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地球温暖化の主因「人間活動」を考える~ハンナ・アーレント『人間の条件』にみる、労働・仕事・活動の3つの営み~

私は、2020年から「人間活動家」を名乗って活動しています。

「環境活動家」ではなく、「人間活動家」です。なんだよそれって感じですよね。きっかけは、次の言説です。

地球温暖化の支配的な原因は、人間活動による温室効果ガスの増加である可能性が極めて高い。

Fridays For Futureで活動するようになってから、メディアや書籍で見聞きした文言です。

「人間活動」にんげんかつどう。

はじめて聞いたときは、なんか耳慣れない言葉だなと思いました。言わんとしていることはわかるような気もするけど、すごい大きくまとめられた用語だなと。人間の生というものが、無理やり四文字にまとめられた感じ。

たぶん、日々を生きている私たちに、「人間活動」をしているという実感はないんじゃないでしょうか。

会社に行って仕事をしたり、学校で勉強をしたり、アルバイトをしたり、友達と食事をしたり、スーパーで買い物したり、映画を見たり、散歩したり。

月火水木金土日。めまぐるしい毎日をただ、生き抜いていますよね。

その生活から否応なく出るものが二酸化炭素であって、地球温暖化を深刻化させているということですが、

この文脈だと、なんだか人間の存在そのものが否定されているというか、生きているだけで害悪であるかのような響きに聞こえなくもないな、と感じました。

人間は愚かな生き物だけど、生きていてほしい。自分も人間でありながら、漠然とそう思った私は、皮肉をこめて「人間活動家」と名乗ることに決めました。

人間であるということは、生きている限り、みんな人間活動をしている。言うなれば、あなたも私も、みんな人間活動家。

環境活動家というと、日本ではいまだに、環境問題を啓蒙する「意識高い系」の人だと思われがちですが、そのネーミング自体がまとっている印象というものは、たしかにあると思います。

どちらがいいとか、そういう話ではないですが、これだけ気候危機が重みを増す現代で、環境活動家を名乗っている場合ではもはやないというか、

今を生きる私たち一人ひとりが、向き合わなければいけない課題であることは明白なので、何かしらの立派な活動経歴がないと安易に名乗れないようなものではなく、

どうせなら、みんなが”アクティビスト”になれる「人間活動家」のほうが、むしろ気候危機に自覚的になれるのではないかと考えたわけです。

はじまりはそんなところでしたが、少々まわりくどいので、環境活動家のほうが認知はされやすいことがわかりました。。


一方で、「人間活動」という単語自体は、ここ数年で一気に聞かれるようにもなってきています。

いちやくハイライトされたのは2021年の夏頃です。その年の8月に公表された、IPCCの第6次評価報告書では、次のように断言されました。

人間活動の影響で地球が温暖化していることについては「疑う余地がない」

出ました、「人間活動」。

このとき、注目されていたのは「疑う余地がない」のほうでしたが、「人間活動」そのものへの疑問というのは、あまり出ないんだなあと思っていました。気候科学の最新知見なので、揺るぎのない事実なわけですが、やっぱりなんか、釈然としないなとは思っていました。

そんな折、ベストセラーを記録し、大きな話題を呼んでいた(今も)、経済思想家の斎藤幸平さんによる著書『人新世の「資本論」』が、私に示唆を与えてくれました。

そこには、こう書かれていました。

人類の経済活動が地球に与えた影響があまりに大きいため、ノーベル化学賞受賞者のパウル・クルッツェンは、地質学的に見て、地球は新たな年代に突入したと言い、それを「人新世」(Anthropocene)と名付けた。人間たちの活動の痕跡が、地球の表面を覆いつくした年代という意味である。(p4)

「人類の経済活動が」地球に与えた影響があまりに大きい。      「人間たちの活動の痕跡が」、地球の表面を覆いつくした。

人間活動とは、いわば「人類の経済活動」ということなのか?この本の中で、斎藤さんは気候危機の原因は資本主義だと喝破しています。

縁あって、ゲストとしてお招きしたイベントでは、斎藤さんがこんなことを言っていました。

「怠けたらいいじゃないですか。そうやってみんなが働けば働くほど、地球環境は壊れていくわけです」

斎藤さんの言葉に、会場は騒然となっていましたが、それほど強いインパクトを与える言葉だったのだろうと思います。私も、雷に打たれたような感じでした。

「よくよく考えたらあんまりお金いらないんじゃないかっていう社会になっていけば、市場以外の活動に人々が参加するようになって経済成長とは違う領域が増えていく」

「今の社会ではお金儲けにならないことは人々はチャレンジしなくなっている可能性がある。お金儲け以外の夢とか芸術活動、スポーツをもっとやるようになれば、お金儲けの夢がなくてもむしろアベレージはあがる」

斎藤さんの言葉を聞くうちに、「人間活動」をめぐるもやもやが、少しずつクリアになっていく感覚を覚えました。活動は活動でも、「市場以外の活動」、「芸術活動」という言葉がデフォルトされている。

