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私の猫

今朝猫が死んだ。十二月一日。老猫で持病もあり、もう老衰に近かったはずだ。以前から猫特有の泌尿器系に大病をし、それから持病としてずっとあったが、何か月か前に元気がなくなり医者に掛かった。それで少し元気になったが、昔友人から老犬を医者に連れて行き、すこし元気になったがその後ぽっくり逝ったという話を聞いていた。最後の花火みたいに元気になり、老衰で死んでいったと。それを憶えていたし、だからその予見もあった。でもやはり朝はつらかった。喪失感は押し寄せてくる。何を考えるということもないのに。私は冷たい人間なのでそういうのは平気のハズなのだけど、すこし元気もなくなることもあるんだな。なんて思った。
そのことで色々やることをやって家に帰ってきた。ドアに入った瞬間、その瞬間にハッとする。いない。いないんだな。この大きな喪失感はどうなるのだろうか。もう事柄は決定されているのに意味もなく不安になったりする。これはなんだろう。昔も猫が死んだ、火葬にもつれて行き、寒く風の吹く何もない場所で砂を噛むような時間を過ごしもした。でも、それからこういう気持ちと共に生きてきただろうか。生き物は死ぬ、それは知っている。それをよく理解もしていて、そして、冷たい人間の私はあまり何も感じないはずなのに。どういうことなんだろう。これが続くのも仕方のないことなのかな。帰ってきてさらに時間が経つと事あるごとに猫がいないということを認識する。廊下、出窓、クッションの上、どこに行ってもどうしても。カーテンの外側を探してしまう。ふと猫のためにやらなければならないことをしようとして気づく。もういないんだよ。それに何も変わらないと思っていたけど色々と変わっている。冷蔵庫の製氷機の音さえ違って感じるから。
最期の猫はただ寝ているようだった。頭を触ってもいつもと何も変わらない。肉球もぷくぷくだ。ただ寝ているようだった。それに昨日は近寄ってきた体を持って毛を頬にすりすりしたからね。ああ。そういう気持ちを持って生きてゆく。それは財産でもある。それを大切にできれば不安も吹き飛ぶのだろうか。そんなことを思った今日。今朝はつらかったと書いたが、これから先がもっとなのかな。それとも当たり前のようにいるものがいない喪失感なのだろうか。どちらにせよそうして生きてゆくし、そうして生きてきたはずだ。そうだな、私の猫よ。忘れないさ。オレもお前の人だったらいいのだけどね。

最近また歩きはじめて、今日でも明日でも、久しぶりにnoteに何かを載せる予定だった。その流れは止めたくないな。

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