翔哉も未來も、周囲の下町から突き出ているその建物に関して詳しくはなかったが目の前で凄いものが作られている。そのことだけは分かった。今まさに建造されていく東京スカイツリーに、自分たちの未来を重ね合わせた。
「病気が良くなったら、一緒にスカイツリー昇ろうね」
 未完成の東京スカイツリーと、再会したふたり。澄んだ冬の空に点々と散らばる星空に流れ星がひとつ流れた。

「へぇー、お兄さん、末吉翔哉っていうんだぁ。僕に出会って依頼できる辺り、スエキチじゃなくて大吉だと思うけどなー。」
 翔哉が記入した契約書を楽しそうに眺めながら、パーカーの男が言った。変わらずポテチを摘み、時折コーラを飲んでいる。
「そういえばさ・・・君の名前は?」
「ん?三浦」
 本名かは定かではないが、三浦か・・・。
「僕みたいな有名人が三浦なんてありきたりな名前してるんだもん、ウケるよね」
 まるで翔哉の心の中を読んだようなことを突然三浦が口にした。ニヤニヤと不適な笑みを浮かべている。
「ねぇスエキチさん」
 と、三浦が呼びかけてきた。
「今回探す未來さんって、スエキチさんの元カノなんだよね?三ヶ月付き合ってたのに、なんで家も知らないんですか?」
「何度か、送るよって言ったんだけど執拗に断られて。多分まだ、家を教えられる位信用はされてなかったんだと思う」
「ふーん。・・・それで、家教えてもいないのに別れたはずの元彼がなぜか自分の家に押し掛けてきたら、未來さんどう思うと思います?」
 ただ未來を探すことに必死だった翔哉にとって、思わぬキラークエスチョンだった。しかもそれが、感情を読み取りづらい話し方をする少年のような三浦から突然発せられて、翔哉はすぐに答えを出せない自分に気づかされた。確かに、自分が再び未來の目の前に現れて、笑顔で迎えてくれるとは思えなかった。
「まぁ、別に理由の有無で僕が仕事決めてるわけじゃないんですけど、元恋人の行方探してほしいって僕に依頼する人って、大抵その後に不幸になってますよ。本人にその気がなくとも、向こうからするとストーカー以外の何でもないもん。そりゃ、警察に電話行くよねー」
 気楽に話す三浦ではあったが、依頼主が通報されるということの意味は翔哉にも見当が付いた。ストーカーを手助けした、三浦の身も共犯だ。
「・・・とにかく、未來の現在が知りたい。もし俺が、未來と会わない方がいいのなら会わない」
「あわよくば、また恋仲になりたいってことですね。あんなにお洒落な箱見れば大体分かりますよ」
 さっきまで冷静な、第三者としてのアドバイザーを演じていたくせに再び少年のような三浦に戻った。見透かされた本音を否定することは出来ずに肯くしかなかった。
「分かりました。僕が未來さんとのキューピットになってあげます。これでスエキチさんも立派なストーカーですね」
 コーラを一気に飲み干して、三浦は言った。
「キューピットになってもらっても、勝手に人のコーラを空にするような奴は結婚式には呼ばないぞ」
「呼ばれなくても大丈夫です。僕、そういう道のプロなので」
「警察呼ぶぞ」
「ストーカーのスエキチさんが呼べるんですか?」
 いつもの不気味な笑顔とは違う、自然な笑い方をした。つられて翔哉も、自然と笑顔になる。通り魔と警戒していたが、もしかするとこの少年とは上手く付き合っていけるかもしれない。一度は諦めた未來との再会に、微かな希望を抱いた。

 未來と交際が始まって、翔哉はまず社交不安障害について調べた。原因はあるのか。症状はどんなものか。治療法はあるのか。生活する上で気を付けなければならないことはなんなのか。
 この病は多種多様であり、人それぞれによって症状が違うとのことであるが、翔哉は克服者の経験談を目にすることができた。彼女は、今の翔哉と未來と同じように恋人同士で支え合い、極力どこかへ出かけることによって症状が少しずつ軽減していったのだという。
 自分にできることはこれだ。、冬ではあるが未來と会う日は極力自宅ではなく、外出することに決めた。そのことを未來と話し合うと、初めこそ難色を示したが、それ以外反論することもなく、ふたりの初デートは翔哉の授業がない平日の午前中、図書館で穏やかな時間を過ごすというプランになった。
 約束の時間に少し遅刻してきた未來は、図書館で数冊、料理に関する本を読んでいた。だが、翔哉が席を外して帰ってくると頬を机に乗せて眠っていた。確かにこの席は、窓から差し込む日光が当たることもあって居心地がいい。
 そして、五年間の片思いの末に叶った初めてのデートで見せた未來は、翔哉が思っていた以上に可愛らしい顔を見せてくれた。
 常に持ち歩いているデジタルカメラで、その寝顔を写真に撮り、持ってきた本を開いた。これからは、仕事のためだけでなく未來との毎日を数年後に懐かしむためにも写真を撮っていきたい。憧れの写真家である吉田広海氏の本を読みながら、翔哉は思った。

 自分が読み終えた本と、すやすやと眠る未來の本を返却した際、翔哉は一冊の本を見つけた。精神疾患の患者と向かい続けている著者の体験記であった。寝息を立てて未來が眠る席に戻ってそれを熟読する。著者が様々な症状の患者と向かい合った際の苦悩、そして接する際の注意点が分かりやすく記されていた。
 しばらくすると、大きな伸びと共に未來が目を覚ました。
「おはよう」
「おはよ・・・なに読んでるの?」
 眠そうな顔で翔哉を見て、未來が尋ねた。
「こういう本読むのも、未來のためかなって思って」
 本の表紙を見せながら翔哉が言うと、少しの間それを見ていた未來が翔哉から本を奪った。
「別に翔哉くんがそこまで考える必要ないよ。ちゃんと毎月病院行ってカウンセリングして薬だって飲んでるし」
「でも俺にも、気を付けた方がいいことってあるんじゃないか?」
「気使わなくていいよ。翔哉くんにはお医者さんじゃなくて私の・・・友人として、一緒にいてほしいし」
 「友人」という言葉を使ったことを翔哉が気にしたのが未來にも分かった。一瞬ふたりの時間が硬直したと思うと未來が誰も座っていない翔哉の隣の席を見て「恋人でもいいけど」と小さな声で言った。
「じゃあ、いつかhusbandになろうかな」と翔哉が茶化すと、未來は豆鉄砲を食らった鳩のように丸い目を翔哉に向けた。
「はずばんど?」
「ハズバンド」
「なんかよく分かんないけど・・・バンド組むならひとみさんにしなさい」
「いや、北原さんには彼氏いるから」
「ちょっと待って、話に付いていけてない」
「By the way, shall we have lunch soon?」
「・・・いえす」
 husbandという単語が分からなかった未來ではあるが、ランチという単語のニュアンスから翔哉が昼食に誘ったことは分かった。高校中退以来、全く喋ったことがなかったであろう英会話でペースを握った翔哉は、未來に取り上げられた本を借りて図書館を出た。

   ◇

 翔哉と共に出かけて、翔哉がカメラを構える姿を見ているうち、いつしか未來も写真を撮るようになった。
 一眼レフカメラのファインダーを覗く翔哉の横で、手にしたばかりのスマートフォンを構える未來。そんな姿がよく見られるようになったのは、ふたりが共に出かけるようになって一ヶ月ほど経った、三月だった。
 休日ともなれば家族連れで盛況だが、あまり人のいない平日の午前中という穴場の時間を見つけてふたりは水族館に来ていた。
「共同作業じゃないもーん。一人でちゃんと撮れるもーん」と無邪気に笑って、大きな水槽の中を優雅に泳ぐマグロの写真を撮影していた。
「ケータイのカメラじゃこういう魚の撮影には適してないよ」
 常に動き回る魚は、速いシャッタースピードに設定して撮影するのが望ましい。また、真っ暗な室内で明るい水槽内を撮影するとどうしても画面が白くなりがちだ。ただ、未來が手にしている次世代型携帯電話にはそのような細かい設定ができないようであった。できるのかもしれないが、未來が設定していないために撮影されたマグロの写真はブレていて写っているものが全く分からなかった。
「設定してやろうか?」と問いかける翔哉に「別にいいもん」と未來は拗ねてスマートフォンをカバンにしまってしまった。そして、「もう翔哉くんに写真見してあげない」と言ってしかめっ面をした。
 傍らで頬を膨らませる子供っぽい恋人に手を焼いていると、後ろから「あ、デートしてる」と声をかけられた。ギョッとしてふたりで同時に振り向くと、小さな男の子が小さな歯を見せて立っていた。
「ラブラブだねー♪ひゅーひゅー♪」と踊りながら茶化している。
「あのね、あのお兄さん、怒ると凄く怖いんだぞ。静かにしなさい」
 未來が少年に歩み寄って優しく話した。子供と話す未來を見たのは初めてだ。未來は子供が好きなのかもしれない。
「やだー!ちゅーしろちゅー!!」
 無垢な少年の思わぬ一言に、少年の目線の高さに膝を曲げていた未來が思わず「えっ」と声を漏らした。静かな水族館に少年のキスコールが鳴り響くと、さすがの未來も翔哉に助けを求める視線を向けてきた。
 仕方ないな、と翔哉は少年に近づいて
「おい小僧。あんまり大騒ぎするとこのお姉さんが夢に出てオネショする魔法をかけていくぞ」
 と妙な嘘をついた。
 未來が、なにそれ?とでも言いたげな顔をこちらに向けると、少年がコールを止めた。その後ろから少年の母親と思しき女性がやってきて少年の頭に拳骨を入れた。
「どうもすみません・・・」と翔哉と未來に頭を下げると、少年は母親に手を引っ張られながら振り向きキス顔を披露して、「寝る前におしっこ行くから魔法は効かねーぜ!」と未來を指差して連行されていった。
「馬鹿だなー」と翔哉が呟くと「でも可愛いね」と未來が返した。
 水族館に再び静かな時間が戻った。

 未來と水族館から出てくる頃には陽が傾き始めていた。
 穴場の時間ということもあってそれほど混雑はしていなかったが、ある程度の人がいる中で少年が騒いだとき以外は不安な表情を見せることのなかった未來は、確かに自分が思っていたよりは症状が和らいでいるのかもしれない。
 そして、子供に対しては自然と話をできるのだ、ということが翔哉は嬉しかった。
 翔哉は、水族館の近くに建っている観覧車に乗っていこう、と未來に提案した。だが未來は、翔哉の提案に「いや、いいよ」と遠慮した。
「なんでだよ?今日もしかしたら富士山見えるかもよ?」とエサを撒くと
「中学のときに都庁から見たよ」と断固として乗らなかった。
 乗る、乗らないと言い合いをしながら歩いていると、公園内のベンチに座っている見覚えのある人物が見えてきた。
「あっ・・・」と翔哉が声を漏らすと、未來も「あっ・・・」と言って立ち止まった。ふたりの目線の先には、夕日に照らされた綺麗な髪が輝いていた。静かにギターを弾く北原ひとみが、そこにはいた。
「憧れの北原さんだ」
「うん」
「話しかけろよ」
「やだよ。緊張する」
 か細い鼻唄を唄いながら、ひとみはギターの弦を震わせ、時々ベンチに置いてある小さなメモ帳にペンを走らせている。その小さな歌声を聴き逃すまいと、未來は耳を澄ませているが、翔哉はカバンからカメラを取り出して撮影する準備を始めていた。
 夕焼け空の下に建つ日本一大きな観覧車、そして誰に気づかれることもなくギターを演奏するひとみ。それが織り成す情景を、カメラマンとして写真に収めずにいられなかった。
 翔哉のシャッター音に気づくのは未來とひとみ、ほぼ同時だった。
「気づかれちゃったじゃん・・・!」と焦る未來に、ひとみは「こんにちは」と言った。そして翔哉に「おつかれ」と挨拶した。
「もしかして、末吉くんの?」
「うん・・・一応」と翔哉が答えると、未來はひとみの足元を見ながら「竹内です」と言った。
「ひとみです。はじめまして」とひとみが答えると、「未來です」となぜか改めて下の名前を紹介した。
「あの・・・!私ひとみさんと同じモミ高出身で・・・出身って言っても中退で・・・」
 緊張と、少しだけ症状もあるのかもしれない。指先と声を少し震わせながら、未來が言った。うんうん、とひとみは聞いている。
「ひとみさんの『矛と盾』って曲が大好きです!」
 世の中も私の頭の中も矛盾したことばかり。正しいことは間違っている。だけどそれが世界を美しくしている。ひとみがライブハウスで歌い始める前の路上ライブ時代に作った曲名を言った。多くの客を入れる必要のあるライブハウスに拠点を移してからはあまり歌われなくなってしまった、知る人ぞ知る一曲である。
「そんなに前の曲知っててくれてるんだね。ありがとう」
 ひとみは微笑んだ。
 ぎこちない会話ではあったが、未來はひとみと多くのことを話した。ひとみの学生時代の合唱コンクールの話や曲を作る際のエピソード。翔哉の日常に関する話にまで及んでいたが、あまり翔哉はふたりの話に踏み込まないようにした。
 ただ、一回だけ未來がひとみに、SNSアカウントを教えてもらった場面があった。翔哉でさえも未來とは電話とメールでしかやり取りがなかったため、彼女からSNSの話が出たことに驚いて口を挟んでしまった。
「いいじゃん別に教えなくても。乙女心を綴ってるのよ」と言いながら、翔哉に見せないようにスマートフォンでひとみのTwitterをこれ?これ?と探していた。同い年の女子ということもあり、この短い時間でふたりはすぐに打ち解けて巷で言うところのガールズトークに花を咲かせていた。
「よーし、じゃあ、お嬢さんたち、そこに並んで!」
 と翔哉がカメラを構えると、ふたりともちょっと待ってと言って手鏡で髪型を直し始めた。そんなに張り切る写真じゃないだろ・・・と思ったが、ライトアップされた観覧車とギターを持つひとみ、そして笑顔の未來をファインダー越しに見て、忘れられない思い出が作れたな、と翔哉は思った。

