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Au pair ワーホリ カナダ生活226日目 「初めてストライキを経験して考えたこと」

 木曜日から、公共交通機関のバスの運転者たちがストライクを始めるという連絡をホストマザーから受けたとき、「なんともまぁ海外らしい体験だ」とのんきに思った。
 先週の木曜日からバスは動かなくなり、私はせっかく得たシッターの仕事に行くことができなくなった。さらに言えば、買い物なども歩いて20分のところでしかできなくなってしまい、Walmartに行こうと思うと歩いて1時間強かけて行かなくてはならなくなった。そしてこれの最悪なところはいつ復旧するのか、まったくわからないところにある。
 調べたところ、ハミルトンで最後にバス労働者のストライキが起きたのは1998年で、そのときは12週間続いたようだった。約3ヶ月ほどだ。

 私はストライキを通して、改めて日本と海外のことについて考えてみることにした。あらかじめ伝えておくと、私は「日本が終わっている」と思っているのではなく、「世界のほとんどの先進国が大きな問題を抱えており、終わりを迎えつつある」という意見で、私たちは栄枯盛衰の渦中にいるのだろうと感じている。
 どこの国がマシかなんてどんぐりの背比べでしかなく、隣の芝生は青いということでしかないのだろう。悪いところだけ見ればそれは真っ黒だし、良いところだけ見れば楽園のように見えるというだけの話だ。
 今回のnoteはいつも以上に文章が長く、思考が散乱しているかもしれない。


日本もストライキを起こすべきなのか

 私は日本の絵画教室に通っていた時、先生はだいぶ政治に過激な人で「今の日本はダメだ」「今の若者は声をあげなさすぎる」「僕は若者が好きだから言っている」「フランスでは意見を言うことが日常会話だ」と言った具合で、なかなかお節介だった。悪い人ではないけれど、「好きだから言っている」という理論は大体が自分の意見に共感して一緒に行動してほしいから出てくる言葉だと思っているので、ひとり大きなものを背負い込んで生きるのが大変そうだなと思いながら話していた。そんな中で、次第に絵画教室に通う何人かの人がその思想に迎合してひとつの思想家集団の始まりのようになっていくのを見て、「あぁ、こうやってレジスタンスとか維新の何々塾みたいなものが生まれていくんだ」と思った。

 話を戻すと、私はストライキを経験したとき、この先生がしょっちゅう「若者が声を上げないのはなぜか」と言っていたことを思い出していた。ストライキは、労働者が声をあげて自分達の環境をよくしていくものだと思う。日本では劣悪な労働環境でも誰も声をあげないので、悪い奴らの温床になっていることは、私も実感していたが、日本でも海外と同じようにストライキを起こしていくべきなのだろうか。
 ブラック企業なんてものが蔓延っている原因は、結局のところ、そういった環境でもおとなしく働いてしまう人がいるからだ。声を上げる人がたくさんいたら、次第に撲滅されていくかもしれない。
 その点だけを考えれば、日本でもストライキをどんどん起こしていって、精力的に労働環境を改善していくことが正義のように思える。
 でも、今回の私のように関係のない立場で巻き込まれて迷惑をこうむると、はたしてストライキはいいものなのかどうか、よくわからなくなる。
 私がカナダ人じゃないから車がなくて迷惑をこうむっているのではなく、ホストマザーの職場でもバス通勤の人は困っているようだった。このストライキが起きる前に、「バスが動かなくなるので、市民のみなさんは徒歩やカーシェア、ウーバータクシーなどの代替案を考えてください」という通達がきていたらしいのだけれど、この交通費は誰も負担してくれない。勤務先の会社が悪いわけでもないし、自分達で負担するしかなかった。
 とんでもなく迷惑な話だ。このせいで仕事に行けなくなってクビになったら、本当に迷惑以外のなにものでもない。
 このことを考えると、ストライキは悪のように感じる。
 そもそもそのストライキの要求が正当なものなのかどうかなんて私たちにはわからないのだ。少なくとも、ニュースの記事には「インフレに伴った契約ではなかったので抗議する」ということしか書いていない。
 でも会社の目線に立てば、売上を鑑みて賃金の向上ができなかったのかもしれないし、労働者の功績があまりなかったからなのかもしれない。賃金を上げることができなかったのは、仕方のなかったことなのかもしれない。
 そこのところも何もわからなくて、私はこのストライキでこうむった被害で芽生えたもやもやをどこに吐き出せばいいのか、全くわからなかった。

