仕事と観

先日、新卒3年目の友人の人生相談に乗ることがあった。

彼は、今の会社でできることが少なくなってきたのと条件面もあって、転職を考えている。ただ、魅力的な求人を出している会社は、即戦力を求めており、人材教育の余裕はない。新卒期とは状況は違う。求職希望者の中には、年上の経験者がいて、彼は彼らとの競合になる。採用まで行き着くのは難しい。

だからといって、すぐに転職できそうな会社に行ったところで、また同じように転職を考えるようになってしまっては困る。それゆえ、求人に応募し続けるしかないのだが……という状態だ。

ぼくは、一旦、大学院に行けば?と言う。結局のところ、飛び抜けた、とまではいかないが、ある程度の専門性とそれを自分が有していることを伝えることができる能力がなければ、他の求職者を差し置くことが難しいと思ったからだ。しかし、彼によれば、彼自身には特に研究したいというほどのテーマがない。

となると、魅力的かつ熟達を長い目で見てくれる地方の会社は?となる。これは彼にとってある程度妥当な選択肢のように見えたが、これはこれで、懸念点がないわけではない。

ぼくは素朴に、第二新卒期の転職というのは、独特の大変さがあるなぁ、と思った。新卒で入って、がむしゃらに3年頑張ったのに、自分のテーマも別で勉強し続けておかないと、結局、転職時に首が回らなくなることがある。

他方で、実のところ、ぼくは彼の悩みがおそらく根本的によくわからない。

ぼくが彼ぐらいの年、つまり、一般的な新卒3年目の、25歳のときに悩んでいたことが彼とは違いすぎるからだ。はっきり言ってしまえば、彼の悩みは、ある程度具体的で、そして抽象的だ。

ぼくが25歳のときに、悩んでいたのは、極端に抽象的であり、具体的なことであった。厳密に言えば、極端に抽象的な状態を永遠に続けるにはどうすればいいか、ということに悩んでいた。

ぼくは将来性をほとんど考慮せず、転々と生きてきた。

ただその一方で、ぼくより、”あること”について体験を通して知っている同年代の人間は絶対にいない、という謎の確信があり、不思議と不安が無かった。もちろん、そのことをどう形にすればいいのか、はわからなかったし、今では少しずつわかってきたが、結局よくわからない。その不安はある。

ぼくは25歳ぐらいまでの、20代前半の時期、「対話を起こす学習装置(ワークショップ)にはどれぐらいの種類があるのか」に人生を費やしていた。いろいろなワークショップに足を運んだ。

そして、これを繰り返す結果として分かってきたことがあった。それは「ぼくらの身体は微粒子状に流れる世界に置かれた濾過器であって、あらゆる行為はその自動機械的な濾過の効果にすぎない」ということだった。

これは考えて辿り着いた、というより、むしろ思考する意志とそれによって生ずる目的性を手放した上で「存在する」ということを続けたときに、現れてきてしまった景色、肉眼で捉えられたイメージそのものだった。

ぼくは、ワークショップという文脈でこのイメージにまで到達した人間が、同年代では僕以外にいないだろう、と25歳の時、確信していた。ぼくにとっては、もはや「聴く」や「話す」という行為の熟達など、なんの問題でもない。すべてはその「観」の結果にすぎない。重要なのは、結果ではなく、それを効果として産出することのできる原因ないし理由の方である。

とはいえ、ぼくにとって何より重要だったのは、この「観」でいる際の自分が充足した感覚を得る、ということを知ったことの方だった。

ここから問題意識が変わった。というより、人生の「問い」が立った。25歳の時に、ぼくが悩んでいたのは「この観が永遠に続くにはどうすればいいか」、そしてそこから「まずはこの観を社会生活で維持するには、何を仕事にすればよいか」ということだった。

当初は、何を仕事にすればいいか、がまったくにして見当が付かない。

ただ、社会生活の中でこの観を維持するために、ぼくは自然とドゥルーズかスピノザを読み続けた。単に先の「観」を維持して生き延びるために、彼らの書物を読み続けていた。それが何の役に立つか、とかではまったくなく、単に自身の「観」を維持するために必要なことであった。自然とそれは生活習慣となった。

この生活習慣の累積が、ぼくに対しての臨界点を与える。この習慣はぼくに「読書の時間が足りない」と感じさせてきたのだ。そして仕事の時間には本が読めない。となると、問いが変わる。「仕事の時間にドゥルーズやスピノザの書物を読むことを強制する仕事とは何か」となる。

もしそんな強制力を有する職業があるならば、それはあの「観」を維持したいぼくにとってはこれ以上有難い職業はない。こうしてぼくは哲学書を読むことを強制する研究者という職業的立場を発見する。そして再び「問い」が変わる。「学部で哲学を専攻していないぼくが、それでも哲学に関わることのできる学問領域は何か」となる。