「ついったー?」
「他にもFacebookとかブログとか、instagramとか色々ありますよね。SNSが一番手っ取り早くて安全だと思います」
 久々に聞く三浦の声は、変わらず何かを読み上げているように余裕を持った調子だった。夏だというのに黒色のパーカーを着ていたあの姿が懐かしい。
 三浦に仕事を依頼してから、二ヶ月が経とうとしていた。連日連夜、合唱をしていた蝉たちは役割を終え、青々としていた街並みも気づくと赤や黄色の目立つ、秋になった。
「でも、なんで君じゃなく俺が探すんだ?」
「大丈夫ですよ。ネット世界って、思ってるよりも簡単に個人を発見することができますから。それに、未來さんの現在を知りたいっていうスエキチさんの願いだって叶えられるんですよ。こんなことが自分でできちゃうんなら、僕だったら迷わずやるけどなー」
「・・・分かったよ。で、方法は?」
 翔哉は電話を耳に当てたまま、宿泊先の旅館の机の上にメモ帳を開いた。それを聞き当てたであろう三浦が、耳元でくすくすと笑う声が聞こえる。
「メモするほど大変な作業じゃないから大丈夫ですって。お茶でも飲みながら気楽に聞いてください・・・いいですか?」
 そこで三浦が言ったことは、あまりに単純でメモを取る方が馬鹿馬鹿しく感じられることであった。ネット環境が調っている思春期の男子なら一度はやることであろう、気になる女子の見つけ方をなぜ自分は思いつかなかったのか。その事実に笑いが込上げてくるほどだった。「ね、簡単でしょ?」と言う三浦もいつもの笑みを浮かべているに違いない。
「それで、未來のアカウントを見つけて君に連絡すればいいのか?」
「それはいらないです。スエキチさんが、そこに書かれていることをよーく読んで、家を見つけるのに役立ちそうなことを見つけられたら、僕に教えてください」
 未來に関する情報を翔哉本人が探す代わりに、追加の料金は要求しない、という話であった。そもそも今回の電話は、以前に提示した情報である程度範囲は狭められたものの、この家だという確証を得るに至るために、より多くの情報が必要になったためだという。連絡を受けたとき、翔哉は地元の小学校の修学旅行の引率カメラマンとして旅先で写真を撮っていた。「スエキチさんのストーカーだったら僕も観光を楽しめたのにな」と三浦は口をすぼめて言った。
 未來のTwitterと聞いて真っ先に思い出したのが、あの公園でひとみと出会った日だ。あの場面で未來は、スマートフォンにTwitterの画面を確かに映していた。三浦の方法を使えばすぐにでも見つけ出すことができるかもしれない。
「あ、でもさ」と翔哉には一点、気がかりなことがあった。
「許可した人にしか見せられないような設定がされていたらどうするんだ?」
「あ、そういう場合は僕に連絡してください。スエキチさんに、その許可した人になってもらいますから」
「どういうことだ?」
「許可した人のスマホを、僕がお借りしてきます」
 得意そうに言う三浦であったが、彼が丁寧に「お借りしてきます」などと言うことが気に掛かった。

 三浦との通話を終えた後、翔哉はそのままスマートフォンでひとみのTwitterアカウントを検索した。出演ライブの情報やCD制作の話、楽屋での一幕などが事細かに更新されている。
 今回の目的は、ひとみのフォロワーの中から未來らしき人物を探り当てることだ。ライブハウスや街角などで彼女の声を聞いたであろう、1000人を超えるフォロワーがひとみにはいた。その一人ひとりの名前とプロフィールを翔哉は眺めた。
 そして、オムライスにケチャップで犬の顔が描いてある、みっきーというフォロワーを見つけた。犬顔のオムライス・・・懐かしんで見ていると、再び三浦からの着信が来た。
「さっき言い忘れたんですけど、どうにかスエキチさんの手を借りずに見つけられないかなって思って僕なりに未來さんのこと、色々調べさせてもらいました。・・・もしかしたらスエキチさん知ってるかもしれないんですけど、未來さんが病気になった原因も分かっちゃいました」

 紅葉ヶ丘高校、一年二組。昼休みの騒がしい教室内から女子生徒たちの歌声が鳴り響いている。ここ数日、一年二組では女子生徒たちが中学校の卒業アルバムを持ち寄って見せあうことが流行っていたが、そのブームは直に中学時代に流行った音楽、そして卒業式で合唱した歌へと替わっていった。
 春の訪れを喜び、仲間たちとの別れに涙し、そして新たなる巣立ちを祝う歌。カナリアのように美しい声がクラスを包んだ。中でも雀の尻尾のようなポニーテールを結わえる未來の声は、突飛して響き渡っていた。売店で購入した焼きそばパンにかぶり付きながら、翔哉は思った。
 その未來が、合唱の途中から何度か目を拭う仕草を見せていた。徐々に歌声も小さくなっていった。目を赤くして涙を流しながら歌う未來を、周囲の女子生徒は笑顔でフォローしながら歌っていたが、歌い終えたところで未來が膝を曲げてその場にしゃがんでしまった。「大丈夫?」「大丈夫?」という声が何度も聞こえた。ただ事ではないという様子でカナリアたちが未來を取り囲んだかと思うと、嗚咽を漏らしながら泣きじゃくる未來が女子生徒に連れられてベランダへ向かっていった。
 外では新入生を祝い終えた桜並木が桜の花びらを散らし、校門前はピンク色の絨毯が敷かれたようになっていた。

   ◇

 未來の歌声は、合唱後に見せた姿も合わせて学年中で有名になった。とても輝かしい歌声を出す一年二組の竹内未來の噂は、高校内の合唱部や軽音楽部は当然のこと、演劇部や放送部の耳にも止まってどの部活動が未來を獲得するのかが注目された。多くの人が、未來はその声を活かした部活動に所属するものだと踏んでいたが、未來が選んだのは陸上部であった。
「なんで陸上部?」と友人に問われた未來は「私、楽譜読めないし・・・みんなの前で泣くの恥ずかしいし・・・」と照れ臭そうに答えた。何より、ただ純粋に走ることが好きだから、と未來は言った。
 そんな未來であったが、才色兼備とは言えない少女であった。朝から陸上の自主練習をすると、放課後には時折友人と街に繰り出し、カラオケやレストランで楽しいひと時を過ごす日々であったため、普段の授業時間を睡眠に当てることが多かった。
「部活もいいけど、もう少し勉強も頑張りなよ」
 ある日、朝の自主練習から帰って朝食を食べているときに母の竹内多恵子に言われた。中学時代から何度も聞いた台詞である。
「勉強もぼちぼちやってるよ。でもどうせ滑り止めで入った学校だしさ・・・この高校に来るなら部活頑張るって決めてたの!」
「でも授業中寝てること多いって先生に聞いたよ。最初のテストから赤点取ったらチェックされちゃうよ」
「大丈夫だって。お母さんは自分の仕事の心配だけしてて!」
 鮭を一切れ箸で掴んで口に放り込みながら未來は言った。
「お母さんは、いつも通り仕事すればいいんだもん。学校にちゃんと慣れるかとか、未來の方が心配になっちゃうわ」
 多恵子も骨に苦戦しながら鮭を箸で切りつつ言う。未來も鮭は好きだが、子供の頃に骨が喉に刺さって以来食べるのが億劫になっていた。似たもの同士だ。
「友達いっぱい。みんなで昼休みは歌ってるんだー」
 そうなんだ、と素っ気無い返事を返して多恵子は味噌汁を啜った。未來も真似して味噌汁を啜る。いつもと変わらない、母の味だ。
 多少母も味付けの工夫はしているのだろうが、未來にとって多恵子の味噌汁は毎朝父と母、そして未來の家族三人で食べてきた味であり、これからも、ずっとそれが続くものだと思っていた。小さな変化が現れたのは、未來が受験生になった去年だった。父が少しずつ、一緒に食事を取ることが少なくなってきたのである。
「・・・昨日もお父さん、帰ってこなかったんだね」
 本来であれば多恵子の隣に座っているであろう父親の竹内悟の椅子を見ながら未來は言った。警察官として働く父は最近、仕事のために帰宅することが少なくなっていた。去年から重要な役職に就き、昼夜を問わず仕事に打ち込んでいるため、と本人から聞いたことがある。仕事の内容は守秘義務とやらで家族にも伝えられないらしいが、何か重要な仕事をしているのだろうな、と未來は直感で感じ取っていた。
「そういうお父さんだから、仕方ないよね」
 仕事のためと分かってはいるものの、多恵子も寂しそうに隣の空席を見つめた。そして、遅刻するよと未來を急かし、自分の食事も終えた。
 今日も父に会うことなく一日が始まり、病院に出勤する母と共に家を出る。いつも通りに一日が始まった。

 いつも通りに始まった一日は、それからしばらく続いた。
 未來は毎日五時半に目を覚まし、朝の自主トレをしてから多恵子と食事を取り、学校に出かけた。これを高校生活に慣れたと思うべきだったのかもしれないが、未來は生活の変化に確かなストレスを感じていた。朝食の席に父はおらず、今までとは違った電車での通学。大好きな短距離走でも、指導者が変わったことによってやりづらさを感じていた。
 ある土曜日の朝、砂浜で練習をしていた未來は休憩中に末吉翔哉と遭遇した。江ノ島に写真を撮りに行っていたんだと前髪を触りながら言うと、春の陽気を身体全体で浴びている猫の写真を何枚か見せられた。「何か他に撮るものなかったの?」と尋ねると「猫は素晴らしいモデルさんなんだ」と熱弁された。
「竹内さんは、ここでも走ってるの?」
「うん。中学のときのコーチがよくここに連れてきてくれたから」
「本当、走ってるか寝てるかしかないよね」
「歌ったりもするもん」
 あ、そっか。と翔哉は未來の歌声を思いだした。
「なんでそんなに走るの好きなの?」
「なんでって・・・翔哉くんは何で写真撮るのが好きなの?」
「そりゃあ・・・一瞬の表情とか光景だけじゃなくて、写真って思い出までずっと残しておけるからかな」
 翔哉は一眼レフカメラのボディを指でなぞりながら言った。
「例えば旅行から帰ってきて、撮った写真眺めると、楽しかった思い出が甦ってくるじゃん?嫌な話だけど、誰か身近な人が死んじゃったりして、その人がいなくなったとしても、写真を見れば生きて一緒に過ごした時間に戻れたりする。写真って誰でも簡単に使えるタイムマシーンなんだ」
「タイムマシーンねぇ」
「それで、竹内さんは?」
 うーん・・・と少し悩んだ。フリをした。
「・・・小さい頃にお父さんと追いかけっこばっかりしてたからかな」
「追いかけっこ?」
「お父さん追いかけたりお父さんに追いかけられたり。特に意味はなかったんだけど、それが凄く楽しかった。だから今も走るのが好き。体力ないから長距離は走れないけどね」
 蛍光色に輝く自身のランニングシューズを見つめながら未來は言った。
 リレーの試合で負けると、時々父を思い出していた。いつまで経ってもどれだけ練習を重ねても父には追いつくことができなかった。このリレーに勝てば、もしかしたら父に追いつけるようになるかもしれない。そう思って練習を積んできた。そんな父が警察官として日夜走っているのだから、未來は警察官という仕事に少し嫉妬していた。私が追いかけていたお父さんは誰を追いかけているのかな・・・。

 翔哉と別れ、未來が帰宅すると数人ほどの警察官が玄関先におり、只ならぬ様子で多恵子が話を聞いていた。
「どうしたの?」と割って入ることができずに離れた場所で話を聞いていると、先頭に立った警察官から「殉職」という言葉が発せられた。

 竹内悟警部補は、とても勤勉であり署内の刑事課第一課強行犯係の係長を務めていた。家庭内においても妻と一人娘を持つ良き父であった。葬儀で、未來の父である悟の生い立ちが淡々と話された。暗い顔をしている人が多いが、未來自身もそんな顔をしているのだろうか。自分が遠くに行ってしまったかのような消失感を感じていた。父が死んだ。
 死因について葬儀では話されなかったが、警察官が挙って自宅にやってきた日、未來は母の多恵子から話を聞いた。父は高速道路を走行中、前方を走っていた大型トラックに時速160kmで衝突し、そのまま後続車も巻き込む大事故を起こして死んだ。父と助手席に乗っていた20代後半の女性の遺体、そして数種類の違法ドラッグが車内から見つかったという。その女性の身元は今も分からず、父が違法ドラッグを使用していた形跡はないものの、未來は父が分からなくなった。近頃まともに帰宅せずに、守秘義務とやらで仕事の内容は明かされず。久々の再会だというのに父はこの世を去っていて、最期には見知らぬ女性と一緒に、いた。勝手すぎるんじゃないの?そう思うと怒りで身体が震え、涙が溢れ出た。
 父の死は一時的ではあるものの大きなニュースとして取り上げられた。現役警察官が高速道路で暴走、公にはされなかったが車内からは違法ドラッグとあれば色々な媒体から注目された。
 通学途中、未來は電車の車内広告で有りもしない事実を記載した広告を見た。学校に通学する多くの人が、未來の父である悟について根も葉もない情報を鵜呑みにすることになった。そして、その娘である未來に対して異物を見るかのような目を向けるようになっていった。
「お父さん、仕事でなにやってたの?書かれてること嘘だよね?」
 嘘だと言う確証を得られるわけではなかった。何が真実か分からない今、未來にとって頼れるのは母親ただ一人であった。だがその多恵子も首を横に振るだけであった。「分からないけど、お父さんにも事情があったんだよ」と曖昧な返答をされた。
 現役警部補の父は脱法ドラッグの常習犯であり、その使用が明るみになったため、愛人と逃亡を謀ったという根も葉もない噂も流れた。そんなことするなんて、事情の有無なんて関係ない。最低の父だ。
 未來は父に対する怒りを母にぶつけ、家を飛び出した。

 薄暗い中に、独特な色合いのランニングシューズが目立っている。
 未來は砂浜に来ていた。波の音が響き、手の届きそうな距離にある江ノ島は灯台が綺麗に輝き、麓の街並みが賑わいを見せている。
 ずっと追いかけてきた父は、いつの間にか見えない場所に行ってしまった。自分は走り続ける意味があるのだろうか。疑問に思いながらも、父を追いかけようと暗くなった砂浜を全速力で走った。何度も走った。息が切れても、走り続けた。何度目かのダッシュで未來の右足首に大きな痛みが走った。脚が縺れて、前屈みに崩れる。動かすたびにその部位に大きな痛みが出た。
 未來の足首は、折れていた。当分の間走れなくなった。

   ◇

 父がこの世を去り、毎日の生きがいだった走ることを奪われた未來は徐々に部屋に引きこもるようになっていた。
 丁度、合唱コンクールへ向けた練習が始まっていた。歌を歌うことで未來の気持ちも少しは晴れると多恵子は思ったが、未來にとってそれは逆に重圧になってしまった。右足をギブスで固定され、脚を地面に置くことができなければ歌う体勢が取れない。身体を労わって、椅子に座りながら練習に参加することになったがそれでは自分の全力を出しきれなかった。翼を失った天使のような姿だった。
 練習が始まった最初の数日間こそ高校へ通い、真面目に授業を受けて合唱の練習に参加した。だが、入学早々にクラス中に魅せた未來の姿はそこにはなく、未來自身も納得がいかなかった。世間で流れていた噂に関することもあり、徐々に未來に対する妙な陰口が聞こえ始めた。クラスでは周囲の視線が気になり、声が震えて歌えなったかと思うと、授業中も同様の症状が身体中に現れた。
 父と走ることと、歌うこと。未來が一瞬のうちに失ったものは彼女の中であまりに大きかった。