 つまるところ、誰が何を我慢するかのなすりつけあいを一生懸命し合っているのではないかと思った。
 会社は賃金を上げずに働いてほしい。労働者は生活できないから賃金を上げてほしい。利用者は自分達の生活のためにきちんとサービスを機能させてほしい。でも今回のバスの賃金を上げるためにはそもそも乗車賃を上げないと難しいだろうし、すぐに値上げられるものではないようにも思うけれど、労働者からしたら死活問題かもしれなくて、でも私たち利用者はそんなことは関係なく労働者にサービスを機能させてほしいわけだ。
 日本の交通機関は、非常に正確に、毎日動いてくれている。たとえ酔っ払いに絡まれても、一部のマナーがなっていない迷惑な撮り鉄たちに仕事を邪魔されても、彼らはきちんとインフラを機能させなくてはならない。酔っ払いが増えて負担が増えても、給料は上がらない。インフレになっても給料が上がらない。でも、彼らがそれでも働いてくれているおかげで、私たちは毎日定刻に出勤することができている。

 私たちは誰かの犠牲の上でしか、生活できないのだと私は思ってしまうのだけれど、カナダ人の人たちはこのストライキにさえ、何も思っていないかのようにこの問題について特に何も言わない。日本だったらきっと、みんなぶつくさ言うだろうし、起こした人たちは炎上の対象になってしまうのだろう。このエリアは車を持っている人が多いので、そこまで関係ないのかもしれないけれど。

 ストライキを起こすべきかどうか、というのはここ数日考えてみたけれど、答えが出なかった。立場で変わってしまうし、どちらにせよ我慢のなすりつけあいのように思えて、自分の中にはっきりとした答えがでなかったけれど、関係のない他者を巻き込んだやり方は違うなとは感じている。

 ここハミルトンでは、大手の塩会社が7ヶ月間もストライキを起こしているらしい。スーパーでは一時その塩がなくなって他のメーカーを使うことになったらしいけれど、ストライキを起こしている間の労働者はいったいどうやって生活費を捻出しているのだろうかと不思議に思う。


日本だけが悪い状態なのか

 よくXで流れてくる、日本は終わってるという話。どこまで事実なのかはわからない。なぜなら私は、日本のことを勉強していないからだ。だから、それを見て「そうなのか」と思うこともあれば、「それって日本だからダメってわけじゃない気がする」と疑問に思うこともある。

 私が今からつらつらと書きたいことは、「日本は海外と比べて終わっている」「海外ではこういういいところがあって見習うべきだ」という意見に対して、なんでそんなに海外と比べるのかということだ。日本以外の国って、そんなにいいところなのだろうか。

 まず前提として、カナダで暮らしてみて感じたことは、結局みんな同じ人間だということだった。人それぞれ個性があるのと同じように、国ごとの特徴があって、日本に問題が山積みなように、他の国々もたくさんの問題を抱えている。
 海外の人は、エイリアンではない。同じ星に住み、同じ肉体構造を持って生きている。特別なことは、何もない。
 だから、日本にたくさん大変な問題が転がっているように、海外でも同じように山積みになって転がり散らかしていて、それにみんなが頭を抱えている。
 文化が違うから、日本にはない個性があったり特徴があったりして、問題の形が姿を変えて現れているだけなのではないか。
 「そういうわけだから、日本のことを悪く言うな」と言いたいわけではない。ただ、そういう情報ばかりにのみ込まれて、我を忘れてほしくないと思うのだ。