しばらく活動という二文字をじっと見つめていると、私の頭にひらめくものがありました。

2年前、大学のゼミでインタビューをしたとき、語り手が言っていた言葉です。

「考えるっていう時間が、今の世の中すごい取りにくくなってる。仕事も忙しいし、給料も低いしみたいな。世の中が考える時間と余裕をすごい奪ってる。そういうことを感じさせてるものが、アーレントでもあるし。だからさ、労働とさ、仕事と、活動ってあって、今の世の中はさ、活動する時間がなくなってる」

語り手は当時、月一で参加していた、子ども食堂の代表の方です。その方は、ハンナ・アーレントの『人間の条件』という著作を引き合いに出して、日本の社会状況を話してくれていました。

ここで、少し『人間の条件』を説明しておきます。アーレントによると、人の営みは3つにわけられるといいます。曰く、労働・仕事・活動です。

「労働(labor)」:人間が生命・生活(life)を維持するために行う営み。言わば、「食うために働く」こと。
「仕事(work)」:耐久的なモノをつくる営み。家や机や椅子のように10年、20年かけて残る使用物を製作すること。
「活動(action)」:言葉を用いて他者とコミュニケーションを行う営み。誰かとおしゃべりしたり議論したりすること。

(参考:青木真兵『手作りのアジール「土着の知」が生まれるところ』)

これら3つの営みによって成り立つ生の営みを、アーレントは「活動的生(Vita Activa)」と呼びました。

最近、本屋で見かけて購入した、『手作りのアジール「土着の知」が生まれるところ』(青木真兵、晶文社)という本に、アーレントの『人間の条件』について記述されていたのですが、そこにも、

資本主義社会としての近代社会では、賃金を稼ぐための職(job)を持っているかどうかが決定的に重要になります。日本でいう「社会人」とは、ジョブを得てお金を稼いでいる人とほぼ同義であり、ジョブのない人は「社会人」ではないと見なされてしまう。ここでいうジョブは「労働」そのものですね。それに比べて耐久的なモノをつくる「仕事」や他者と議論する「活動」は、価値が低いということになってしまう。でもそれは本来、おかしなことだというのがアーレントの主張です。(中略)「活動」はパブリックで「労働」はプライベート、「仕事」はその中間に位置している。現代社会の困難を乗り越えるためには、「労働」に還元されないパブリックな「活動」の意義を取り戻さなければならない、というのが彼女の議論の大きな方向性です。(中略)「活動」を通して人びとの複数性が生きてくるような公的領域、アーレントがいうところの「政治」の営みを取り戻すことが大事なのだと。(p77~80)

と、書かれていました。

こうして考えていくと、「人間活動」とは、人間の経済活動、つまりアーレントのいう「労働」あるいは「仕事」に置き換えられるように思います。そして、地球温暖化が危機的な状態にある今、持続可能な社会への手がかりは、画一的な生産活動ではない、他者との対話や議論を表す、3つ目の「活動」にあるのではないか、と感じました。

折しもその後、私は新卒で入社した会社を退職したのですが、収入は減ったかわりに時間がたくさんできました。なので、その時間で、文献をたくさん読んだり、エッセイや時事評論を書いてみたり、北海道の人生の学校に行ったり、福島の自然農法家に話を聞いたりしていました。

会社で働いていたら、朝から夜まで忙しく、組織の中の狭い人間関係しか知ることはなかったかもしれませんが、思いもよらない出会いや機会にめぐりあったことで、それまでは気づかなかった「自分の輪郭」に気づくという経験をしました。こんなに自分って偏っているのか、とか、逆に、この人はなぜこの活動を推進しているんだろう、とか。

コンフォートゾーンから一歩出て、既知の世界をあとにしたことで、このままの自分ではいけない、変わらないといけないものを知らされた気がするし、一方で、やっぱりゆずれないもの、自分が貫きたい信念はここにあるんだと、確認できた気もします。

Fridays For Futureでの活動をしていた2019年とは打って変わって、今では「脱炭素」や「SDGs」、「カーボンニュートラル」や「サステナブル」という言葉をそこら中で聞くようになりました。それは良い変化なのかもしれません。

だけど、最近疑問でならないのは、「CO2を減らせばいいのか?」という点です。口にしている文言は変わっても、問題に向き合う姿勢がどこかずれている気がする。

いわゆる、3つ目の活動は、直接的にはCO2を削減することにはならないかもしれない。でも、地球温暖化だけでなく、コロナや地震など、複合的な脅威にさらされる現代において、変わらず問われることは、「私たちは、どう生きるか?」という、極めてシンプルな、しかし厄介な問題ではないでしょうか。

そして、それは他者が介在する、「活動」なしには始まらないことなのではないでしょうか。

私は、そんな思いから、、、というよりは、単にステイホームをしていると孤独を感じることが多くて、不安に駆られるので、読書会を開催するようになりました。

「気候文学対話~心を守るための読書会~」です。詳細は、以前のnoteをご覧ください。

また、2022年に入ってからは、ZINEというものを作ろうと思い立つようにもなりました。これに関しては、次のnoteで。

人間活動家を名乗りはじめたときは、なんとなくの直感でしたが、今は少しばかりの確信をもって、自称するようになってきています。

とはいえ、まだまだ浅い思考だとは思うので、引き続き「活動」を続けていきながら、答えなき問いを深めていきたいと思います。

みなさんもよければぜひ、人間活動、はじめてみてください。




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