「無理しなくていいんじゃない?」
 悟の遺影にお供えするお茶を汲みながら、多恵子は言った。
 未來は合唱の練習に参加しなくなっていた。走れなくなると、朝は遅刻寸前の時間に目を覚まし、登校しても保健室で休養していることが多くなった。徐々に学校へ行かなくなり、部屋にいる時間が長くなっていた。
「ゆっくり脚も治して、気持ちも整理して。こういうことがあったなら、そういう時間って大切だと思うよ」
「でも私、このままじゃもう学校行けない気がする。合唱コンクールだって参加できなきゃ、結局クラスから浮いちゃうし。勉強だって付いていけないし部活だって復帰できるかどうか分からないよ」
「うん、そうだねぇ」
 遺影の前に湯呑を置いた後、未來にも小さな湯呑をひとつ渡して、正面の席に腰掛けた。
「・・・なら、学校辞めちゃおっか」
「えっ?」
 突拍子もない発言に未來は目を丸くして母を見た。多恵子は落ち着いた様子で湯呑に口を付けているように見える。
「いいんじゃない?だって未來にとって、今回のことはそれ位に大きな事件でしょ?」
「それ位っていう匙加減がよく分からないけど」
「とにかく、居場所がないなら無理する必要ない。でも自分の居場所は作っていかないといけない。いつまでも部屋に閉じこもってたって息苦しいだけでしょ」
 きっと多恵子本人も、母として娘の人生について何度も悩んだ末の決断だったのだと思う。だが、その決断を自分に伝えるときの堂々とした姿勢は父の死を乗り越え、一皮剥けた母のように見えた。

 その日から多恵子は未來に、日々の家事を教え始めた。「家にいるなら家事くらいやりな」「帰ってご飯とお風呂準備されてるのって助かる」「休みの日に洗濯物とか掃除まとめてやらなくていいって最高」と母はよく言った。
 仕事の日以外にも多恵子は出かけることが多くなり、そのときは決まってスーツを着て出かけた。勤めていた小さな病院から給料が安定した都内の大きな病院への再就職を目指していたことを未來が知ったのは、足首のギブスが取れた頃だった。
「もう新しい家も決めてきたし、退学の手続きも大体終わったから少しずつ引越しの準備進めてね」
 飄々と言う母は、父の生前より更にたくましくなったように見えた。
 父との思い出が詰まった場所であるが、それらを一度清算する必要がある。未來の人生を再びスタートさせるためには環境を変える必要がある。そう思い、多恵子は神奈川県の海街から東京の下町へと移り住む決意をしたのだった。

   ◇

「竹内さんは、一身上の都合により退学しました」
 朝一番のホームルームでクラスの担任の先生から発表があった。竹内悟がこの世を去り、未來の机が常に空席になる日々が続いて時間が経っていたためあまり話題なることはなくなっていたが、少しの間、再び未來に対する噂が教室中で騒がれた。

 後日、ひっそりと教室の掲示板に未來からの手紙が掲示された。
「二組のみんな、突然退学なんてしてごめんなさい。皆さんご存知の通り、私の父が亡くなりました。噂されているようなことは決してないと思います。でも自分の中で突然いろんなことがあって、心の整理が追いつかなくなりました。このままでは私自身、みんなと楽しく過ごすことができないと思うしみんなにも迷惑ばっかりかけちゃうと思います。母とよく相談して、学校を辞めることにしました。
 学校に行けなくなって少ししてから、私に会いに来ようとしてる人がいるって話を先生から聞きました。もし励まそうとしてくれていたなら、ありがとう。でも、そんなことはしないでください。私のことは忘れて、まだまだ楽しいことがいっぱいある高校生活を思いっきり楽しんでください。
 本当に短い間だったけど、みんなと一緒に過ごせて楽しかったです。ありがとうございました。お元気で。竹内未來」
 未來自身の手で短い文章が書かれたその便箋を翔哉は何度も読み返した。誰しもが入学して間もない頃の快活だった未來を思い返した。

   ◇

 多恵子と未來の新しい住まいは決して住み易い家とは言い難い、年期の入った家だった。狭い小道に無理矢理押し込んだような小さなその家は、両隣の家とほぼ密着しており、正面に車を一台だけ置けるような駐車場がある、お世辞にも素敵な家とは言えない家だった。ガラガラと音を立てて開く引き戸から入ると薄暗い廊下がお出迎えした。その先に狭い部屋が数個とキッチン、浴室、トイレ。生活に必要な最小限の物しかない、そんな第一印象の家であった。そこで多恵子と未來は、ふたりで暮らすことになった。
 引越しを終えた日の夜、多恵子が「そうそう」と言ってかばんの中から一綴りの資料を取り出して未來に見せた。
「未來って、もしかしてこれなんじゃないかと思う」
 インターネットで調べたであろうその資料には、「社交不安障害」という病気について詳しく記載されていた。

 極度の近視なのか、三浦はこれでもかという程顔をパソコンのディスプレイに近付けていた。画面にはストリートビューが映し出されており、東京の下町を散策している。
 修学旅行の引率カメラマンの仕事を終えた後、翔哉は次の仕事のために撮影機材の整備や撮影場所のリサーチを行っていた。そんなときに電話が鳴り、「おおよその見当は付きました」と三浦からの知らせが来たのである。
 三浦からSNSアカウントの探し方を教わり、呆気なく未來のTwitterを見つけた翔哉は、ツイートを見る前に画像一覧で手がかりになり得る物を探した。テレビ画面のキャプチャー画像や購入したCDのジャケット写真、どこかで聞いたことのある台詞と共に添付された夏空の写真。これと言って手がかりがなく、一日の断片を文字で表したツイートたちから手がかりを探る必要があるのかと意を決していたとき、妙な画像が翔哉のスマートフォンの画面に映し出された。
「衣替えということで高校生のときに一度も着なかった夏服を着てみた。まだぴったり!だって身長伸びてないもん…」というツイートと共に、顔が隠れた未來が高校の夏服を着ている画像が載せてあった。なに馬鹿なことしてんだ・・・と呆れる翔哉であったが、その未來の後ろにピンク色のカーテンが写っていることに気が付いた。
「これは有力な手がかりになりますよ」と三浦は言い、三日後のあの日、電話が来たのである。
 静かな部屋で、カチッカチッとクリックをする音だけが部屋に響いていた。本当にカーテンの色ひとつで未來の家は見つかるのだろうか。そんな心配をよそに、三浦は出会った日に記入した契約書と画面を何度か見比べて、翔哉に向き直った。
「一応未來さんのその写真、見せてもらっていいですか?」
 翔哉は未來の写真をスマートフォンに映し、三浦に渡す。それとパソコンの画面を再び見比べると、スマートフォンを返してきた。
「未來さんってコスプレ好きなんですか?」
「・・・どうやら、そういう趣味があるらしい」
「へぇ・・・それならスエキチさん、もしかしてそういう戯びもできたってことですか?」
「何の話だ?」
「なに分からないフリしてるんですか。男女が付き合って、一ヶ月もすればそういうことだってし始める時期です。スエキチさん、未來さんと三ヶ月続いたならやることくらいやってるでしょ?」
 悪戯をするような眼差しでニヤニヤと翔哉を見据える三浦は、思春期真っ盛りの中学生そのものだった。
「残念だけど、君が期待しているようなことは未來とはやらなかったよ」
「えー・・・勿体無い。素人の子とコスプレプレイできるなら、僕いくらでもお金出すのになぁ」
「ちょっと待てよ。そういう言い方はやめろ」
「フラれたくせにスエキチさん、まだ未來さんの彼氏っぷりは健在ですね」
 また三浦のペースに乗せられてしまった。中学生のような風貌の三浦が自分のことを手玉に取って遊んでみせている。すると自分はまるで幼馴染の女の子に恋する幼稚園児の様だ。
「はい、彼氏さん。ここが多分、未來さんの家です」
 三浦は椅子に座ったままディスプレイの前を空けた。翔哉がその空間に入り、パソコンの画面を見るとそこには年期の入った一軒の小さな家が建っていた。家の前の駐車場には軽自動車が駐車してあり、窓越しにはピンク色のカーテンが垣間見える。スクロールして周囲を見ると、小道の間から巨大なスカイツリーが顔を覗かせていた。
「確かに、未來の家の特徴と同じ家だけど・・・」
 言いかけて、翔哉は黙った。この家が本当に未來の家なら、三浦はしっかり自分の依頼を全うできたことになる。ただもし、この先を言って少しでも三浦自身に疑問が生まれてしまうならば、翔哉は二度と未來と再会できなくなってしまうのではないか。そう思うと怖かった。
「うん。だってここ、未來さんの家だもん」
 翔哉の懸念など見ず知らずなのか、三浦は飄々と言った。
「スカイツリーって墨田区に建ってます。その近くに家があるんだから、当然墨田区内の竹内っていう苗字を虱潰しに探しました。そしたら、以外に少ないんですよね。十五軒しかなかったんです」
 机の上のコーラを一杯飲んで、話を続ける。
「その中から、スエキチさんが教えてくれた手がかりをヒントに絞り込んでいくと・・・残ったのが、この家だったってわけです。現地に出向かずに家でゆっくり人探しできるなんて、世の中ストーカーに優しい時代になりましたよねー。あ、念のために墨田区以外の竹内さんの家も調べてみました。でもピンク色のカーテンしている家なんて、ここだけでしたよ。趣味悪いんですよ、未來さん」
 三浦が長々と話すのを聞き流しながら翔哉は食い入るようにディスプレイを見つめた。小さな駐車場に引き戸の古民家に似つかわしくない明るいピンク色のカーテンが窓から伺える。そうか、ここが今まで探し求めていた、未來の家・・・。
 その横顔を見て、三浦は満足そうに微笑んだ。
「じゃ、代金と引き換えに家の住所教えます」
 そう言うと三浦はブラウザーを閉じた。
「・・・悪いけど、今はまだ払えない」
「ん?」
「カメラマンとして働いて、少ない給料だけど少しずつ貯金してて・・・でもこれは君に払うお金じゃなくて・・・」
 そう言うと、翔哉は本棚を見た。未來と初めて図書館へ行った日に見つけた、精神疾患に関する本がそこにはあった。
 あれから翔哉は時間を作ってこの本を最初から最後まで読んだ。著者の精神疾患患者と向かい合った日々と共に、未來と同じような症状で苦しむ患者に的確な治療をして、社会復帰に力を貸し続けている精神科医師としての彼についても書かれていた。読み進めているうちに翔哉は、彼に未來を委ねてみたいと思うようになった。
「・・・社交不安障害って知ってるかな」
「未來さんの病気の名前でしょ?僕なりに色々未來さんに関して調べましたから、知ってますよ」
「あれを治す名医がいる。ただ、その治療費がそれなりに高額なんだ。今カメラマンとして働いているのは、当然君へ代金を支払うためでもある。でも一番の目的は、未來に治療費を渡すことなんだ」
「でもスエキチさん、フラれちゃったじゃん」
「それでも、元気になってほしい。そのために自分にできることをしようって。そう思って未來を探してたんだ」
 支払う金はない。もしかしたら三浦はこのまま自分を見切って行ってしまうかもしれない。そうなれば再び、三浦が残してくれた手がかりを元に自分で未來を探すほかなくなるが、それでもいいと翔哉は思っていた。ただ、そのままナイフで一刺しにされることにだけ警戒していた。
 だが、三浦は一言「そっか」と言って衣装棚の上に写真と共に置いてある小さな箱を手に取った。
「そういえばスエキチさん、僕と会ったときはこれを未來さんに渡したいとか言ってましたよね。僕もこのまま分かりましたって引き下がるわけにはいかないので。・・・この箱を預からせてもらいます。お金の準備ができたら教えてくださいね」
 手のひらに納まった小さな箱が三浦のパーカーのポケットに消えていった。未來の家、小箱、そして治療費。翔哉の中で思い描いていたベストシナリオのうちのひとつが手の届くところまで来たと思ったが、ひとつが遠くに行ってしまった気がした。

   ◇

 三浦が小箱を持っていってしまったため、手元に未來を思い起こせるものがなくなってしまった。交際時に作成していたアルバムはあったが、これは今回の件が終わるまでは開かないと決めていた。アルバムの中の未來は、いつだって自分に対して笑顔を向けている。今現在はどうだろう?誰にどのような顔を向けているのだろう?
 その答えが出るはずもなかったが、翔哉はふと未來と初めて訪れた首都高の真下の堤防に来ていた。
 夜空の下、荒川越しに望む東京スカイツリーはあれから数ヶ月の間に着工工事を終えて、東京の新しいランドマークとして華々しく開業した。その熱は未だ冷めることもなく、今翔哉の目の前で光り輝いている。
 もし未來が今も横に座っていたら、自分にどういう言葉を投げかけるのだろうか。
「いい場所ですね」
 横にやってきた三浦が言った。
「どうしてここに・・・?」
「そりゃ僕、ストーカーですから」
 深々とフードを被った三浦が横に座った。
「未來さんの現在を知って、あわよくば再会した後にスエキチさんがどーしたいか、まとまりました?」
「・・・やっぱり、早く元気になってほしい。そのためならなんだってするよ」
「好きなんですねェ」
 他人事のように三浦は言ったが、翔哉はその言葉に改めて思った。たとえ別れてしまっていても、自分は未來のことが好きなんだ。一緒にいた数ヶ月の間に見せてくれた未來を、気兼ねなく出してほしい。病気になんて負けてほしくない。
 前髪を触りながら、翔哉は微笑んだ。

   ◇

 近くにある大きな通りから折れていくと、そこには昔の風情を色濃く残した街並みが広がっている。
 翔哉と別れた後、三浦は実際に未來の住む街を訪れていた。車通りの少ない通りからさらに小さな小道に入ると、確かにそこには「竹内」という表札があった。小さな駐車場には軽自動車が止まっている。
 ストリートビューが撮影された当時と家の持ち主が変わっていないことを確認した後、ポケットから携帯電話を取り出した。
「・・・そうそう。まだスカイツリー眺めたりプレゼントするつもりだった物見たりして思い出してるみたいですよ。未來さんのこと」
 フードに隠れた顔から、電話をしながらニヤッと笑う口だけが光に照らし出されている。しばらく通話を続けた後、三浦は夜の闇に消えて行った。

 未來の過去のツイートには翔哉と交際していたときに関することが残っていた。翔哉のことを恋人と表現するものこそなかったが、自分に対する愛情が伺えるものはいくつもあった。表向きでは喧嘩ばかりしていたふたりであったが、確かな関係が築かれていたのだ。過去のことではあるが、それが僅かな希望として翔哉の中で支えになっていた。 流しながらツイートを読み進めるとその中に、本文は無く写真だけを添付したものがひとつあった。2011年4月。開業まであと一ヶ月となろうとしていた頃、東京スカイツリーは夜間ライトアップの試験点灯を行っていた。そのときに翔哉と未來は、ふたりで試験点灯を行っているスカイツリーを眺めたことがあった。「雅」という呼称が付けられた紫色に輝くそれは、そのときに撮影した写真だった。

