日本語の図案文字はどこから来たのか 第六回
ちょっと小休止、のつもりでほかのことに取りかかったらそちらにうっかりハマってしまい、気がつけばほぼまる一年経ってしまっていた。
例によって例の如く下書きもメモも何も作っていないが、さいわいに次回の記事に使おうと思って去年の今時分撮ってあった資料写真があるので、それを眺めながら思い出し思い出ししつつ、続きを書いてみることにする。
十時惟臣共著の略画お手本集
前回ご紹介した図案集『図案と文字』に先立つ昭和十年(1935年)、十時惟臣は同じ版元祐文堂から矢部正一という人物との共著のカタチで、『誰にも描ける新略画』という本を出しておられる。
外函・本体ともに『図案と文字』と同じ体裁で、おそらくは並べて書架に挿されることを想定していたとおもわれるデザイン。
『図案と文字』と違ってこの本は現存数が少ないのか、あるいはご所蔵者がみな大事にしておられるのか、インターネットOPACにしても古書市場にしてもこれまでのところ書名が挙がっているのをほかには見たことがない。
価格は六十銭、『図案と文字』の方がこちらの二倍半もする勘定だ。松浦忠文館は、このときは発行元ではなく「売捌元」(発売元)になっている。
かわいい見返し紙。ちなみに裏見返しは白紙。
本扉にうっすらと、褐変した遊び紙の縞模様が色移りしてしまっている……が、これはこれでわるくない。
でもって引き続き、巻頭言にいう略画の「描法順序」つまり描き順見本が掲げられている…
…が、いやこれ「誰でも」はすらすら描けるようにならないでしょ、最初の柱時計はまだしも。的確なモノの形が頭の中に浮かばせられるようになり、かつそれを想ったとおりに出力できるだけの筆力が備わらないと、こんな風にさらさらっと描いたりはできないと思う。
章扉がわりなのか、ゼータクにも略画がひとつだけ置かれたページがある。ここからしばらくは生き物の絵がつづく…
…が、しかし魚介類の次に海藻がきて、次の蝶々ひとつだけのページの後に昆虫がくるのは予想通りとしてその後が鳥、というのはイマイチよくわからない排列……「羽があるもの」つながりだろうか?
煙草盆ひとつのページのあとは道具類いろいろ。
そして杖を後ろ手に持った人物像が、最後の「ひとつだけ」ページ。
で、人物画あれこれがおわると突然植物が出てくる。
それから、風景。
最後には乗り物も。
よくわからない、といえば矢部と十時とでどのような分担をなさったのかもまたしかり。見る人が見れば、筆致とか文字の筆跡とかでおおよそ見分けがつくものだろうか?
「誰にも描ける」略画手本の普及版
さておき、じつはこの本には同じく祐文堂が翌昭和十一年(1936年)に手がけられた並製版もあって、そちらはタイトルもちょっと違って『誰にも描ける略画の手ほどき』という。
判型はおおよそA5判。
『誰にも描ける新略画』にくらべると、だいぶコンパクトサイズ。
著者も十時の方が筆頭に変わっている。定価は元版の半分の三十銭。たとえば学校などで同書を眼にして欲しがる子どもに家庭で買い与えることを想定した「普及版」として企画されたのではないだろうか。
とすれば、オリジナル版もそれなりの好評を博したものと考えられる。
左綴じから右綴じに変わっているため左右のページが逆転しているが、中身そのものはほとんど違わない……周囲の罫線やノンブルは作り直しているが、その内側は(「略」の字だけがちょこっと小さくて左に寄っている巻頭言含め)同じ版を使っているようだ。
☟最終丁のノンブルが同じだからといって、中身が寸分違わないとは限らない。☝先に「ほとんど違わない」といったのはそういう話。
よくよく見較べてみると、鳥のページがひっそり増補されている。
反対に、山並みや波のかたちがこそっとなくなっている。
別名出版社からの改訂再発版
それから五年後、大東亜戦に突入する直前の昭和十六年(1941年)十一月にこの略画集は優文館書店というところから『誰にも描ける略画の描き方』と再度改題して再発された。
最初の『誰にも描ける略画の手ほどき』と判型は変わらないが、表紙はだいぶ目を惹くデザインになった。