 最近、ある黒人さんのYouTuberが「黒人の人たちが日本では差別を受けず、アメリカがいかに差別主義なのか」というような動画を見ながらコメントをしている動画をアップしていた。たまたま見たのだけれど、今の日本もこういうことなのかもと妙にしっくりきた。
 その動画内に流れていた動画では、「日本では挨拶をすれば挨拶がきちんと返ってくる」「僕たちを見て、彼らは僕たちがあとをつけるんじゃないかと不安に思って振り返ることはしない」と黒人の方々が語っていた。コメントをしているYouTuberの方は、「黒人を利用して、アメリカは差別をする最低な国だと訴える勢力があると思う」「アメリカでいつもこういった差別が行われているわけではない」「彼らは一定の考え方に洗脳されているようだ」「こういう動画は黒人は弱者だと人に思わせるように作られていると思う」と悲しい顔をして言っていた。
 1番印象的だったのは、「被害者意識を植え付けているようにしか見えない。被害者は成長しない」という言葉だった。この言葉を聞いて1番最初に思い浮かんだのは、後進国の人々だ。彼らは被害者ではないけれど、弱者だと位置付けられて他国からの援助を受けている。それでも一向に援助の手が離れないのは、彼らが援助のぬるま湯に浸り、そこから抜け出そうとしないからだ。そう仕向けたのはもちろん援助国側の悪い思惑もあったりと事情は複雑だけれど、彼らが抜け出す意志を持っていないこともまたひとつの事実のように思う。
 「自分達は被害者・弱者である」という気持ちは一種の免罪符だ。無条件で優遇されるべきであり、守られるべきであるという気持ちが先行しやすく、次第に他者を蔑ろにしていく。我々こそ守られるべきなんだと。
 私は黒人の方々が大声で差別について主張するとき、コロナ禍でアジア人を殴って差別していた彼らを思い出すのだ。誰よりも自分達への差別を許さないのに、差別される苦しさを知っているはずなのに、アジア人を差別する様子を見て、人は自分より下の存在をつくらないと気が済まないのだろうと思った。
 ちなみに、この人が言うには統計的なデータを見ても黒人が黒人を襲うことが最も多いらしい(私はまだこの情報が正しいのかは調べていないけれど、彼が言うにはFBIかCDCの情報を見るようにということだった)。

 私たちの生活は、苦しい。給料が上がりづらい中で物価が少しずつ向上していく。自分達は弱者であり、政治の被害者である。もう日本は終わりを迎えているから、海外に行った方がいい。海外のやり方を取り入れろ。今の首相はろくなことをしないから辞めさせろ。中傷してもいいだろう。というムーブメントは、私たちを必要以上に被害者にしていて、盲目的にさせている可能性はないのだろうか。
 言いたいことがうまくまとまらないけれど、今の日本には国の在り方に対するさまざまな熱狂があって、でもそれがどこか歪で気持ち悪くて、「黒人に被害者意識を植え付けようとしている」ような動画のように、何かおかしなものに扇動されている気持ちになる気がしていた。
 みんな感情的で、強くわかりやすい主張だけが目立ち、賛同されたり必要以上に叩かれている。もちろん中には冷静なコメントもあるけれど、それが表立つことが少ないように感じている。
 物事の本質を理解するには、自分が思っている以上に手間暇をかけなくてはいけなくて、それをせずに意見を言うのは感情論になりやすいのではないだろうか。大事なことほど本当に面倒くさくて、見失いやすいのだろうとしみじみ思った。

 エイリアンで思い出したけれど、アメリカのビザでは外国人登録のところに「Alien registration card」と書かれるらしい。今、言語交換をしているメキシコ生まれのアメリカ在住の彼が肩を竦めながら教えてくれた。
 それを聞いて、興味深いなと思った。私は日本人は単一民族かつ島国で鎖国をしていた歴史もあるから、慣れていないこともあって外国人のことを強く他国の人だと意識するのかもしれないと思っていたけれど、アメリカのような多民族が入り混じった国でもそういった表現をするのかと。
 興味深かったので、エイリアンという言葉について調べてみた。

wiktionaryから引用

 他所者という意味合いが強いときに行政用語として決められたと思うので、この言葉を使うことに少し嫌な感じがするのは時代の流れなのかもしれないけれど、形容詞にある「相容れない」「異質」「相応しくない」という言葉を見ると、なんとなく思考に耽ってしまう。
 もしかしたら私たちは、自国以外の人間のことをエイリアンのように思えてしまうのかもしれない。それは、日本も海外も関係なく。
 同じ臓器を持って同じように食事をし、排泄をして息を吸っているのにも関わらず、言語や文化の違い、容姿の違いがもたらす「エイリアン感」には不思議なものを感じるし、やはり差別がなくなることの難しさを感じる。
 どんな多国籍な国でも差別がなくなっていかないのは、私たちの心の根底にはそういったエイリアン意識があるからなのかもしれない。
 それが悪いことなのかどうかは、一概には言えないからこそ複雑な問題だと思うのだけれど。