 春の陽気が徐々に現れはじめた3月の終わり頃、ひとみから久々に路上ライブをやりたいという提案を受けた。活動の拠点をライブハウスに移してから、ファンの数は増えたものの毎日慌しい日々だったため、久しぶりに自分の原点に立ち返りたい、とのことであった。原点に返る、ということはストリートミュージシャン時代に作った曲も披露するのではないかと、翔哉伝いに話を聞いた未來は胸を躍らせた。路上とは言うものの、ある程度のファンを確立しているひとみのライブには多くの観客がくることが予想される。その場所に未來を連れて行って大丈夫かと翔哉は不安に思ったが、そのことを考慮してか事前告知は行わず、初めて訪れる駅前の公園でひっそりと歌いたいとひとみは言った。ギター一本で街灯の下で行われる、過去のひとみの姿を思い起こさせるような路上ライブになると翔哉は思った。
 丁度その頃、翔哉は新しい仕事のチャンスを迎えていた。カメラマンを志す若者に向けたワークショップを著名カメラマンである吉田広海が開くという話だった。吉田広海とは、翔哉の憧れるカメラマンである。腕を見込まれれば弟子として従事することができるのではないかと翔哉は思っていた。
「翔哉くんは仕事で忙しそうだからひとみさんのカメラマンは私がやるね」
 と、未來は翔哉を茶化した。専属として写真を撮っているひとみを素人の未來に奪われることは断固拒否であったが、もし未來が腕を上げてひとみの写真を撮ったらどういう一瞬を残すのだろうか、と思うと少し興味があった。
 そんな未來のことをひとみは「自分の一番のファン」と称していた。路上時代の曲を多く知り、ライブハウスにこそ足を運べないものの専属カメラマンである自分から限定CDを全て買い集めた彼女が一番というのはあながち間違いではないな、と思った。
 ワークショップの手続きや路上ライブの場所、日取りなどを決めているうちに気づけば月が替わろうとしていた。
「ひとみさん、何歌うの?」
 ワークショップの帰り道、電話越しに未來に尋ねられた。
「分からない。教えてもらえないんだ」
 普段のライブならばライティングや撮影の画角の関係もあり、セットリストが事前に伝えられる。だが今回は路上ライブということもあり、ひとみがカメラマンである自分にも曲目を明かすことはなかった。
「ひとみさんが路上ライブなんてやって大丈夫なのかなぁ」
「大丈夫ってどういうこと?」
「通りかかった人たちが集まりすぎてフェスみたいになっちゃわないかなって」
「大丈夫じゃない方が気楽にいられるくせに」
「そこだよね」
 実は今回の路上ライブが、未來がはじめてひとみの生歌を聴く機会なのだという。ならば路上時代の曲をどこで知り得たのかと聞くと、「YouTubeで聴いた」と即答された。観客が撮影した高校時代のひとみの映像はいくつか動画共有サイトに上がっていることを翔哉は知らなかったため、「なんだそりゃ」と間の抜けた返事をしてしまった。
「ひとみさんの歌ね、コメント凄いんだよ。日本語じゃないコメントも時々あるもん。いつかテレビにも出るよ、絶対」
 グローバルな評価とメディア展開が必ずしも直結するとは思えないが、翔哉はうん、うんと話を聞いていた。多くのファンを獲得したひとみのライブであるから、確かに多くの人が足を止めて聴き入るかもしれない。そんな状況でも未來が体調を崩さず、最後まで何事も無くライブを楽しむことができたら未來自身も症状の緩和を実感できることになる。それは彼女の中でも自信になる。翔哉もそのことが楽しみだった。

 ライブの詳細が決まった4月の初め、翔哉はひとみにひとつの提案を持ち掛けた。その提案を「やってみたい」と同意をして以来、ひとみは久々の路上ライブに向けて計画を練り始めた。
 そしてその当日、翔哉はワークショップの帰り道に未來と駅のホームで待ち合わせをした。その駅が未來の家から一番近い駅なのだと思ったが、未來は「今日は病院の帰りだよ」と言った。未來が肩に掛けている小さなカバンはいつも通り、何か入っているのかと疑いたくなるような軽さだったがその中には処方箋や診断書が入っているのだろう。
「症状も気分も安定しているから、このままいつも通りに無理せず過ごしなさいだって」
「路上ライブではしゃぎ過ぎて体調悪くするなよ」
「大丈夫。それに、翔哉くんと出かけたりすること、やっぱりいいことみたい。今年に入って随分良くなったねって褒められちゃったよ」
 電車の窓越しに通り過ぎていく下町の風景を眺めながら、未來と並んで座っている。肌寒い2月に未來と再会して同じ時間を過ごすようになってから、二ヶ月が経っていた。外は徐々に暖かくなってきて、桜の花も綺麗に咲いていた。これからはふたりでもっと遠くまで出かけるのもいいかもしれない。ずっとこの街に閉じこもっていた未來に、世界中の綺麗なものをたくさん見せてやりたい。かつての快活さを取り戻しつつある未來を見ながら翔哉は思った。

 会場となる公園に着く頃には陽が沈んでいた。桜の木が街灯でライトアップされており、仕事を終えたサラリーマンがそれを横目に帰宅していく姿が時々見られた。
 桜の木から少し離れたベンチに、ひとみは座っていた。
 いつの日か公園で見せたように、静かにギターを弾きながら鼻唄を唄っていた。ふたりの来場に気がつくと笑顔で「いらっしゃい」と言った。
「今日はよろしくね」と未來が言うと、少し緊張した面持ちで「じゃあ・・・早速聴いてください」と言ってギターの弦を震わせ始めた。
 一曲目は未來が以前好きだと言った曲である『矛と盾』だった。口元で小さく手のひらを合わせる未來は無言でひとみの歌を聴き入っていた。なるべくひっそりと、あまりお客を入れずに歌いたいとは言うものの、もしかしたら大演壇になってしまうかもしれない。でもこの曲はふたりに聴いてほしかった。だから最初に歌ったんだ、とひとみは歌い終えて言った。
「末吉くん、今日は写真撮らなくていいや」
 ひとみはピックを弦に挟んで水分補給をしながら言った。
「せっかくふたりで来てくれてるんだし、どうせお給料も出ないんだったらお客さんの一人として楽しんでいって。桜も綺麗に咲いてるんだから花見ついでに、私の歌を楽しんで行ってください」
 街灯で照らされた桜の花びらが一粒踊るように落ちてきて、ひとみの頭に静かに着地した。翔哉に向けた眼差しはいつも仕事仲間として向けるものではなく、ミュージシャンとしてお客へ向けるものであった。再びピックを摘み、弦を震わせた。
 その後も路上ライブ時代に作った曲やメジャーアーティストのカバー、いつもライブハウスで歌っている曲のアレンジを奏でているうちに、足を止めて聴き入る観客が徐々に増えていった。気づけばひとみの座っているベンチを中心に半円状の客席が出来上がった。スマートフォンで写真を撮る者、腕を組みながら真剣な顔をしながら見る者、未來と同じように目を輝かせながら聴き入る者。誰もがひとみの歌に魅了されていた。
 かつて合唱コンクールでピアノの語り弾きをした一曲をアコースティックギターでアレンジして歌い終わると、いつものライブハウスに負けない量の拍手がひとみに向けられた。少し緊張した面持ちで頭を下げた。
「皆さん、仕事や学校の帰りでお疲れだと言うのに足を止めて私の歌を聴いてくださって、ありがとうございます。普段私はライブハウスで歌ってるので、マイクとかスピーカーを通して声を届けています。久しぶりに何も通さずに生の声で歌を届けたくて路上に出てみましたが、本当はこんな大々的にやるつもりもなくて・・・」
 緊張からか、いつもよりトークにキレがなくなっていたが、いつしか翔哉と未來に語りかけるものではなく観客全体に伝えるものになっていた。成長してもひとみは、このような舞台の方がやり易く感じているのかもしれない。
「えー・・・こんなに大勢の方が集まってくださったので、せっかくなので皆さんが知ってる歌を歌いたいと思います。ぜひ皆さんも、一緒に歌ってください」
 そう言うとひとみは翔哉に目を向けた。
「翼をください」
 未來がハッとした。
 高校時代、未來の名前が広く知れ渡るキッカケとなったのがクラスの女子が開いていた小規模な合唱コンクール。そのフィナーレとなった卒業ソングで未來が歌った曲こそ、『翼をください』だった。この曲を今日、未來が歌えたなら病気の完治も目前なのだと翔哉は思っていた。未來にとっても忘れることができないライブになるだろうと、翔哉はひとみに提案したのだ。
 ギターのイントロの後、ひとみが歌いだした。翔哉も歌い、周囲にいたサラリーマンや若者たち、主婦も続いていく。
 だが、未來はなかなか口を開かなかった。
 どうしよう・・・と時折見上げてくる未來の手を翔哉はギュッと握り締めた。歌ってごらん、と目で合図する。そう、かつての未來は走ること、そして歌うことが大好きな少女だったのだ。口を開けて少しずつ、小さな声で未來も歌い始めた。徐々に声量が大きくなるに連れて、翔哉の左手を握る未來の右手が強く握り返してくる。
 気づくと未來は、周りのお客や翔哉は勿論、ひとみにさえも劣らない輝きを見せていた。かつての未來の歌声が、ライブの中心にあった。
 歌い終えると大量の拍手がひとみ、そして未來に向けられた。ひとみも未來に拍手を送った。周りの人々の笑顔がこのライブの成功を物語っている。翔哉も笑顔で未來を見ると、彼女の異変に気がついた。繋いだ右手は小刻みに震え、左手で胸を押さえていた。
「未來・・・?」
 呼吸は荒く、目の焦点は合っていないように見えた。咄嗟に未來の肩を抱いて群集から逃れるようにふたりはその場を離れた。
 未來の身体は真冬のように震えていた。

   ◇

 なるべくひと気のない場所に行こう、と翔哉は未來を川辺に連れて行った。近くの自動販売機で暖かい飲み物を買って、未來に渡した。ベンチに座らせてコートを肩に掛けると、未來の目から涙が溢れていることに気がついた。
「・・・だから言ったじゃん。私は病気なんだよ。迷惑ばっかりかけるし、できることだって少ないし良いとこだって何もない。こんな女と一緒にいたって何も得しないよ。翔哉くんが恥かくだけだよ。もう駄目だよ。お願いだから私のことは放っておいて・・・!」
 俯いて涙を流す未來に翔哉は何も言えなかった。ただ呆然と、未來の頭に降り注ぐ水滴を眺めていた。気がつくと雨が降っていた。4月の雨は肌を刺すような冷たさだった。
「翔哉くんは私にありがとうって言わせたいって言ったよね。でもこんな私じゃありがとうなんて言えないよ。何をするにも申し訳ない気持ちになって・・・。私がいなかったらもっと楽しいんだろうなっていつも考えてる。そんな気持ちなのに、ありがとうなんて上辺だけで言えないよ!言っても意味ないよ!」
 感情を一気に吐き出した未來の身体が再び小刻みに震え、涙と吐息が同時に溢れ出た。今までに見たことのない未來の姿だった。
「なんつーか・・・今の未來がありがとうって言えないことは分かった」
 未來の嗚咽が落ち着き始めた頃に翔哉は言った。相変わらず未來は前髪に雨粒を走らせながら川の水面に雨が落ちるのをボーっと眺めている。
「でも考えてみたらさ、ありがとうって、あえて言葉に出して言う言葉でもないんだよな。一緒にいて、なんとなくお互いに感じている位が丁度いいんじゃないかな。ワタシなんかが一緒にいて申し訳ない、じゃなくてワタシと一緒にいてくれて、ありがとう。そういう風に思うだけでいいよ」
「意味分かんない」
「うん・・・、俺も自分で言っていてよく分かってない。でもさ・・・」
 その後に続くべき言葉が思い浮かばなかった。ただ、ここで言葉を終えると未來は自分の元から去ってしまうのではないかという不安だけがあった。
 翔哉の視界の片隅に、雨の中でも悠然と光り輝くものが見えた。
 黙ってその輝きを見つめていると、未來が顔を上げた。数ヶ月前まで建設中だった東京スカイツリーが今まで見たことがないような青色に光っていた。
「そうやって顔を上げて、さっきまでみたいに一緒にいて笑ってくれてる。それだけで俺は充分伝わってたよ、未來のありがとうって気持ち」
 まるで首都高の下で告白したときのような気持ちだった。そのとき未來は恥ずかしさから猫に逃げていったが、今回は翔哉に目を向けた。涙声で「翔哉くん・・・」と呟くと、立ち上がって胸に飛び込んできた。冷たい雨にすっかり冷えてしまった未來の体温をここまで直に感じることは初めてだった。翔哉も未來を抱きしめ返すと、再び未來は嗚咽を立てて泣き始めた。濡れてしまった小さな頭を右手で撫でると、雀の尻尾のようなポニーテールが手に当たった。昔からこの尻尾を追いかけてきたな、と懐かしくなると、翔哉も目から涙が溢れてきた。
「しょーやの馬鹿・・・どうしようもない女好きになりやがって・・・」
「俺の大好きな人侮辱するとこうだぞ」
 そう言って未來を包む腕を強く締め付けた。
「痛いよ・・・」
「ごめんなさいは?」
「・・・ゴメンなさい」
 締め付けた腕を緩めて、しばらくの間無言でお互いを暖め合った。
「ねぇ」と未來が口を開くと、少し身体が離れた。
「ライトアップ、終わっちゃったよ」
 肩を抱いたまま川の向こうにやると、スカイツリーは真っ暗になって展望台を妙な光が走るだけになっていた。
「空気読めないねぇ」
「ここがいいシーンだったとしても、他のところでは最悪なシーン演じてるかもしれない。他人に関係なくみんなそれぞれ、決まった行動取ってるんだ。世の中そんなもんだよ」
「知らないよ、馬鹿」未來が小さく翔哉の胸を叩いた。
 開業前のライトアップの試験点灯だったその日、話しているうちに次のライトアップ「雅」がお披露目になった。紫色に輝くスカイツリーを写真に収める、久々の共同作業をふたりは行った。
 目標として定めていたものが目前まで迫っていたと思っていたが、ふたりで昇るのはまだしばらく先になりそうだ。でもふたりならいつか必ず、目標を叶える日が来る。このときは確かな確信があった。

10

 冷たい雨の中、翔哉は未來との間に強い絆を感じたが、その日を境に少しずつ未來との時間に違和感を感じ始めた。約束の時間に毎度のように遅刻をしたり、待ちあわせ場所に来ることがない日もあった。一緒にいてもどこか別のことを考えていて、翔哉を直視していない。そんな印象を受けるようになった。体調が悪いのかとも思ったが、「いつも通りだよ」と言って未來はミルクティーを口にした。
 当時は女子特有の気分的なものなのだと翔哉は思っていたが、そのときの心境がTwitterには記されていた。
 あの日以来、未來自身も翔哉に対する気持ちは一時的に昂っていたようだが、それと同時に未來自身が翔哉に対し小さな不安を抱いていた。一緒に出掛けることに対する不安。多くの人に目を向けられたことで感じた恐怖が、まるで未來の心に影のように染み付いてしまっていた。出掛けようとするたびに、その影が未來の心を掴み、翔哉との時間の邪魔をしていた。
 ある日未來は、「何で翔哉くんは私のこと好きなの?」と尋ねた。一見するとどこにでもいるような恋人同士の会話だが、未來にとってそれはとても重要な質問だった。うーん・・・とコーヒーカップに口を付けて悩んだ末、翔哉は「なんとなく?」と言って笑った。
「じゃあさ、何であんまりお出かけとかできないし最近遅刻とかばっかりする私のこと、嫌いにならないの?」と聞くと今度は笑いながら「あんまり続けると家特定して迎えにいくからな」と冗談交じりに答えた。
 きっと数日前に言われていたら素直に笑えていたであろうその答え。それすら今の未來にとっては不安を大きくさせる要素でしかなかった。私が外に出ようとすると感じる恐怖、それを翔哉は知らないのだ。「未來は何で俺と一緒にいてくれるんだよ?」と尋ねる翔哉に未來は答えることができなかった。
 人の目線に対する恐怖が、徐々に出掛けることへの恐怖へと変わっていた。それがあの日を境に翔哉への恐怖へと変わった。