あしらわれている略画は、『誰にも描ける新略画』見返しから採った模様。
『誰にも描ける略画の手ほどき』にはなかった本扉がついている。
その代わり、巻頭言は省かれてしまっている。時局柄、本文の紙質はあまりよくなく、全体に酸化による劣化が進んでいる。
矢部が筆頭に戻っている。戦時のインフレーションが影響したらしく定価三十五銭で停止価格になっているが、改めて二十五銭に値下げしているのは家庭や子どもらへの配慮だろうか。
お気づきかもしれないが、優文館書店も祐文堂書店も所在地はおんなじ大阪市浪速區元町二丁目六七。しかもそれほどありふれてはいない同姓の神崎廣と神崎雅亘だから、同族とみてまず間違いないだろう。
中身をぱらぱらっと眺めてみると、「猫」「てふてふ」「たばこ盆」などの「絵がひとつだけ」ページがなくなっているのに気づく。
しかし☝これで5ページ減ったはずなのに、☟最終のノンブルが3しか違わないのは勘定が合わない…
…と思って、両手でそれぞれを一丁一丁めくりつつ見較べていくと、…
…ありゃまもう1ページ、上代の伝説的有名人とか埴輪とかがいなくなっているよ。
そして意外にも、「橋」という「絵がひとつだけ」ページが新たに登場している。
さらに、『誰にも描ける新略画』にあった山並みや海の波が復活しているのに気づく。
『誰にも描ける略画の手ほどき』で追加された鳥2ページはそのまんまだから、差引3ページ減、ということになっているワケだ。なるほど。
再発版と同時に出た“続篇”
『誰にも描ける略画の描き方』とまったく同じ日付で、両人の略画集がもう一冊出ている。
昭和十一年に祐文堂から出されたのと同じ『誰にも描ける略画の手ほどき』というタイトル。
しかしその中身はあらたに全篇描きおろされたとみえて、重複する絵がひとつもないまったくの別モノ、というところがいささか紛らわしい。
こちらも停止価格定価三十五銭→改正定価二十五銭。
この本でもまずは「描法順序」から。
ページを繰りながらずーっと眺めていると、ディテイルが描かれていないがゆえに却って鮮明に、昭和十年前後の「ありふれた日常」が眼の前に浮かび上がってくるようだ。
この略画集では、「絵がひとつだけ」のページがあきらかに章扉として置かれている。
「魚類」の後ろに置かれている、実物や写真を見る機会がこの当時なかなかなさそうな生き物の絵のなかには、あんまりそれらしくないものもある……「カメレオン」はなんだかネコ科っぽいしww
神崎祐文堂と松浦忠文館のこと
祐文堂とその経営者神崎氏については、国会図書館デジタルコレクションに収録されている『大阪図書出版業組合記念史』に関連記事が載っていて、同書は一年前にはログインなしでも閲覧できたのでこれを元に何かしら書こうとしていたらしいのだが、今回改めて覧ようとしたらなんと「国立国会図書館内限定」扱いに変わってしまっていて残念〜。
☝「全 7 件の該当箇所」を開けてみると49コマのところに「元町二丁目六十七番地神崎勇(祐文堂)氏」というのが出てきて、所在地はたしかに一緒だがまたぞろ別の神崎一族の名が。63コマには「神崎祐文館」というのも出てくるようだが関係があったんだったかどうだったか……。
とにかく、具体的に何が書かれていたかよく思い出せないので、その代わりとして架蔵の大阪出版協同組合(脇坂要太郎+多田寅之助)『大阪出版六十年のあゆみ』を引っ張り出してみる。
(☝国会図書館デジタルコレクション収録のものは要ログイン、以降もところどころ同様の資料がある)
多分、原装のラパだと思う。
巻末の賛助芳名録に「神崎勇(祐文堂)」の名がみえる。
神崎勇は、大阪の出版業界ではその名を知られた人物だったようだ。
この本は大阪出版協同組合が諸々の事情で畳まざるを得なくなった際、それまでの歴史をまとめておこう、ということで編まれたものらしい。
その最後に催された「名残りの会」という関係者慰労会で、神崎勇が会員代表として謝辞を述べられたことが書いてある。
口絵として載っている、そのときの集合写真の中に神崎勇の姿がある。
どれが誰だかイマイチわかりづらいが、白髪で眼鏡のにこやかな人物がそれだろうか。