ワークショップをやってきたおかげで教育にはある程度の考えを持っていた。生活習慣によってドゥルーズやスピノザの知見は累積していた。二つがあいまって、学問領域が自ずと規定される。問いは再び。「それを専門でやれる研究室はあるか」。これがあった、今の指導教員である。そうして受験に向かう。研究したい理由は十分であったので、それを端的にまとめあげて、受験した。

今はその延長線上にいる。

よくわからないが、この延長線上で、少々の仕事を得ることが発生してきた。単に生き延びる術だった習慣は、ぼくの居場所と専門性をつくり、今度は生きていく糧をつくり始めた。先日の監査役就任の件だ。

加えて、最近、もう一つ新しく監査の仕事をすることになった。もちろん、その契約の打ち合わせの際にも、相手側に「ぼくにはなんらかの目的性の元での仕事はできません」とはっきりと伝えた。そうなることだけは避けたくて、ここまで生き延びてきたのに、そこに戻ることはできるわけがない。

そして、「いかなる期待も手放してもらわないといけません。それでいいのなら、やりますが、一度検討してください」と伝えた。一切の期待、一切の目的性のないの状況こそが、かえって、ぼく自身が十分な力を発揮することができる条件だからだ。何の前提もないからこそ、微粒子状の世界の必然性の元での「濾過器」としての存在の努力が可能になる。存在を十全に「ベットする(賭ける)」ことができる。限りある時間の仕事だからこそ、そこに全身全霊の全力を注ぎ込める条件を整えておかねばならない。

相手からは有難いことに「それがよい。うまくまとめあげてくれる人ではなく、実体のある実感のある人に頼みたかったから。」という返答をいただいた。

はっきり言ってしまうと、ぼくは、自分の外からやってくる「目的性」の元での動きを強いられることを心底恐れている。それによって、自分の「観」が見失われてしまうことが心底怖い。しかし、だからこそいろんな「目的性」のある場所に参加し、自分がそこで自分の「観」を見失わないように振舞う訓練をした。ぼくにとって、それが「対話」ないし「対話の態度」だ。というか、このようなある種の障害者であるぼくが世界と、社会とやっていくための振る舞い方を「対話」と呼んでいるだけだ。

さて、彼の悩み方と25歳のときの僕の悩み方は全然、違う。

彼が欲する「永遠」はなんだったのだろう。

若いうちには、なんでも手に入る、なんでもできる、と思うだろう。しかし、人一人ができることというのは、本当に僅かだ。手放してもいいかもしれないものと絶対に手放したくないものの区別が付かないまま、時がすぎると、いつか、絶対に手放したくないもの、永遠にしたいものを手放さざるを得なくなってしまうかもしれない。

人はいつか死ぬ。ぼくもいつか死ぬ。人類はいずれ滅する。宇宙の歴史から見れば、人類という種の存在はほんの短い間の出来事であったに過ぎない。そんな人類のあるとても短い期間の自分の命、その人生に何の意味があるのだろうか。

それでも「生きねば」ならない人、死ぬことを選択することができない人は、何をもって、何を基準に「働く」のだろうか。

その基準は、自分自身の「喜び」以外にあるのだろうか。喜びのカテゴリーである、愛、幸せ、自己充足それ自身に向かって以外に「働く」基準はあるのだろうか。

ぼくが究極に自己充足を得られるのは、あの「観」でいるときだけだ。あの「観」で存在するときだけ、ぼくは自身に充足している。そして、その結果として、その延長で生じるいろんな「喜び」が感受される。

ただ、その結果としての喜びは、有難いことではあるが、そのときぼくは途端に冷静になる。その喜びの最中で冷静になる。ぼくにはあの「観」だけだ。この喜びに拘泥して、決してあの「観」を忘れてはならない、と自分を戒める。

あの「観」に基づいた問い。そして、その問いを抱えたままに生き延びるための術、つまり、誰に言われるでもなく、ただ読書し続けるしかなかったあの「生活習慣」は、ぼくにとって単なる生活の一場面ではなく、自分自身の解放の条件であった。

「観」「問うこと」「生活習慣」が、ぼくを作り上げたものである。

あなたは求めてよい。その瞬間、その本当に自分自身が充足する瞬間を求めてよい。「永遠になってくれないか」と祈ることさえできるその瞬間を、永遠にすることを求めてよい。そして、その永遠を妨げると直感できるものを断乎として拒んでよい。

ぼくはそういう哲学、というか、考えで、その延長で生きている。
「生き」そして「延びている」。

みんなはどういう自分の哲学、考えで生きているのだろう。

喫茶店代か学術書の購入代に変わります。