「たまにはお洒落な店にでも行こうか」
 何かご馳走するよ、と翔哉は切り出した。翔哉のワークショップ最終日と未來の誕生日が偶然に重なったその日を指定して言った。気づかないふりをしていたが、翔哉がそれに気づいていたのは明らかだった。
 まだ外に出ることに気は引けたが、母の多恵子もその日は仕事で家を出ていて、このままでは誕生日を独りで過ごすことになりそうだった。ふたりで誕生日をお祝いすることを楽しみにしていた数日前を思い出し、手短に「いいよ」と翔哉の誘いに承諾した。とはいうものの、当の翔哉もワークショップで日中は出かけているため一人で留守番をすることになったが、何度か訪れたことのある翔哉の自宅で一人と言うのは新鮮で楽しいものだった。
「いってらっしゃい」と翔哉を見送ると、いつもはふたりでいる部屋が静まり返った。普段あまりじっくり眺めることのない翔哉の部屋をじっくり見ていると、たくさんの写真集やカメラの本に紛れて本棚に小さなアルバムを見つけた。なんだろう?と思い、背表紙に何も書かれていない無地のそのアルバムに手を伸ばした。見ていい物か分からなかったが、ベッドに腰を下ろして一ページ目を開く。
 そこには翔哉が図書館で撮影した未來の寝顔の写真が貼ってあった。
 その後も翔哉が撮影した未來の写真でアルバムは構成されていたが、空白が目立つものであり、最初の数ページを除いて後は真っ白のままだった。
 ぱらぱらと手作りのアルバムを眺めていて、翔哉自身が未來に口で伝えられていないものを感じた。
――写真がタイムマシーンなの、本当なんだね。
 未來はアルバムを置いて、カバンを持って家を出た。

   ◇

 北原ひとみのCDを再生しながら翔哉が撮影したひとみの写真を眺めていた頃、カメラバッグを持った翔哉は帰宅した。
「おっつー!最終日どうだった?」
「少し遠出してモデルと一緒に撮影して、帰ってきてから講評貰って・・・疲れたー」
 ずっしりとしたカメラバッグを受け取って未來は改めて「お疲れ様」と翔哉を労った。早速食事に出かけ、アルバムについて話したいと思っていた未來であったが、翔哉から言われた言葉は「少し休む」であった。
「何時になったら出かける?」
「少し休んだら行くよ。本当少しでいいから、横になりたい」
 分かった、と未來が言う頃には翔哉はベッドに倒れて目を閉じていた。すぐに寝息を立て始めた翔哉の髪を触る。おそらく翔哉自身は気づいていないであろうが、彼は照れ隠しに前髪を触る癖がある。ふたりで待ち合わせた時も、多くのときに挨拶をしながら片手で髪を触っていることに未來は気づいていた。そのまま頭を撫でてみるが、変わらず目の前の恋人は静かに寝息を立てていた。
「翔哉のばーか」
 未來もベッドに横になり、真正面から翔哉の顔を見てみる。普段気づかない剃り残しの髭や顔の皺に気づいた。高校時代に離れてから、どのような人生を歩んできたのか未來はあまり知らなかったが、確かに彼は今、文字通り手の届く場所にいる。そして彼自身の人生に自分を参加させてくれている。
 そのまま唇を重ねてみようかと思ったが、寝ているとは言え恥ずかしかった。目を閉じて少しの間、翔哉と共に眠りに着いた。

 陽が沈んだ後も翔哉は熟睡を続けていた。
 未來が横で寝ていることに気づいた様子は当然なく、変わらず静かに寝息を立てている。少し休む、と言うのには長すぎる程に時計の短針は動いていた。
 このままふたりで朝を迎えるのも悪くはなかったが、仕事を終えて帰宅する母を心配させてはいけないと思った。何より、未來は早く翔哉にアルバムのことを話したかった。
「翔哉くん、起きてよ。そろそろ出かけようよ」
 何度か肩を揺すりながら声をかけてみるが、依然として翔哉は目を閉じたまま起きる気配を見せない。まるで高校時代、授業中常に居眠りをしていた自分みたいだ、と未來は思った。ある日数学の担当だった杉内先生が未來の授業態度の悪さに激怒して、頬っぺたを引っ張って叩き起こしたことがあった。驚きのあまり目を覚ましてしまったことを未來は鮮明に覚えていた。
 ニヤッと笑ってそのときと同じように、未來は翔哉の両頬を摘んで引っ張る。
「起きろー!しょーや!」
「何すんだよ馬鹿!」
 翔哉が眠気眼をこちらに向けてくる。
「おはよ、そろそろ出かけよ」
「あと少ししたら行くから・・・」
 そう言うと、再び目を閉じてしまった。
「・・・ねぇ、今日なんの日か覚えてる?」
「知ってるって。でももう少し休ませてくれ」
「今日一日中、私待ってたんだよ。それでね、翔哉くんの本棚の上にあったアルバムのね・・・」
「疲れてんの!!」
 翔哉が怒りの目を向け、大声を未來に向けて飛ばした。部屋が静まり返り、秒針が時を刻む音がやけに大きく感じられた。
 目の前で鋭い眼差しを自らに向けている翔哉を目の前にして、思考が一瞬停止してしまった。頬を涙が伝うのを感じ、我に返ると次々と涙が溢れだした。
「・・・もういい」
 かばんを持って未來は立ち上がり、翔哉の家を出た。自分に向けられた、はじめての翔哉のあの眼差しに気持ちが動揺していた。そして自分のことばかり優先してしまった自分自身が悔しくて仕方なかった。落ち着こう、落ち着こう。そう思うたびに両手が震えて涙が抑えられなかった。とにかく一刻も早く自宅に帰って気を落ち着かせたい。その一心で早歩きで自宅を目指した。
 翔哉の家を飛び出し、ひと気の少ない道を早足で歩いていくうちに、気がつくと会社帰りのサラリーマンが多く行き交う駅前に来ていた。この駅前を越えて、バス停でバスに乗れば家まであと一息だ。俯きながらも無我夢中で脚を進めていると、前を通行する人にぶつかってしまった。
 謝ろうと顔を上げて、未來は気づいた。周りから多くの男性が不審な目をこちらに向けている。泣きじゃくる自分を面白がっているんじゃないか、と一瞬思うと、手足の震えが更に大きくなり、未來は立っていることすら困難になっていた。胸を締め付けられるような息苦しさと死んでしまうのではないかという恐怖に駆られる。視線をどこに向ければ良いのか分からず、挙動不審に動こうとする頭を抑えつつ荒い呼吸を不規則に繰り返し、その場にしゃがみ込んでしまう。周囲の人々が未來の周りに集まり、八方から飛び交う声は未來に届いていなかった。

 救急車で搬送され、病院で医師からパニック障害の病名を伝えられたのは、気持ちが落ち着いた20時過ぎだった。
 多恵子が迎えに来て、未來と多恵子は消灯時間後の暗くなった病院のフロアを無言で歩いて出た。車で迎えに来たと思っていたが多恵子は歩いて帰ろう、と言った。「若いのに甘えてんじゃないよ」と白髪が少しずつ見えてきた母は未來の手を引いて歩いた。
 厳しい寒さは過ぎ去ったものの、多少の肌寒さがまだ残る4月後半の夜道は静かで気持ちが良かった。その中を、母とふたりでしばらく無言で歩いたが、多恵子が突然「好きな人でもできた?」と口を開いた。突然の問いかけに「えっ?」と聞き返すと、母はこちらを振り向いた。まるで同年代の女性のような眼差しだった。
「今日喧嘩でもしたんでしょ?大昔だけどお母さんだって色々と経験したもん。分かるわよ」
「なんで分かるの?」
「帰って鏡見てみれば分かるかもよ」
 なにそれ、と言うと面白そうに笑い、「どんな人なの?」と興味津々に問い詰めてきた母に翔哉を紹介しようとするが、上手く説明できない自分に未來は気がついた。
「モミ高出身で、写真が好きな人」
「・・・それだけ?」
「それだけ」
「未來はその人のどこが好きなの?」
「・・・わかんない」
 未來の頭にアルバムのことが一瞬過ぎったが、あれも翔哉が好きで作った物なのだ。それが自分が彼を好きになる理由にはならないのではないか、と再燃していた翔哉への想いに再び疑問を抱き始めていた。
 多恵子は少し残念そうに夜空を見上げ、小さく「そっかぁ」と呟いた。
「未來が最近楽しそうだから、もしかしたらお母さんのとこに紹介する人が来てくれるのも遠くないのかなって思ってたんだけどねぇ」
「紹介してほしかった?」
「そりゃあ、一人娘の恋人なんて複雑な気持ちになるだろうけど早く会ってみたいよ。その彼とお母さんもデートしてみたいし」
「なにそれ」
 未來に自然に笑みがこぼれた。
「でも、素敵な人なんでしょ?」
「・・・」
 未來は再び俯いて口を閉ざしてしまった。交際が始まって三ヶ月、未來は翔哉といることで笑顔を取り戻していた。間違いなく楽しい日々を過ごしていた。でも今の未來は分からなくなっていた。一緒にいることが当たり前だったのに、まるで自分を追い払うかのように向けられた眼差し。怖い。正直な気持ちはその一言だった。
「まあ、焦ることはないよ。未來の問題だし。でもね」
 と言うと一息ついて多恵子は未來に言った。
「どんな人だろうと、未來を泣かせる人はお母さん許さないよ。未來が生まれたとき、お父さん言ってた。この子は絶対に幸せに生きる。お母さんがこんなに頑張って産んだ子なんだから幸せにならないといけないんだってね」
 未來は今でも父親である竹内悟を許していなかった。どんな理由があったかは分からないが、自分と母を遺して知らない女性と最期を迎えた父は最低の男だと思っていた。そんな父のことを、母が久しぶりに語った。
 母が時折父の遺影を眺めていることを未來は知っていた。母は、今でも父を夫と思っていた。
「・・・なんの話なの?」
「未來が大っ嫌いだった人の遺言」
 クスクスと母は笑い、「さぁ、明日も仕事だ」と足早に帰宅した。
 帰宅後、未來は鏡を見た。誕生日のためにバッチリと決めたメイクは涙で崩れ、頬には涙の流れた跡がくっきりと残っていた。
 なにこれ、と未來は一人で笑った。

11

 『俺が悪かった。会ってしっかりお詫びがしたい。未來の都合の付く日を教えて下さい。』
 簡潔にそう記された翔哉からのメールに気がついたのは翌朝のことだった。仲直りをして、再び同じ時間を生きていたい。そう思うと同時に頭から離れない翔哉から向けられた眼差し。駅前で襲われた突然の発作。もう二度とあの体験をしたくはなかった。
 メールの返事をしないまま、気がつくと5月になっていた。未來が21歳を迎えてから10日が過ぎた頃、「新曲を聴いてくれる?」と、ひとみから誘いを受けた。
 まだ未完成であるものの、誰よりも自分の歌を好きでいてくれる未來の感想がほしい、とひとみに言われ、未來は久しぶりに家を出た。久々に浴びる太陽の光は暖かく、曇っていた未來の気持ちまで晴れ模様にする。ひとみの新曲を誰よりも早く聴くことができる。それが未來の気持ちを昂らせた。
 桜はすっかり散っちゃったなぁ。隅田川沿いを歩きながら思った。時期を考えれば当然のことではあるのだが、ここ数日が瞬く間に過ぎて行ったため未來にとって桜が咲いていた路上ライブが一ヶ月も前のこととは思えなかった。一ヶ月前は体調が良くて、路上ライブが楽しみで・・・いつも傍らには翔哉がいた。
 再び翔哉のことを思い出し、未來は首を振った。今は彼のことより目の前のひとみの歌を楽しみにしよう。
 そのひとみが、公園のベンチに座っていた。いつもと全く変わらない様子にひとみが思わず笑顔になると、ひとみが振り向いた。
「ひとみさんっていつもベンチに座ってるね」
「ベンチに座ってるといつも聴きに来てくれるね」
 はじめて知り合った水族館近くのベンチやライブのベンチ。陽の変化とひとみの奏でる歌が美しく、未來にはその姿を後ろから一日中眺めていても飽きない自信があった。
「座って鼻唄とか唄ってると、なんとなーく悩みが解消されて新しいメロディとか歌詞が思い浮かぶんだ」
 話しながらも常にひとみの指はリズムを刻んでいた。こうしている間にも新しい曲ができているのかもしれない。
「きっと未來にも、そういう場所あるはずだよ」
 ひとみの言葉はたとえ歌っていなくとも、未來の心に抵抗無く入り込んできた。この人は凄い。未來は改めて実感した。
「ねえ、ひとつ聞いていい?」ただひとつ、未來にとって気になることがあった。
「悩みが悩みじゃなくなるのって、どういうこと?」
 うーん・・・とひとみは少し考えた。考えた、と言うよりきっと言葉を選んだのだろう。
「年輪を重ねるみたいなことかな」と、静かに言った。
「樹って年月を重ねると幹が太くなって、簡単に倒れなくなるでしょ?それに似たような感じ。ひとつの悩みが解消されたら、色んな場面でちょっとのことじゃ折れなくなるよ。・・・単に年齢重ねて図太くなってるだけかもしれないけどね」
 そう言って小さく笑うと、ひとみは未來を見つめて「逃げるんじゃなくて、未來なりの答えを見つけてね」と言った。

   ◇

 夕陽が春の空を染めている。そのさらに上には夜空が広がり、オレンジと藍のグラデーションが美しかった。それを背景に、まるで切り絵のように街並みが黒く塗りつぶされている。中心から鉄塔が不揃いに伸びている。東京スカイツリー開業まで10日あまりと迫っており、その外観は以前この高速道路下の堤防から見たときと違って美しいものだった。
 悩みの解決できる場所、言われて真っ先に思い浮かんだのがこの場所だった。
 今朝まで、何もかも忘れようとばかり思っていた。すべて忘れてしまって、再び昔の自分に戻ろうとばかり思っていた。しかし諦めがつかなかったとき、ここが思い浮かんだのは必然なのかもしれない。翔哉との思い出の場所のひとつだ。
 時折通り過ぎる自転車と首都高を走る車の音以外、まるで世界から隔離されたように静かなこの場所で少しずつ変わっていく空を眺めていた。ここに来れば何か変わるかもと思ったが、自分の心は思っていたほど素直ではなかった。ため息をついて、そろそろ帰ろうかと思っていると背後から聞き覚えのある音が聞こえた。
「盗撮なんて始めたの?」振り返ると、翔哉がいつもと変わらぬ様子でカメラを構えていた。
「あまりに綺麗だから、つい」
 そういうと、翔哉は未來の隣へやってきた。未來は少し翔哉から離れた。
「なんか、久しぶりだな」
「・・・うん」
「まず謝らないとな。この間は誕生日だっていうのに、冷たくしてごめん」
「別にいいよ」
「それとさ・・・北原さんのライブで、翼をください歌うの知ってたんだ。俺が提案した。未來がこれを歌えたら凄い自信になるんじゃないかって・・・」
「ねえ」
 翔哉の言葉を遮るように未來は大きな声を出した。思ったより大きな声が出て未來自身が驚いたので、少し抑えて続ける。
「ねぇ・・・翔哉くんここで、私にたくさんありがとうって言わせたいって言ったよね?そんな翔哉くんが何度も何度も謝ってどうするの?」
 顔を見ずとも翔哉が口を閉ざしたのが分かる。まるで世界中の空気が張り詰めてしまったような錯覚に陥る。自分は何を言ってるんだと未來は思ったが、翔哉を意識すると震える身体を抑えるために俯きながら未來は続けた。
「翔哉くんの好きな私は、昔の私であって今の私じゃないんだよ。私の中に生きてるなんてそんな綺麗事もう聞きたくないからね。過去の私に恋してるからって今の私を無視しないでよ。私は病気なんだよ。こんな身体なのに一緒にいようなんて一方的に押し付けないでよ!」
「未來・・・」
「ねぇ、三ヶ月一緒にいて楽しかった?これからも一緒にいたい?そう思ってるのは翔哉くんだけだよ!今の私にとっては今までだって結局翔哉くんは今の私を無視してただけなんだって分かってがっかりだよ。それなのにこれからも一緒にいたいなんて思えるわけないでしょ?今の私を無視するのもいい加減にしてよ!」
「未來!」
「やめてよ!!」
 肩に触れた翔哉の手を振りほどき、翔哉の顔面に拳をぶつけた。その場で頬を抑えて棒立ちになる翔哉を見て、頬に涙が走った。
「ごめんね・・・」
 呟くように言い捨ててその場を後にした。
 自分なりの答えなんて見つからなかった。また逃げてしまった。昼に聴いたひとみの新曲は、明らかに翔哉と未來を歌った曲だった。そこに描かれているふたりは噛みあわないながらも歩調を合わせて歩き、共に成長していくふたりだった。思い描いていた翔哉との美しい未来がそこにあった。ただ、それを作れなかった。
 翔哉の姿が見えなくなった頃、膝から崩れた。発作ではない、心の動揺から息が上がっていることに気付いた頃には両手で顔を覆っていた。
 顔を覆った両手は震えが止まらなかった。