とすれば、昭和十年代でもそれほどお若くはなかったことになる。
脇坂要太郎による人物評のところをみると「出版は児童絵本」とある。
同じ年に出た出版ニュース社(松本昇)『日本の出版社』1957年版を国会図書館デジタルコレクションで覧てみると、たしかに児童書がメインの出版社のようだ。
国会図書館デジタルコレクション公開の工業興信所『京阪神紙業要錄』昭和十五年版で「神崎勇」項を覧ると商号は「祐文堂」、開業は「昭和四年」となっている。店舗兼用住宅だったらしいこともわかる。
国会図書館デジタルコレクション収録の紙業新聞社(石橋国松)『紙業年鑑』昭和49年版にも祐文堂が立項されていて、社主はやはり神崎勇になっている。
同社は戦後も、少なくともこの頃までは存続していたようだ。
なお、同じく国会図書館デジタルコレクションにある東亞興信所(上野薫)『商工信用錄 近畿版』昭和三十四年度版には昭和二十七年創業の「祐文堂書店」という、主要業務「出版並書籍」の会社があって、その代表者名は「神崎広」となっている…
…のだが、おそらく神崎祐文堂や優文堂との関係はあるのだろうと思われるものの、所在地が「浪速、元町二」だけで番地が書かれていないこともありはっきりしたことはわからない。
次に松浦忠文館についても、国会図書館デジタルコレクションの収載資料をさらってみると、大阪日本商工會(渡邊馨)『日本商工信用録 大阪版』昭和七年版に「忠文館 松浦忠次」の立項があった。
これも所在地が「浪速區元町二丁目」だけで番地がないが、業種が「圖書出版、書籍、雜誌問屋」、創業「明治四十二年」、販路「全國」とあって有力業者のように見える。
出版タイムス社(村田勝磨)『日本出版大觀』の「人と事業」大阪篇「忠文館」項を覧てみると、「松浦忠次」について結構詳しい履歴が載っていた。
これによると明治四十二年(1909年)に創業されたのは先代松浦德太郎で、ご当人は大正になってから来阪、「太田道灌堂」で修業の後に同族の「松要書店松浦貞一」の媒酌で息女に入り婿して後を嗣がれたときにはすでに亡くなった後、ということのようだ。
『大阪出版六十年のあゆみ』にはどのように出てくるか、というと…
一書堂のあるじ井上如真という方の大正期大阪業界人物評『浪速書林 花曆面影草紙』が附録「出版人の面影」として収載されているのだが、そこに松浦忠次(と松浦貞一)も出てくるものの、人となりがちょこっと書いてあるだけであんまりよくわからない。
しかし、その続きを覧ていくと松浦忠次の奉公先だった道灌堂太田庄次郎も出てきて、…
…これに添えられた脇坂要太郎の註釈に「因みに松浦忠次、吉田栄吉、神崎勇の諸氏はこの店の出身。」とあったのは嬉しい発見☆
なるほど、神崎祐文堂と松浦忠文館とは社主がかつて太田道灌堂で同じ釜の飯をいただきつつ本屋修業をしておられたがゆえに、それぞれ独立なさった後も引き続き懇意になさっていたのだろうことが想像できる。
神崎勇と松浦忠次とのこのおつながりがあったからこそ、前回取り上げた十時惟臣『圖案と文字』が両社のいわば共同出版のようなカタチで出されたのではないかとも考えられる。
それにしても、これまでみてきた一連の祐文堂出版物奥附に「發行者」としてその名のある「神崎雅亘」が、まったくどこにも登場しないのが不思議。
それに、祐文堂を昭和四年(1929年)に創業されたのも、昭和四十年代まで経営しておられたのも神崎勇、という資料と突き合わせると、ご両人は同じところにお住まいのお身内どころか、じつは同一人物なのでは? という考えも頭をもたげてきてしまう……
ちなみに、国会図書館デジタルコレクションで「神崎勇」が発行者になっている祐文堂刊行物は、というと鈴木美明『彼女より彼氏よりのラブレター』
ただ一冊しか引っかかってこない。
(あと、帝國圖書館旧蔵の『出版物檢閱通牒綴』昭和十五年分には「安寧禁止」「風俗禁止」で発禁処分を喰らった書籍の発行者としてお名前が出てくるけれども……)
昭和十三年(1938年)よりも古い出版物には「神崎雅亘」しか見当たらないことからすると、もしかして何らかのご事情でこのころに改名されたのだろうか?