カナダで過ごし、話を聞いてみて思うこと

 少子高齢化の問題は、カナダにもある。
 トロントの郊外に住んでいるからなのか、バスに乗っていても子どもや若者の姿はほとんどなかった。都心であるトロントではもしかしたらもう少し子どもがいるのかもしれない。また私が乗る時間帯が13時くらいなので、それも関係しているかもしれないけれど、スーパーに行く道中、歩いていてもあまり子どもは見かけない。
 その少子高齢化を解消するためのひとつの手段として、カナダは移民の受け入れをして労働力を補おうしているのだけれど、それは結局他国の労働力を引っ張ってきているに過ぎないと思う。特に医者や看護師などはフィリピンや南アフリカの人たちから引っ張ろうとすることが多いらしく、現地の国では払えないような高額な給料を提示することで彼らを引き抜いてきている様子が、先進国の力による搾取なのではないかと思う人もいるらしいとフィリピンの男の子から聞いたことがあった。
 カナダも医師不足が深刻で、子どもが風邪を引いて病院に行っても6時間〜12時間待たされることがあるらしい。前のカナダ人ファミリーが教えてくれた。子どもが熱を出して病院に行き、4時間くらいで帰ってきた時に、「これは早い方だよ」と言っていたのでおったまげた記憶がある。
 医師不足ではあるものの、基本的な手術などの医療費は無料などの社会保障はしっかりとしている。だが、それは薬はカバーされていないらしい。ホストマザーに教えてもらったことだけれど、会社によって保険適用率が全く違うということだった。2割しかカバーされていないこともあれば7割しかカバーされていないこともあり、会社がどの保険に入ってくれているかで労働者の負担率も変わる。国ではなく会社に依存しているところが日本との違いだろう。余談だけれど、基本的に交通費もでないらしいので、福利厚生の良さは日本の方がしっかりしているかもしれない。実際にジャパレスのときは交通費の話は一切出なかった。
 子どもに絡んだ問題は他にもある。カナダでも保育園の不足は問題になっており、保育園以外にもデイケアと呼ばれる自宅で個人的に子どもを迎え入れているところもあるのだが、それでも待機児童がいるらしかった。
 また、マリファナが合法化していることもあってドラッグへの規制がどうにもゆるいらしく、新しいドラッグもすぐに流行るのだとか。カナダ人の人がそう言っていた。ハミルトンのダウンタウンに向かうと、治安の悪さが如実にわかる。道路に面しているお店は店を開けている時間でも格子状のシャッターが窓に降りていて、ああいう自衛がないと何かが起きる街なんだということがわかった。他にも、公園ではホームレスの人たちが配給待ちをして長い列になっていたりする。
 ホストマザーはコロナ前にホテルで働いており、コロナ禍のときにホテルがシェルターとして貸し出すことを決めたそうだ。そのシェルターには働いていない無職の薬物中毒者やアルコール中毒者が国の支援で無料で住むことができ、働く前の間、食住の支援を受け続ける。ホストマザーはその人たちの様子を間近で見ていて、彼らが更生することはまずないというのだ。働き口を見つける様子もなく飲んだくれて、物乞いをしに行く。カナダ人が多く払っている税金の一部は、カナダに恩恵をもたらさない彼らに流れていく。そして彼らは薬やアルコールのせいで救急車に運ばれ、病院を圧迫する要因のひとつとなっているのだ。

 もちろん、カナダにもいいところはたくさんある。ルールの案内の仕方がとても上手で納得できる仕組みになっていることが多いと在住の日本人の人から聞いた。日本の役所周りのことは分かりづらくて煙に巻かれているようなことが多いけれど、カナダでは分かりやすく記載されていて、明瞭なんだとか。たくさんの民族が住む国なので、誰が見ても分かりやすいようにしないと国が回っていかないのだろう。
 日本のとくにかく分かりづらい行政関連は、国民から余計な混乱と不満を引き出しているから改善した方がいい。