12

 北原ひとみの新作「幹」について話がしたいと翔哉が呼び出されたのは、三浦が家に来て未來の家を特定したことを伝えてから少し日が経った頃だった。「幹」というタイトルには未來の名前が掛かっていることはひと目で分かった。
 翔哉の元から未來が離れて一週間後、ひとみから新曲についての話があった。この曲は翔哉と未來を見ながら作った曲だということ。この曲を作る過程で、まるで幹から枝分かれするかのようにいくつかの曲が同時に浮かんだこと。それを織り交ぜて、一枚のアルバムを作ろうと思ったこと。そして、そのアルバムの写真は翔哉とは別のカメラマンに撮影してもらうこと。
「もしかしたら今後はずっと、末吉くんとは別の人に撮ってもらうことになるかも」
 落ち着いた喫茶店で、ティーカップの中に広がる波紋を見ながらひとみは言った。
「未來が何か言った?」という質問に対して首を横に振り、「実は話がある」と続けた。
「この間の路上、有名レーベルの人が実は聴いていたみたいで。メジャーでやってみないかって連絡があった。全然世界が変わるんだろうけど、やってみようかなって思ってる。そうすると、写真も個人的にお願いするんじゃなくて事務所が依頼した人に撮ってもらうことになるから」
「それじゃ、最後のこの作品くらい俺に撮らせてくれてもいいんじゃ・・・?」
「この作品に個人的な気持ちを持ち込まずに、末吉くんは写真を撮れる?」
 翔哉は言葉を返せなかった。翔哉と未來をひとみが描いたこの作品に翔哉が関わると、それはひとみの作品ではなく翔哉の作品になってしまう恐れがある。ひとみの言わんとすることは分かった。メジャー業界に打って出るための大切な作品であるから慎重に行きたい。表向きではそのように話していたが、ひとみの本心は伝わってきた。
 ラベルが無地のCDをひとみから渡された。
「本当は、完成した物を渡せたらいいんだけど・・・最近ライブハウスの仕事も来れないくらいに忙しいみたいだし。それに、末吉くんには一ヵ月後とかじゃなくて、今聴いてほしいから」
 CDケースを開くと、真っ白なCDと一緒に手書きの曲目リストが入っていた。

『幹』
・朝焼け
・目玉焼き
・ベンチ
・噴水
・マジックアワー
・翼をください(secret track.ラストページ)

「末吉くんと一緒に作品作るのは凄く楽しかったよ」
 翔哉をまっすぐ見てひとみは言った。
「新しい作品が生まれて、それを聴いてくれる人がたくさんいて、素敵な写真と一緒に詞を届けることができる。ずっと続けばいいのにって思ってた。でもいつまでも、同じ幸せに浸っているようじゃ駄目だと思った。新しい環境に身を置いたり、あえて今の幸せを捨てて次に進むことも時には必要なんだと思う」
 まっすぐな眼差しのひとみを翔哉は直視できなかった。少しの間の後、「末吉くんも、新しい幸せを見つけてね」と小さく言ってひとみは席を立った。ティーカップの中には紅茶が少し残っていた。

 ひとみが席を離れて少しすると、スマートフォンが振動した。ディスプレイには「非通知設定」の文字。
「その背中、寂しすぎますってー」
 電話越しに聞こえたのは三浦の声。同時に、横からがやってきたと思うと、先ほどまでひとみが座っていた席に座った。
「北原ひとみさん、言葉が臭いけどいいこと言いますね。感動しちゃいました。でも結局のところ、仲間にはなってくれないみたいですね。スエキチさんの仲間はやっぱり僕だけみたいです」
「・・・本当に君は俺の味方なのか?」
 面白そうに首を傾げる三浦に、スマートフォンの画面を見せた。
 未來のTwitterの画面が表示されていた。

――吹っ切れたと思ってたのに、向こうが私を離してくれていない。そのうち会いに来られたりしたらと思うと怖い…。どうすればいいんだろう

「ひとみにも未來を嗅ぎまわるような話をしていない。味方だと思って頼りにしていたのは君だけだ。未來がこういうことを感じることには、君が関係しているのか?」
 三浦は動揺する姿を微塵も見せず、いつもの笑みを浮かべている。
「あーあ、バレちゃったー。そもそも何で未來さんに話すのかなぁ」
 そう言うと、ポケットから写真を一枚取り出して机に置いた。翔哉と未來が再会したあの日、ふたりが寄り添っている後姿。そして未完成の東京スカイツリーが写っていた。美しい写真だった。
「僕って元々、スエキチさんを調べろって依頼されてましたからねー。住所とか年齢、休日の過ごし方、預金額とか性癖に至るまで。色々報告させていただきました。でも安心して。まだスエキチさんは未來さんの住所を知らないので、そこまでは言ってないです」
「そうか・・・」と言って、空になった自分のティーカップに目を落とした。誰かに調べられているという驚きはあったが、今は別のことで頭が一杯だった。
「なんですかー元気出してくださいよ。あと少しじゃないですか」
「・・・今までは、自分が間違っているとしても未來に早く元気になってほしくて、考えずにいた。でも実際、未來自身は過去ではなくて今を生きようとしている。過去の人である俺が今の未來に介入することを怖がっている。そんな想いさせてまでやるべきことなのかな・・・」
 三浦がティーカップの残りを口にした。
「・・・世の中の犯罪者って、なんで悪いことするか考えたことあります?」
 翔哉が顔を上げると、三浦が珍しく考える顔をしながら同じく空になったティーカップを見つめていた。
「んまあ、僕みたいに元々気が狂ってる人だってそりゃいるんでしょうけど、殆どはそうじゃないと思うんです。何かしなければならないことがあるのに、誰にも相談できない。相談しても何もならない。悪いことするしか方法がないって思った、社会的弱者だと思うんですよね」
 そう言うと、三浦は立ち上がって「悪いことしてまでやることかどうかは、スエキチさんの決めることです」と優しく言って去って行った。

13 

 ひとみ、そして三浦が席を離れた後もしばらく翔哉は座ったままでいたが、夕方の賑わいが訪れ、店員にさり気なく会計を促されて仕方なく翔哉は店を離れた。
 未來のためになると思い、続けてきたがこれが自己満足なのだろうか。もしそうなら、今すぐ辞めるべきではないだろうか?未來のことは忘れ、ひとみの言う通り新しい幸せを探すべきではないだろうか?それとも一縷の望みに賭けて未來とあの医師を繋ぐべきなのか。
 どちらにせよ、自分が出来ることは限られている。そのことに翔哉は気付いた。
 帰宅後、ひとみから受け取ったCDを聴いた。
 まるで誰かの一日を表現しているような曲の並びかと思ったが、その終盤、「マジックアワー」は夕焼け空に映るオレンジ色と青色、全く違う色が織り成す美しさ。次の朝が来ることへの感謝。そして別々のふたりの未来を歌った静かなバラードだった。そして未來の思い出の曲「翼をください」演奏後に続く「ラストページ」。

♪ ねえ 私気付いたんだよ
  一緒に過ごす毎日 それだけで伝わると思っていた
  でも
  気持ちって伝わるんじゃない
  伝えるんだよね

  いつも伝えられる 素直な僕じゃないけど
  最後だから言うよ 心からの
  ありがとう

 まるで語りかけてくるようにか細く、しっかり聴かないと通り抜けてしまいそうな歌声を聴き、翔哉はもうひとつ、喫茶店で受け取ったものを手に取った。三浦が何気なく置いていった写真。身体を寄せ合い、東京スカイツリーを眺めるかつての翔哉と未來。再会した喜びや彼女を支えていく決意、何より未來自身が取り戻そうとしていた笑顔が写真を見て思い出された。
 あの頃に戻りたい。翔哉は強く思うと、本棚に収まっている未來とのアルバムを開いていた。
 一緒に出掛けたときの笑顔の写真。少しずつではあるが未來の表情が明るくなっていくのが分かった。翔哉は世界で一番大好きなその顔をずっと見ていたかった。アルバムは最初の数ページを残して何も貼られていないページが続いている。ここに写真を貼るのが翔哉の楽しみだった。
 戻らない日々を振り返り、ページを閉じようとするとアルバムの最終ページに写真が挟まれていることに気付いた。そのページを開くと、そこには唯一、誰が見ても他のページとは違う作風の、翔哉がだけが写っているページがあった。

   ◇

「雨降るって言ってたじゃん。傘持っていかないなんて馬鹿だよ」
「うるせー。家出るときは晴れてたんだから、あとから降り出した雨がいけないんだ」
 翔哉はその前の日、写真の仕事で家を出ていた。朝は太陽が顔を覗かせていたが、午後から一変して雨が降ると天気予報は伝えていた。伝えていたはずなのに、翔哉はそれを見ることなく出掛け、天気予報は当たり、翔哉は冷たい雨に打たれて帰宅することとなった。
 そして案の定、熱が上がり、仕方がないと未來が看病に駆けつけていたのだ。
「天気のせいにしたって仕方ないじゃん。素直にならないと手作りご飯食べさせてあげないぞ」
「何が手作りご飯だよ・・・どうせ簡単なものだろ」
「ああーそうやって言うんだ」
 お盆に出来立ての卵粥とポカリスエットの入ったコップを乗せて未來は言った。高校を中退して以来、母から料理も教わった。それなりに上手に出来ているはず。少なくとも翔哉の思う「簡単なもの」ではないはず。
 ベッドの横の小さな机に置くと、翔哉はベッドから出てきて食事を見た。
「上手じゃん」
 未來の目を見ずに呟くように翔哉が言った。素直に分かればいい、と少し心が躍る。
「あーんってしてあげよっか?」
「いらねーよ馬鹿」
「馬鹿なのは翔哉くんじゃん。傘差さないで。無いなら傘くらい買いなよ。熱出たからっていつでも来てあげられるわけじゃないんだからね」
「・・・わかったよ。来てくれてありがと」
 まだ湯気が立ち昇る卵粥を冷ましながら翔哉は黙々と口に運んだ。
「未來ってさぁ」
 台所に戻り、自分の食事を取ってきた未來に聞こえるように、少し大きな声で翔哉が呼んだ。
「やってみたい仕事とかないの?」
「なーに突然?」
 未來も声を張り上げて答える。
「けっこう色んなこと出来ちゃうじゃん?だからどういう大人になりたいのかなーって」
「んー・・・特になりたいものって無いけど、幸せな人生がいいよね」
 オムライスをお皿に乗せて戻ってきて言った。色んなことが出来るとは思わない。むしろ出来ないことの方が多いのは自覚していた。
「なんだよそれ」
「毎朝紅茶でも飲みながら、休みの日には近くの公園に遊びに行くような当たり前の幸せがいいんじゃない?」
 外に出掛けて静かなレストランやカフェで食事をしたり、公園の芝生でピクニックをするのも良い。ただ、自宅にお邪魔して一つの机をふたりで囲む今のような人生も悪くない。
「そうじゃなくてさ・・・なんか欲しいものとかないの?」
 オムライスにケチャップで絵を描きながら翔哉を見ると、見られたことに気付かないフリをしながらゆっくりお粥を食べている。
「もうすぐ誕生日じゃん?どういうの欲しいのかなって」
「じゃあ・・・ピンクゴールドダイヤ買って!」
「そんなの買えるわけないだろ」
「ちぇ・・・けち」
 期待していたわけではなかったが、誕生日を認識していたこと、プレゼントを用意してくれること、母の仕事が休みでない限り毎年独りで過ごしていた誕生日をお祝いしてくれることが未來にとって凄く嬉しかった。またひとつ歳を重ねることが楽しみになった。
 けち、と言われた翔哉はというと、考え顔で卵粥を冷まし、黙々と食べている。こういう真剣な表情の翔哉を見ると、未來はなぜか悪戯をしたくなる。
「ねえ、見てみて」
 オムライスを食べ終えたところで未來がスマートフォンの画面を翔哉に見せると、翔哉は焦って咽た。卵粥が何粒か机の上に跳ぶ。
「いきなり何見せてんだよ!」
 画面には、未來が今食べていたものと同じ、ケチャップで犬の顔が描かれたオムライス。そのオムライスを差し出すメイド服の未來が写っていた。
「翔哉くんどういう反応するかなって楽しみだったんだけど、大喜びじゃん!よかったー!」
「いきなり変な写真見せんなよ!」
「顔赤いぞしょーや!」
「熱あんの!!」
「あっ・・・しまった・・・」
 翔哉の看病をするなら、看護師のような服を用意してくるのだった・・・とは言わなかった。頭の中で舌打ちした。
「なんだよ?」
「・・・なんでもない。茶碗洗うね。食べ終わったならちゃんと今日は休むんだよ」
 茶碗を洗い、戻ってくると翔哉が寝息を立てていた。そして「ありがとな、未來」とメールが届いていた。
「直接伝えろよ、ばーか」
 自分もだ。ちゃんと伝えろよ、変な伝え方ばっかりしてないで。
 そんな思いを抱いているとは知らずに当の本人は穏やかな顔をしていた。そんな寝顔を写真に撮り、未來は帰宅した。

