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【感情紀行記】人生を生きる

 「人生を生きる」なんだか頭痛が痛いような痛くないような、重複してるのかしていないのかわからないタイトルをつけた。「人として生まれた道を生きる」当たり前のような言葉だけれども、なかなか難しい。

 何が言いたいかと言えば、自分の人生を送ることは容易いのかもしれないけれど、生きるのは中々難しいものがある。そうと言うのも、自分は自分を俯瞰した見えない何かであって、その媒体がこの人の体を拝借してというか、この体に生まれ持って操縦しているパイロットでしかないと思うのだ。考えているとかいないとかではなく、考えている自分すらも俯瞰してしまうような、多次元的なものであることには間違いではない。昔の偉い哲学者が言った、善き魂的なものは身に染みて理解することができる。いや、染みているのは身ではなくて魂なのかもしれない。それとも概念的な部分でよく理解したと言うだけなのかもしれない。

 この調子で常に多元的な「自分」と言うようなものと向き合うのは様々な発想を生み出すこともあれば、苦痛とも言えるような乖離した自分を引き起こすこともある。一方で、高次元の「自分」が下位の「自分」をコントロールできないようなそう言う状況に陥る際に発生する大変さと言うものもある。理性的な部分では理解して、コントロールできている何かも理屈では収まらないというか、そのコントロールの幅が効かない時は、長期に渡って悲しみにうつひしがれることになる。一方でその逆もある。幸せに満ち溢れてしまうのだ。高位の自分では理解できないような言動が出るほどの嬉しいことというのは時偶ある。歩いているだけで笑みが溢れてしまうような時だ。そんな時は悪いことだっていいことになり得る。世界が幸せで満ちているのだ。

 そう言った時が久々にやってきた。全てが楽しく、幸せに満ちている。そんな素直な感情をダイレクトに受け取っている「自分」が自分であるまたとないのひと時である。これが自分の中では、「人生を生きている」時間である。どちらも良い時であって、大切な機能なのだが、人である自分が出てくるような、人間としての自分を取り戻したような気持ちだ。

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