 でも日本にもいいところはあるだろう。多くの病院があり、私たちは必要以上の待ち時間なく、医療サービスを受けることができるし、色々な病院を気軽にはしごすることができる。保険適用も国から一律の割合で負担してもらっているから、雇用してくれる会社の保険をくまなくチェックする必要もない。
 不動産会社があり、保険会社があり、私たちは信用をお金で買うことができる。お金を払ったら、必ずそれに見合ったサービスがされていると思える国で育った。清潔な環境で育ち、道徳心を育むように、みんなが満遍なく勉強できるように整備されている。

 そもそも私は、日本人はなんだかんだ政府のことを信用しているのではないかと最近思い始めている。震災が起きても礼儀正しくコンビニに並んだりできるのは、政府がなんらかの支援を早急にしてくれるに違いないと信じている部分もあるのではないだろうか。いくら教育されてそう育つ国民性であったとしても、切迫したのなら日本国民だってあんな風にはできないと思う。
 よく日本は平和ボケしていると他国からも自国からも言われることがあるけれど、それってとても幸せなことだ。平和ボケしてぼんやりと暮らすことができるなら、平和に浸っているということなんだから良いことなのに、なぜ悪いことのように言われるのだろうか。みんな平和を目標にしているのに、そこに到達したら怒られるのは何でなんだろう。


もっとみんなが自由に住む国を選べたらいいのに

 私は日本が好きだ。でも悪いところも多くある。実際、日本で生きていることが苦しくて海外に出てきた。子供の頃から少し変わっていた私には、生きづらかったのだ。でも、結局海外に出てみて思ったことは、私は日本が好きなんだということだった。
 このことが知れただけでも、私は海外に出てきて本当によかったと思うのだ。お金もかかったし、1年間の経験のブランクはできたけれど、私にとっては必要な時間で、手間ひまかけてわからなくてはいけないくらい大切なことだった。

 でも、カナダには日本に輸入したいくらい好きなポイントがひとつある。それは、夏の日照時間の長さだ。カナダの夏の日照時間は本当に長い。21:00になっても日が沈みきらない。ゆっくりと時間をかけて日が落ちていく流れを体感していると、カナダ人が穏やかな国民性だと言われることに納得する。日があるせいか、まだこんな時間か、という感覚の方が強かった。
 この点は日本よりもカナダの方が好きだ。

 自分がどこに住んだらもっとよい人生になるんだろうということを考えるためにも、私は海外に行くことは賛成だ。自分の気質にあった国に住めば人、多少嫌なことはあれどおおむね幸せだろう。
 そのために海外を体感することは良いことだと思う。合わなかったとしても、日本への愛国心のようなものがふんわりと芽生えて、政治にももっと興味を持つようになるかもしれない。
 隣にあるユートピアをユートピアだと信じて生活する方がよほど悪影響な気がしている。違うとわかれば余計な幻想もなく、自分の生活にもっと向き合えるものだ。

 気質で住む国を変えることは難しい決断のように思えるかもしれないけれど、実際アメリカにだって、日本人みたいにおとなしくて内気な人だっているし、日本にアメリカ人みたいに陽気で気さくな人だっている。アメリカ気質な人はアメリカで暮らした方が幸せかもしれないし、日本気質な人は日本で暮らしていた方が幸せかもしれなくて、相性の良し悪しというシンプルな問題だ。
 だから私は、自分に合った職場を探して仕事を変えるように、自分の気質を考えて住む場所を検討するようになれたらいいのになと思う。
 もちろん海外移住は決して楽な道ではないけれど、自分の幸せのためなのだから手間暇をかけるべきだと思っている。自分の気質にあった国に生まれなかった不運さにぶつくさ言う分には構わないけれど、「これだから日本は嫌なところなんだ」とまるで日本がまっくろくろすけになっているかのように言うのは、個人的には疑問に思う。
 今、日本で幸せに住もうと頑張っている人たちの水を差すようなことではないのかなと。

 言いたいことがうまくまとまらないけれど、これで一旦公開しようと思う。10日以上書き直したりしても文章が散乱していくので、今の私では自分の考えが上手にまとめられない。というより、こういう散乱した性格なんだと改めて思った。

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