   ◇

 翔哉の知らぬ間に未來がアルバムにひっそりと作っていたラストページ。それがいつの間に作られたのか翔哉は分らなかったが、そのページの真ん中にいる自分は顔を少し赤らめ、寝息が聞こえてくるような穏やかな顔をしている。
 そして何より、未來の翔哉に対する気持ちが伝わってくるかのようだった。
 伝わるんじゃない。伝えるものだ、とひとみは歌っていたが、これが不器用な未來の気持ちの伝え方だと翔哉は思った。
 俺はちゃんと未來に、気持ち伝えられてたのかな。
 最後に言われたとおり、伝えるんじゃなくて押し付けていたから、未來は離れてしまったのかな。
 俺の未來への一番の気持ちって・・・?
 そのとき、翔哉のスマートフォンが震えた。画面には「非通知設定」の文字。誰からの電話か想像ができる。
「スエキチさん、考えまとまりました?」
「やっぱり俺、やるよ。どうなるか分からないけど、未來に治療の費用を渡そうと思う」
「そっか。そのことも関係することで少し話したいので、今からお邪魔してもいいですか?」
 そう言うと、玄関のドアが開いた。

14

 翔哉は今、東京のイメージとはかけ離れた古い町並みが色濃く残る下町を歩いている。片手には住所が記されたメモを写したスマートフォン。住所を頼りに足を進めるも、大きな通りから枝分かれして、そこから更に細く続く小道には多数の民家が存在するこの土地を迷わずに歩くことはできなかった。来る前に自宅でGoogleマップを使って何度も場所を確認してきたものの、上空から見るのと実際歩くのでは勝手が違いすぎるよ、三浦・・・。
 「お邪魔してもいいですか?」と電話越しに聞いた三浦は、翔哉の返事を待たずに玄関の扉を開いて部屋に入ってきた。いつも通りの図々しい態度を取る三浦は、いつも以上に図々しい。上がってくるなり冷蔵庫を開け、そこにあった2リットルペットボトルのコーラに口をつけて飲み始めた。
 戸棚からポテトチップスを出そうとする翔哉を制止して「あんまり時間ないので手短に話しますね」と切り出した。
「まず、未來さんにお金渡すときなんですけど絶対にスエキチさんだってバレずにやること。ただスカイツリー見てるだけで怖がるんだもん。住所知られたってバレたら何するかわかんないですよ」
「確かに・・・」
「それと、これはスエキチさんに聞きたいんですけど・・・」
 翔哉と向かい合うように三浦が腰掛けた。少年のようで、いつも人を逆撫でするような態度の三浦が真面目な目線を向けてくる。
「お金渡す。それだけでいいんですか?」
 三浦の言いたいことが一瞬分からなかった。
「別にいいならいいんですけど、懸念点は、お金渡して果たして未來さんがしっかりそのお医者さんのとこに行くかどうかってこと。だって突然誰だか知らない人から大金貰って、普通使うと思います?孤児院に義援金とかランドセルとか宝くじの当たり券が届いたって美談がよくあるけど、あれは差出人が“架空の”ヒーローを騙ってて、結局お金を手にした大人が恵まれない子供のために使うから美談になるんですよ。現実だと気持ち悪がって使えるものじゃない」
「じゃあ・・・俺も伊達直人になればいいのか?」
「僕はタイガーマスクより仮面ライダーの方が好きです。五代雄介から100万円貰ったのなら使わずに一生の宝にします」
「時間ないんじゃないのか?冗談を言ってる場合じゃない」
「考えてほしいのは、お金を渡す方法です。昔話では、ごんぎつねが毎日兵十の家の物置とか縁側に栗とか松竹を置いて行ってます。クリスマスにサンタクロースは、夜のうちに枕元とか飾りの靴下の中にプレゼントを置いていきます。正体バレずに、未來さんが病院にちゃんと行ってくれる、スエキチさんなりの方法を見つけて渡してあげてください」
 三浦の言うことは正論だった。未來に治療費を渡すことだけが翔哉の出来ることではあったが、それを実際に治療の費用として宛がい、未來が元気になってくれなければ意味がない。
「もうひとつ、これは懸念点っていうか個人的にスエキチさんに聞きたいんですけど・・・単純にスエキチさんそれで満足なんですか?前はあわよくば恋仲に戻りたいって雰囲気だったと思うんですけど、現実的に考えてそれは無理だと僕は思います。だって未來さんスエキチさんのこと、本当に怖がってるんだもん」
 三浦が再びペットボトルからコーラを飲む。
 未來が自分を敬遠している。この事実を改めて突き付けられ、気の沈む思いだった。
「お前、もしかして未來に会ったのか?」
 まるでここ最近の未來の様子を見てきたかのような三浦の物言いが気になった。
「会ってないですよ。でも人伝いに未來さんの様子は伺ってます。未來さんの情報を貰う代わりに、スエキチさんの情報提供しろっていう依頼ですから」
「なに言ってんだ・・・?その情報貰ってる人って・・・?」
「ごめんなさい、それ教えると、僕とあの人の契約違反になっちゃうので。・・・でも今日であの人との契約は終了ですので、心配しないでください」
 なんの契約が終わるという話なのか・・・翔哉には話が掴めずにいた。だが、三浦はこの件に関して一切口を割るつもりはない様子だった。
 そして、今が三浦と話す最後の時間なのだと感じていた。
「・・・ここまでやって、ちゃんと終わろうって決めたんだ。俺には未來を元気にはできない。でも元気になってほしいから。元気になって、例え俺とじゃなくても、未來を大切にしてくれる他の誰かと一緒にずっと笑ってていてほしいから」
 ジッと目の前の三浦を見つめる。真面目な表情で考え、ニッと三浦が笑った。
「そんなに想ってもらえるなんて、未來さんは幸せですね。それとそんなに想える人がいるスエキチさんも幸せ者です。子供の頃から家族も友達もいない僕には共感できませんけど、きっと家族とか恋人とか、本当に誰かを大切にする気持ちって、そういうことなんでしょうね。・・・スエキチさんは悪いことするしかないって決めた、正真正銘のストーカーです。でもこのストーカーは、サヨナラを前提にしたストーカーなんですね。前代未聞だよ」
 そういうと、三浦はパーカーのポケットから皺だらけになった契約書を取り出して机の上に置いた。雑に皺を伸ばし、その裏側に何かを書いて渡した。
「はいこれ、未來さんの住所。つらいでしょうけど、未來さんにバレないようにお金渡すんですよ。それとこれ、お返しします」
 机の上には、未來の住所の記されたヨレヨレの紙。それと小さな箱が並んだ。
「でも君への代金は・・・?」
 顔を上げると、三浦はそこにはいなくなっていた。まるで最初から誰もいなかったかのように、部屋は静まり返っていた。

   ◇

 何度か曲がる小道を間違えつつ小さな小道裏に入っていく。少し歩くと、そこには先日、三浦が満足気にパソコンで見せてきた未來の家があった。引き戸の玄関口の正面に、軽自動車一台が停められる程度の小さな駐車場。目の前には狭い一方通行の道路。決して立地は良くなく、贅沢な佇まいではなかったがここ数か月、ずっと翔哉が探し求めていた家だった。
 翔哉が送り主だと分からないように、そして尚且つしっかり通院の費用として使ってもらえる方法。三浦に念を押されたその方法は、翔哉には分からなかった。郵送を使ったり家のポストに投函してくるのは確実ではないし、どこか違う気がする。思い切って同居している母親に事情を話し、未來ではなく母親に受け取ってもらおうと思ったが、仕事先や彼女と連絡を取る手段が思い浮かばなかった。三浦にもっと情報を集めてもらうべきだったと思ったが、翔哉は腹を括って今、未來の家の前にいる。
 一度は諦めた計画が、三浦のおかげで達成できるところまで来ている。あまりにお粗末で非常識。やるべきことではないのは翔哉も分かっていた。常識的でない、間違えている。だけどそれだけの理由で翔哉は未來の将来を諦めたくなかった。誰も力になってくれない中、三浦は飄々と現れ、助けてくれた。本当に彼は犯罪者で依頼とあらば何でもする人間なのか、結局最後まで何者なのか分からなかった。ただ愛を知らずに生きてきた、だから自分を必要としてくれる人を探していた。翔哉はそのように感じた。
 突然現れ、突然去っていった彼とあまり多くのことを話すことはできなかった。最初こそ警戒の眼差しを向けていたが、そんな翔哉に対して少年のような面持ちで冗談を言ってくる三浦に翔哉は親近感を抱いていた。だから、最後はしっかり感謝を伝えたかった。また伝えることができなかった。
 だから、今回こそは・・・。
 翔哉は未來の家の呼び鈴を押した。返答が無く、もう一度。
「翔哉くん・・・?」
 振り返ると、そこに驚いた顔の未來が立っていた。

15

 小さなショルダーバッグを肩から下げ、雀の尻尾のようなポニーテールを結わえている。久々に会う未來は、何も変わっていなかった。
「どうして・・・なんで?」
「渡したいものがあって」
「知らない。ねぇ家教えてないよね?なんで知ってるの?」
 未來の顔は青褪め、体全体と声が震えていることに気付く。明らかに、翔哉に怯えている。恐怖と闘いながら言葉を絞り出している雰囲気だ。
「・・・最後に未來が言ったこと、覚えてる?昔の未來を押し付けるなって。俺、そんなつもりじゃなかった。一緒にいて、どんどん笑顔が増えていく未來を見てて凄い嬉しかった。未來がしばらく外に出れなかった分、世界中の色んなものを一緒に見て回りたいって思ってた。そうやって、一緒に未来を作っていけたらと思ってた。・・・でも、それを未來は望んでなかったんだよな。俺がしたいことを押し付けてた。未來の言う通りだったよ」
「そうです、私はもうあなたと何もしたくない。一緒に過ごした時間を返してほしいってさえ思ってる」
 俯き、小さな手を震わせながら「あなたが怖いんです。お願いだからほっといて・・・」と吐き捨てた。
「だから、お別れを言いに来たんだ」目を合わせない未來をまっすぐ見つめて翔哉は言った。
「たくさん“ありがとう”って言わせたいって思ってた。でも俺はずっと、未來に酷いことをしてきたんだなって。楽しかったのは、俺だけだったんだって」
 その場に膝を着き、翔哉は未來に頭を下げた。
「会いに来ちゃいけないことは分かってたけど、最後くらい直接ちゃんと謝りたくて。身勝手だけど、何も後悔することなく終わりたくて。だって、本当にあなたのことが好きだったから・・・!許してもらえなくてもいい。今まで本当にごめん!」
 何度も頭をアスファルトに打ち付け、翔哉は「ごめん」と繰り返した。
 何度目かの後、顔を上げると同じく顔を上げている未來と目が合った。
「渡したいものって・・・?」
 額の鈍い痛みを無視して翔哉は立ち上がり、背中のカバンから茶封筒を取り出し未來に渡した。それを受け取り、中を確認した未來は驚いて翔哉を見た。
 もうひとつ、カバンからクリアファイルを取り出して未來に渡す。
「未來の病気を治す名医がいる。その先生に俺、会って話を聞いてきた。本人が嫌がってるなら無理に言っちゃダメだって言われたけど、もしその資料を見て、処方を受けてみようっていう気になったらぜひ来てくださいって。治療費はそこに入ってる分で足りると思う。行くか行かないかは未來次第だけど、一度試してみてほしい」
 未來が資料に目を向けている間、沈黙がふたりを包む。読んでいるものかと思ったが、未來は頭に内容が入ってこない様子で翔哉を見た。
「治ったって翔哉くんに何も得なことないよ?なのになんでここまでするの?」
「・・・自分に後悔したくないから。あの時これが出来たのに、とか思いながら生きるのはもう嫌だから。未來にもそう思ってほしくないから・・・!」
 翔哉と未來が一緒に出掛け、話をする中で、たくさんの話を聞いた。学校へ行っていたときのこと。行けなくなったときのこと。行けなくなった後のこと。未來がたくさんの後悔を抱えていることを、翔哉は知っていた。心の状態がその後悔の大きな原因になっているのなら、それを緩和して元気な未來を取り戻してほしい。たとえそれを見ることが出来なくても、それが翔哉の唯一の願いだった。
「間違ってるよ・・・。そこまでする筋合いないのに・・・」
「間違いだらけのこの世界なんだから、多少矛盾してるくらいが丁度いいんじゃない?」
「だったら治るまで、責任持ってしっかり見届けてよ・・・しょーやのバカ・・・」
 握り拳を翔哉の胸に何度もぶつけて、未來は必死に声を絞り出した。
「未來、自分の未来を諦めないで。元気になって、笑顔でいて」
 一瞬翔哉を見上げると、未來の瞳から涙が溢れた。溢れた涙を構うことなく、未來はその場で膝を折って泣き声を上げ始めた。その小さな身体が今も小刻みに震えていることに、翔哉は気付く。
 潮時かな――。
 最後に頭をポンと一度撫で、翔哉は未來に背を向けた。

 未來が顔を上げると、そこに翔哉の姿は無くなっていた。
 翔哉が立っていた場所には、上品な外装の小さな箱が置いてあった。手に取り、開けると薄ピンクに輝くハート型のネックレスがあった。中心の小さなダイヤモンドが踊るような動きを見せて輝いている。
 箱の中には、アクセサリーの説明文が同封されていた。
 『 「ピンクゴールド」 人生を豊かにする。バラ色の人生。財産、愛情、気力を高める。 』
「冗談だったのに・・・ちゃんと覚えてくれてたんだ・・・」
 小道から覗く青空にネックレスを掲げてみると、一層輝きが増す。ペンダントの向こうに、青空を背景に雄大に建つ東京スカイツリーが顔を覗かせている。
 どちらも未來を眩しく照らしている。

第三部

 仏壇にいる主人はいつも仏頂面でこちらを見ている。職業柄、人を疑ったり、威圧してくる相手に負けない剣幕で対応しないといけないことが多々あった為、彼は少しずつ人相が変わっていった。出会ったばかりのときや結婚したとき、子供が生まれたときはもっと柔らかい表情をしていたな、とふと思う。単に歳を重ねて貫禄が出てきただけかな。家に帰ってきたとき、そして休日に一人娘を連れて海岸へ行ったときは父親に戻り、前のような笑顔を浮かべていたことを思い出す。
 竹内多恵子は仏壇に手を合わせている。主人であった竹内悟が警察官としての職務中に事故死してから10年以上が経ち、彼のいない生活が当たり前になって久しい。
 色んなことがあったけど、みんな元気に過ごしてますよ。私たちの宝物だった未來も、今じゃ立派な女性になりました。お父さんが何も言わずに私たちのところから居なくなったときは暫く泣きっぱなしで、それこそあなたのことを世界中の諸悪の根源みたいな扱いをしていました。
 ある日突然、何年も禁句みたいにしていたお父さんの話を持ち掛けてきて、あの子がまだ幼かった頃の写真やビデオを見ながら思い出を話したことを覚えています。きっとお父さんと向かい合って、ちゃんと理解したいって思ったのでしょう。それまで何時も心に不安を抱えて生きてきた未來はそこから段々と変わっていって、一人前の大人になったと思います。お父さんのことを許すことができたのかは分からないけど、向き合うことで未來もお父さんの死を乗り越えられたのかな。
 お父さんが居なくなったとき、私も最初は辛かった。心で思っていても、大切な人が居なくなる覚悟なんてそう簡単に出来ることではないのですよね。でも未來を見ていて、前にお父さんが言っていたことを思い出しました。「お母さんが一生懸命がんばって、この子は産まれた。だから絶対にこの子は幸せにならないといけないんだ。俺はこの子とお母さんが幸せに生きることに、命賭けるよ!」ってね。最後は警察官として誰にも何も言わずに死んでしまったけれど、あの時も私たちのために命を張っていたのかなって思うとお父さんの分まで、私が未來の幸せを守らなきゃって、そう思いました。
 未來が幸せなら、私たちにとってそれ以上の幸せはないですね。未來は、もうすぐ素敵な人と結婚します。私が未來を産んだときと同じくらいに一生懸命生きて、大きな幸せを見つけました。お父さんもお祝いしてあげてね。
 空から未來を守っていてくれて、ありがとう。これからも未來の幸せを見守っていてください。
 多恵子が目を開け、再び仏壇の上の悟を見る。そこにいる主人は、一家を守る頼もしい男に見えた。

