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自然と社会と私たち

おはようございます。

今日は朝ジョギングに行ってきた時に感じた話。

私はいつもジョギングのコースは決まっていて、車通りの少ない河川敷を走ってるんです。

そこには、犬の散歩をしている人、イヤホンをして黙々と歩いている人、現役ランナーさんのような格好で走っている人など様々な方がいらっしゃいます。

この人たちの朝は早くて、きっと朝から素敵な1日のスタートを切っていることでしょう。私もその中に含まれている気がして、今日は清々しい気分になりました。

雲や川も朝日で光っていて、そんな輝いた自然を見るのはとても気持ちがよかったです。

そんな時にふと感じたことを綴りたいと思います。


雲とか川とか、石とか草とか。

自然的なもので人工的な力が関与していないものって、無形(決まった形がない)なものばかりだなぁと思ったんです。

雲は風の影響で、川は前日からの雨の影響で、石は転がってきた過去で形を自由に変えます。草に至ってはなんの影響も受けず好き勝手に好きな形に伸びてますよね。

(もちろんある程度固有の形はあって、それがないと概念になってしまい目に見えなくなるし絵にも表せなるんですけど。絶対にこれ!みたいな決まった形のものはないよねぇという話です)

こんな風に、形が無くて自由に形を変えることができるものって自然の摂理なんだと思います。

一方で人工的な力が及ぶもの(コンクリート、ガードレール、イヤホン、靴、車など)は有形なものばかりなんです。

「そういえば社会で求められてる普通や常識って、人工的な産物で、自然の摂理じゃないなぁ」

これが今日ふと感じたこと。

社会人に求められるのは”普通”であり”常識”です。これがないと忌み嫌われてしまい、集団から弾き出されます。

これらに縛られて生きづらさを感じてる人って多いと思っています。普通や常識の概念は人によって価値観は違うし、捉え方も違う上にわかりにくいものだからです。

しかしこれを社会は強要します。普通・常識がないと、認めてすらもらえません。

でもこの普通や常識ってそもそも人工的な力が関与してるものなんですよね。だから本当は形のない概念的な言葉すらも有形になる。

その形に縛られてるから生きづらいんです。つまり自然に生きることができてないんです。

自然体で生きましょう。あなたが思うままでいいんだと思います。

そうすればいつしか、あなたの輝いている部分を見てくれる人が出てきます。今日の朝の雲や川のように。


今日はそんな自然と社会に関する感想でした。

ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。

また明日もよろしくお願いします。

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