自由を担保する?
まだちょっと熱すぎる秋風に乗って中学校の体育祭練習の音がやってくる。
おそらく応援パフォーマンスのリハーサルか何か。
ひとしきり音が鳴るとリーダーらしき声が全体へ指示を出す。
そうそう、こういう雰囲気だよね、と感じる。
そして、どこか無関係な立場で聞くことでホッとする自分に気づく。
行事が苦手
正直なところ自分は子どもの頃から学校行事があまり好きではなかった。
特に運動会、体育祭が。
学校職員となってもその思いの根幹はあまり変わらない。
学級担任や行事の長として何度も生徒と相対した。運営の中心を担うこともあった。
行事に抵抗感を抱く生徒は一定数いる。
わかりやすい例は運動が苦手で体育祭が嫌だ、音楽が嫌で苦手だから合唱をしたくない。
そういう生徒がどのようにしたら参加できるかに頭を悩ませ、知恵を搾る。
そもそも行事に抵抗感の少ない集団を学級経営によってつくりあげる。
こうした方向で"策を講じて"きた。
行事が終われば多くの生徒が達成感に満ちた様子を見せる。
困難を抱えた生徒の多くも成長を見せる。
そんな姿を幾度となく見てきた。
だから学校行事の全てを否定しているわけではない。
ただ、影になっている部分にもフォーカスしたい。
なぜ苦手か
そもそも自分が当事者だった時に立ち返ると、
・参加の様態の多様さが担保されている
・参加の有無それ自体が選択できる
といった部分に制約があるほど苦しさを感じていたと考える。
それは高校に進学することでわかる。
高校は体育祭も音楽祭も修学旅行もない学校へ進学した。
これについて残念な気持ちは全くないし、行事が少ないことで安心した。
ただ、目玉の行事として、文化祭と球技大会があった。
文化祭は学級単位で模擬店や演劇などを行うのだが、教員の関与はかなり少なく、生徒側からは「やるも自由、やらぬも自由」
球技大会は数日かけて行う大々的なものだったが、こちらもエントリーしない生徒がいる一方で複数種目に参加する生徒もいた。全員が揃って同一会場にいるわけでもなく、さまざまな場所で様々な種目が実施されている。
「全員参加」によって起こること
体育祭は「全員種目」「全員リレー」「(全員参加の)応援合戦」が定番であるし、その他の「選択種目」も種目こそ選択できるが、「参加するかどうか」は選択の余地が与えられない。
合唱コンクールは、特別な役としては「指揮者」「伴奏者」しかない。
こうなると、参加に難色を示す者がいたときに、「どうやって参加を促すか」という視点での働きかけが中心になってしまうのはやむを得ない。
欠席がちなど普段から個別の対応をしている生徒にはどのような形で参加するかをヒアリングして、感触を伺うが、普段から集団生活を送っている者に対してのアプローチの多くは、どうしたら参加できるか、となる。
私自身がどうして行事が苦手だった理由は今だからこそ言語化できるものであって、当時は「なんとなく苦手」と感じていたところである。
ネガティブな感情が先にあり、理由は後にあるような感じ。
体育祭では何某かの中心の役割を与えられ、それなりに職責を全うした自負はある。ただ、終わって残ったのは充実感ではなく安堵だった。
選択することの重要性、さまざまな特性の人が同居することなどが重要視されていることは感じる。
しかし、そもそもの「参加の自由」が担保されているかどうかで引っ掛かっている層が一定数いるのではないか。
そして、学校のカリキュラムには弾力的に対応する力が備わっているのか。
繰り返しになるが私の感覚はマイノリティなのかもしれない。
しかしマイノリティを包摂しないでインクルーシブな環境は実現し得ない、とも思う。
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