「今日は行楽日和の日曜日。家族で出掛けたり、家でのんびりしながら聞いてくれてる方もいると思います。引き続き『誰にも言えない大切なもの』というテーマでメッセージを募集しています」
 休日でいつもより空いている首都高速道路を走りながら、カーステレオから発せられる最近よく聞く声に耳を傾ける。
「メッセージありがとうございます。千葉県柏市、ラジオネーム“ギッチョ”さんから・・・」
『ひとみさんこんにちは』
「こんにちは!」
『誰にも言えない、私の大切なもの。それは自分で書いた脚本です。大学時代に演劇をやっていたときに書いたものなのですが、実は一度も演じられることなく劇団は解散してしまいました。面白いとは思うのですが、万人受けするかって言われたら正直自信はありません・・・でも、演劇を必死にやってきた中で僕が感じた、伝えたいメッセージをたくさん織り込んだ作品です』
「ギッチョさんありがとうございます。なんか、すごく繊細なメッセージ。きっとこの舞台を見てほしい人を思い描いて書いた作品だったのかな・・・大人になった今だからこそ、学生時代って頑張れば何でも出来るようなエネルギーを持っていると思うんですけど、意外と達成できることって限られてますよね。
 ギッチョさんはまだ、演劇を続けていますか?時々観に行ってますか?もし良かったらなんですけど、その脚本今から上演してもいいのでは?作ったものを、誰かに観てもらったりするのって遅すぎることは無いと私は思います。勿論、観てほしい時期ってあるんだと思うんですけどね。でも誰かに観てもらうことで、その物語はやっとスポットライトを浴びて完結すると思うんです。それが例えば誰かの思い出になって、新しい人生を切り拓いていくとしたら・・・素敵な話だと思いませんか?上演することが決まったら、ぜひまたメッセージくださいね。お待ちしております。
 ・・・もう一通メッセージ行ってみましょう。群馬県高崎市ラジオネーム“春の尻尾”さん」
『いつも楽しく聴かせてもらってます。周りに言ったら引かれてしまうのですけど、私は元カレから貰ったものを今でも大切に持っています。別れて2年以上経ちますけど、まだ彼のLINEを消すこともできません。未練はないんですけど、付き合ってた当時は本当に彼のことが好きで。忘れないといけないって分かってはいるんですけど、物は長年愛用し続けて使い慣れてるし、正直な想い、捨ててしまうと当時の楽しかった思い出も否定してしまうことになるんじゃないかって・・・心置きなく捨ててしまうためのアドバイスお願いします』
「はい、春の尻尾さんありがとうございます。うーん・・・これはとても難しい問題。そうだよね、前に進みたいけど思い出は大切にしたい・・・。きっと春の尻尾さんって凄く優しい人なんだと思います。ひとつひとつの思い出をしっかり大切に持ってて、ちゃんと相手に感謝することが出来る人。だから別れた後でもそういう前向きな気持ちを忘れることができない。
 春の尻尾さん私今から大切なこと言うから、よく聞いてね。別れたからって、相手のことを嫌いになる必要はないんだよ。春の尻尾さんが気付いている通りだと思う。相手のことを嫌いになっちゃうと、当時の思い出も全部否定することになる。それって当時の春の尻尾さん自身を否定することだからね。だから、忘れられないなら別に忘れなくてもいいんじゃない?捨てられないなら捨てなくてもいいんじゃない?春の尻尾さんの宝物を、わざわざガラクタにする必要はないよ。いつまでもピカピカに磨いて使っていることが、あなたの素敵なところなんだから。そこに気付いてくれる人と出会う日が絶対に来るから、その時に心の整頓を兼ねて、置いていくものは置いていけばいいじゃない。
 ・・・こんな感じでいかがでしょうか?春の尻尾さんの助けになったら、私も嬉しいです。
 甘酸っぱいね。人を好きになるって本当に、素晴らしいことです。
 続けてもう一つ、素敵なメッセージが届いています。埼玉県春日部市のラジオネーム“北埼玉ブルース”さんからです」
『ひとみちゃんこんにちは。ワタシは妻と息子娘の4人家族です。と言っても、息子も娘も独り立ちして今は妻とふたり、35年ローンで購入したマイホームに住んでいます。さて、大切なものと言えるか分かりませんが、ワタシは休日の朝を大切に生きています。昔は家族で寝坊することも多かったのですが、子供が家を離れてからというもの、妻も朝が弱いもので自然と休みの日の朝ごはんはワタシの仕事になってしまいました。そんなある日に気付いたのです。いつもより少し早く起きて朝食を準備する前に、自室でビートルズを聴きながら飲むコーヒーの旨さと言ったら・・・妻にバレたら更に仕事が増えそうなので、誰にも言えないワタシだけの大切な時間です』
「・・・働くお父さんの至福の時間ですね。ありがとうございます。家族に対する愛がたんまり綴られたメッセージでした。私よりかなり年長のお父さんのメッセージはやはり深みがありますね。普段は家族のために一生懸命働いて、休みの日は自分の時間・・・と言っても、奥さんのために朝から働いちゃうパパさん、カッコいいです。仕事については書かれていないのですが、こうやって時間の使い方が上手な人は部下からも慕われているイメージ。家族とも相思相愛で。北埼玉ブルースさん、今が凄く幸せなんだって伝わってきます。
 ここで一曲お送りしたいと思います。皆さんの休日が心安らぐものになりますように。みんなが休んでいる日に働いてくれている方、ありがとう。あなたの心にも届きますように。久しぶりに歌う曲なので、少し緊張してます。The Beatlesで『Let It Be』」
 ギターの弦が奏でる音に続いて、歌声が車の中に響く。
 聴き慣れたジョン・レノンの声とは全く違う声質で、ギターで弾き語られる名曲。こんなビートルズもいいなと思った。

 電車の揺れが心地よく、昨日まで続いた仕事の疲れが抜けない頭が時折意識を飛ばしていく。ふと目の前を見ると、反対側のシートに座っている老人が、こちらをじっと見ていることに気付いた。正確には、こちらではなくこちら側にある車窓の向こうを見ているようだ。そこには、世界一高い電波塔が建っている。空気が澄んでいて、青空の下に立つ藍色を薄くした白色の塔はこれ以上になく美しかった。
 末吉翔哉は、今からあそこを訪れる。
 駅を降りると東京スカイツリーのお膝元では様々な言語が飛び交い、記念撮影をする人が数多見られた。開業当初ほどではないが、まだこの場所が賑わいに満ちていることが嬉しい。観光地らしいお土産処を見て歩くだけでも楽しい東京スカイツリータウンは帰る前のお楽しみだ。併設されているすみだ水族館にも興味が沸くが、この場所に来て最初に行くべき場所は決まっている。そこに広がる景色を楽しみに、翔哉は足早に向かった。
 4台あるそれぞれが日本の四季をデザインしているエレベーターに乗って一気に展望デッキに上がると、そこは地上350メートル。同じく東京のランドマークタワーとして有名な東京タワーの頂点より更に高いところに位置していた。エレベーターの扉が開くと、薄暗い室内からまるで新しい世界に来たように、眼前に巨大な窓が広がる。その光景に、中にいる全員が感嘆の声を上げた。
 眼下に広がる下町の風情を残した街並み、少し視野を広げると浅草の賑わいも感じることができる。スカイツリーを囲うように伸びる隅田川、荒川。その先には首都のビル街や東京タワー、東京湾、東京ディズニーリゾートも目視できる。さらに遠くを見渡すと、様々な山が連なる山地が見て取れる。その最も先に見えるのは日本の最高峰、富士山。日本中が見渡せるとは言えないが、翔哉が想像していたものを超えた世界がそこにはあった。
 もうひとつのエレベーターに乗り、更に上の地上445メートルの展望回廊も心行くまで見物した後、休憩を兼ねてデッキ内のカフェで軽食を取ることにした。変わらず眼下に広がる景色。それに見惚れていると、「夢中だね」と横から声を掛けられる。
「そんな翔哉君、はじめて見たかも」
「思ってたタイミングではないけど、この場所に来れて良かった。そう思ってる」
 隣に目を送るも、窓の外から差す太陽が眩しくて彼女の顔が見えない。聞き慣れた声だけを頼りに、彼女の顔の方を向く。
「いいよ、今は無理して私のこと見ないで。まだあの場所にいるんでしょ?大切にしてた人」
「・・・うん」
「今でも心配なんでしょ?見てきたら?それで元気そうだったら、声の一つでも掛けてきたら?」
 彼女の両手が翔哉の右手を包むのを感じた。その手には、お揃いの指輪がはめられている。ふたりで真剣に話し合ってデザインや色合いなどを決めた、翔哉の宝物だ。
「大丈夫、信じてるから」
 包み込まれた右手が強く握られる。その力強さを生涯忘れることはない。
 この人に会えて、本当に良かった。

 記憶を頼りに、翔哉は下町を歩いていた。年月が経ち、かつては古い街並みが色濃く残った通りも新しい建物が所々見られるようになっていた。建物の老朽化、というより街の老朽化を直しているような印象を受けた。
 大きな通りを折れて小さな小道へ入っていくと、未だに狭い土地に押し込まれたように住宅が点在している。その中のひとつに、竹内未來の家はあった。
 数年前、未來が結婚したという話を風の噂で聞いた。しかし苗字は変わらず竹内なのだという。どういうことかと言うと、結婚したその相手の男性も未來と同じく竹内という苗字だったということで、未來は竹内未來のまま人生を送っているということだ。家の表札を確認すると、確かにそこには「竹内」と書いてあった。
 未來の家は何も変わらず静かな様子だった。そのまま去ろうかと思っていると、中から「先行ってるよー」と聞き覚えのある声が聞こえた。見つからないよう、大急ぎで少し離れた電柱に隠れる。少しすると、未來が出てきた。少しスラッとして身長が伸びた気がする。印象的だった雀の尻尾のようなポニーテールはなく、肩に着かない程のショートカットの髪が波打っている。雰囲気が変わり、大人びていた。
 元気そうだということを確認して、その場を去ろうと思った。だが、未來に会って話すことを望んでいる翔哉もいた。ふたりで作ったアルバム、最後の一枚をあの後アルバムに飾った。再会した夜の、東京スカイツリーを背景に身体を寄せ合う翔哉と未來の写真。三浦に渡されたあの写真を未來にも見せたかった。お互いに新しい人生を歩んでいる。だからこそ、純粋にふたりで懐かしめたらという思いだった。
 未來は自宅の前で、スマートフォンに目を配らせている。顔を見られた瞬間に逃げられたらと思うと、少し怖い。パーカーのフードを深く被って顔を隠し、意を決して翔哉は歩き始めた。一歩ずつ、未來に近づいていく。緊張から翔哉は俯き気味に歩き、しかし視点はしっかり未來を見据えている。あともう少し・・・

   ◇

 未來は夫の竹内圭吾が家から出てくるのを待っていた。天気に恵まれて、展望台の上は見晴らしがいいだろうな・・・と思うと同時に高い場所に行くことに少し気が引ける。怖くなったら遠くから景色だけ楽しもうっと思っていると横からゆっくりと歩いてくる男性に気付き、目が合った。彼の目が緊張の眼差しで見つめてくる。未來にも緊張が伝わり、一瞬身体が硬直する・・・と、目の前の彼は左手で前髪を触り、右手をパーカーのポケットに入れていく。
「ごめんごめん、先歩いてて良かったのに」
 背後から圭吾が足早にやってきて未來に声をかけた。そっちに振り返ると、いつもの爽やかな笑顔が未來に向けられている。まったく、この人は・・・。
 未來が圭吾に気を取られているうちに、先程のパーカーの人は少し離れた場所にいた。まるで逃げるようにその場を過ぎ去る後ろ姿はどこか寂しげでもあった。

   ◇

 翔哉は未來の横を速足で素通りし、小道を曲がって止まった。未來と話す覚悟はできても、その結婚相手と顔を合わすとなると話は変わってくる。一瞬の出来事に上がった息を整え、再び角から未來の様子を伺う。
 未來と向かい合う長身の男性は、後ろに何かを隠していた。
「準備遅いじゃん、なにやってたの?」
 膨れっ面の未來に、男性が背後から小さな箱を差し出した。
「じゃじゃーん!結婚3周年、おめでとーう!・・・忘れたとでも思ってたのか?」
 未來が驚いた表情で箱を受け取り、「開けていい?」と聞く声が小さく聞こえる。
 開けると、箱はオルゴールになっているらしく閑静な小道に優しいメロディーが響き渡った。
「色々苦労かけてるし、喧嘩することもあるけど、未來がいつもご飯作ってくれたり毎日支えてくれてるから、俺は頑張れてます。いつもありがとう。大ッッスキだ!」
 長身の男性はハキハキと言い、手を大きく広げて未來を抱きしめた。
 その後ろから、小さな女の子が走ってくるのが見えた。
「おかあさーん!鍵閉めてきたよー!」
「おお杏菜!お父さんのミッションやってくれてありがとう!」
 長身の男性が、笑顔で少女を抱きかかえて頬にキスをした。
「一人で閉められたのー?偉いね杏菜ー!」
 未來も笑顔で少女に顔を寄せる。少し心配だった未來の現在を見て思う。未來は今、幸せなのだ。これ以上になく幸せなのだ。あの幸せが、ずっと続きますように。
 振り返り、その場から立ち去ろうと歩み始める。そんな翔哉の後ろ袖が誰かに引っ張られた。振り向くと、先程の少女が翔哉を見上げていた。
 白く光るものを差し出してきた。
「おかあさんが、おじさんにこれ渡してきなさいって」
 手渡された写真を受け取ると、「じゃーね!」と背を向けて少女は走って行ってしまった。手元にあるのは、まさに翔哉が未來に見せようと思っていた写真だった。なぜ未來も持っているのか・・・そのときは疑問に思わず、ただ呆然と見つめてしまった。写真の裏面を見ると、白地に「ありがと。」とだけ書かれている。
 未來からの「ありがとう」の言葉・・・。翔哉にとって、これほど嬉しいものはなかった。最後に一度だけ、少女が走っていった小道を角から覗く。そこでは少女を真ん中に、長身の男性と未來が手を繋いで歩いていた。
 かつての恋人が歩む幸せな現在を目の前に自然と笑みが浮かび、翔哉はその姿を写真に収めずにはいられなかった。いつか、また未來に会って話をできることがあるのならばこの瞬間に戻ってこよう。この幸せについて話をしてもらおう。そんな未来が楽しみだ。
 3人が歩く先には、青空の下、東京スカイツリーが立ち誇っている。


                          終



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