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クォーターライフクライシス

という言葉があるという事を最近知った。どうやら20代後半特有の現象らしく、人生を100年と見立てた時に1/4の時期特有の悩みなのでこの名前が付けられたらしい。

この言葉を知ったのは、まさに今自分が陥っている状況そのものだと思ったからである。

現在26歳。社会に出て4年が経ち、自分のできる事・できない事がおぼろげながら分かってきた。スキルは伸びた自覚はある。しかし、自分よりスキルフルな人がいる事、そしてそんな人は元々持っているエンジンがF1の車と軽自動車くらい違うこと、そんな人に王道で立ち向かっても勝てなくて、思い描いていた理想像とは違う形で戦っていくしかない事などなど、社会の中での相対的な自分の立ち位置が生々しい現実として分かってくる。

プライベートでも、続々と結婚する知り合いが出来る一方で恋人もおらず、週末はこの世の楽しい部分だけを切り取っている知り合いのインスタを眺めながら家で独り酒を飲んでいる。自分の限界やこれまでの人生でのミスが至る所で浮き彫りになり、常に残酷な結果発表をされている感じ。そして、まだお前はそのステージにいるのかと、内なる自分に説教をされている。社会に出て数年が経ち、良くも悪くも自分を客観視して様々な人たちと「社会的な常識としての幸せ」というグラフの中での立ち位置を争っている感じがする。そんな気持ちになるのがクォーターライフクライシスではなかろうか。

そんな事を考えて卑屈になり、そして卑屈になり切った所で、最近はそれをも受け入れて、周回遅れであろうがスタートを切る事でしかいつまで経っても現状は打破出来ないのだろうという、何も逃げ場のない冷徹な事実を受け入れる準備をしつつある。

今までの人生は変えられず、自分の劣っている部分もまた、自分にしか変えられない。文章にすると至極単純な事実に気づく、いや対峙する覚悟を整えるまでに随分と時間がかかった。恐らく、早いうちに失敗し、またその失敗に向き合う覚悟をした人はクォータークライシスを迎える事なく成熟しているのだろうと思うと、また自分の未熟さに嫌気がさす。しかしその感情に蓋をして、これ以上なく億劫な気持ちになりながらも一歩ずつ歩を進める事でしか30代以降で真に納得できる人生を歩めることは出来ない気がする。血反吐を吐きながら過去の自分の負債を返し、30歳以降のクライシスとは無縁の人生を送る為に努力をしないといけないのだ。月曜日からもまだまだな自分と向き合いながらもがいていこう。

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