そもそもサンプル数が少な過ぎるでしょ、とツッコまれると「いやまったくおっしゃるとおり」なのだが……。
十時惟臣と矢部正一のこと
ところで、今回ご紹介した一連の略画集を共同でお作りになった十時惟臣と矢部正一、このお二人はどのようなおつながりだったのだろうか。
じつは双方の作品が載っている本がほかにもあって、そこからうかがい知ることができる。
この優秀作品集に、十時と矢部それぞれ三点づつのポスター作品が揭げられているのだ。
十時は同書の装幀も担当しておられる。
お二人は、このグラフィックデザイン研究団体で知り合っておられたのだ。
十時の作品のうち二点は、『圖案と文字』にも掲載されていたものだ。
☝ただし、「イシイ・カジマヤ」という商店ロゴは外されている。
この作品集のタイトルにいう「商業美術展」というのは、昭和九年(1934年)十月に大阪府立貿易館で催された「第二回商業美術聯盟展」を指す。
同展の開催要項は、国会図書館デジタルコレクション収載の大阪府工藝協會『大阪之工藝』誌第十二卷第九號に書いてある。
☟左ページ(p. 31)冒頭の
がカタチになったものが本書、ということだろう。
久々のご登場、武田五一のお名前が「審査總長」として出てくる。
巻頭序文をみると、商業美術聯盟の顧問をお務めだったことがわかる。
商業美術聯盟展「審査長」の京都高等工藝學校教授、霜鳥正三郎も同聯盟の委員となっておられる。
この前年の帝國工藝會『帝國工藝』誌第七卷第六號に載っている「商業美術家名簿欄」の「商業美術聯盟」のところを覧ると、矢野正一の名はすでにあるが、十時惟臣はこのときまだ加入しておられなかったようだ。
じつは十時は装幀デザインばかりでなく、この本の編集も担当しておられるのだ。
企画展で複数点入賞とはいえ、ニューフェイスがいきなり優秀作品集制作も任されたのだから、大抜擢といっていいだろう。応募作品の出来映えはもとより、過去に美麗な作品集を出しておられたこともその後押しになったかもしれない。
そして今回、奥附をあらためて眼にして「あ」と思ったのは、「發行者」として「松浦忠次」の名があったことだ。十時と矢島は、ここで松浦忠文館とのおつながりを得ておられたのだ。
そして松浦からのご紹介で、おそらくは神崎祐文堂から子ども向け略画集の企画のお話が持ち込まれ、そしてやがては『圖案と文字』刊行の企画も実現することになったのではないか、などと想像してしまう。
それはそうと、ここでふと、ちいさな疑問がわいてこないだろうか。
十時惟臣は、彼の新作図案文字を一冊にまとめた高品位な『創作圖案文字大展』が元文社からすでに世に出ているのに、どうしてまた新たに神崎祐文堂や松浦忠文館と組んで、しかも同書の作品をほぼまるまる再掲なさるとともに、カットやポスター図案なども盛り込んだ作品集『圖案と文字』をあらためて出すことにされたのだろう?
前回お見せしなかったが、じつは『創作圖案字體大展』奥附の上には、近刊予告として『技法解說 創作ウインドー、バック圖案』『創作カット圖案集』の二冊が、判型や印刷法、定価といった具体的な情報とともに掲げられてある。だがしかし、いずれも刊行された形跡がまったく見当たらないのだ。
なぜ、この企画は実現しなかったのだろうか?
どうして、田中耕三郎とは再び組まなかったのだろうか?
その謎を解く鍵なのではないか、と思われる “不審” な豪華図案+図案文字集を、次回はご覧に入れることにしよう。