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品川県はどこにあったか

私設図書館「図版研レトロ図版博物館」で昨夏たまたま収蔵した『すぎなみちようつけたりちようめいかん』を『大正、阿佐ヶ谷、高円寺。』というタイトルで覆刻する企画に携わるまで、地域史について調べてみようとしたことはまったくなかった。

(左)杉並町報社『杉並町誌附町名鑑』(外函と本体)
(右)図版研『大正、阿佐ヶ谷、高円寺。』

実のところ、『新修杉並区史』を区立図書館で手に取ってみたこともなければ、郷土史家として地元ではお馴染みのもりやすの存在すらしらなかった、といえば、どれくらい関心を払ってこなかったかがおわかりいただけるだろう。

杉並町誌附町名鑑』にざっと目を通してみたところ、思いの外面白い資料だということに気づき、そこから「ここに書かれていることを、ある程度はちゃんと理解しておきたい」という考えがわいて、じゃあひとつ調べてみようか、ということになったのだった。

調べてもどうもよくわからない「東京新市街史」

ところが、実際やってみて気づいたのは…

  • 東京の歴史」についての資料は、図解書も含めたくさん出ている

  • しかしそれはあくまで「最初は小さかった『東京旧市街(≒旧江戸府内)』の拡大発展史」である(<当然といえば当然)

  • 東京新市街(=あとから併合された郊外地域)」については、書かれている内容はほぼ併合後のことについてのみ(<その「前史」はよくわからない

  • 「江戸」が「東京」に切り替わったあたりの周辺地域を含む管轄の変遷とかが、なんだかものすごぉくややこしい

  • しかもそのへんの事情についての解説が、「息止めてダーッッッシュ!!!」みたいな端折り方がされていてよくわからない

  • 黎明期の「東京」について「地図」を含め「図解」がほとんどされておらず、説明を読んでもイメージがさっぱり湧かない

…ということだった。

例えば、昭和七年に市域拡張による「大東京」三十五区成立を記念して東京市が出した『大東京槪觀』という本をみてみると…

東京市『大東京槪觀』(外函と本体)

…「最初はほぼ江戸城のまわりだけだった江戸が…

東京市『大東京槪觀』巻頭図版

…二百四十年ほどでこんなに大きくなって…

東京市『大東京槪觀』巻頭図版

…その百年後に「東京」に変わってから多少出っ張ったり引っ込んだりして…

東京市『大東京槪觀』巻頭図版

…そしてこのたびめでたく「大東京」になったんですよ☆」

東京市『大東京槪觀』巻頭図版

…というざっくりとした変遷図解が載っているのだが、しかし…

東京市『大東京槪觀』巻頭図版(部分)

高円寺・阿佐ヶ谷地域については、というと…

東京市『大東京槪觀』本文「杉並區」解説(部分)

…こんな風に図版はナシ、文章だけでざっくり解説してオシマイ。

そして維新後、明治五年までのあいだに「武蔵知県事」→「品川県」→「東京府」→「神奈川県」→「東京府」と転々としたんですよ、とさらりと流されたって、何がどうなったのかさっぱりわからない、でしょ?

しかもこうしたことについて目で見てぱっとわかるような資料が、ただのひとつもまとめられていないらしい、ということが、色々な資料に当たってみたり、図書館や博物館などの施設へ出向いてはリファレンスをお願いしたりしていくうちにわかってきたのだった。

「品川県」って、いったいどこ?

武蔵知県事」とか「品川県」とか聞いたこともないのが出てきて、これを具体的に把握するのがこれまた結構タイヘンだった。

そもそも、どのあたりの地域のことを指しているのかがわからない。なにしろ、それを示す地図が少なくともインターネットで調べてみた限りでは全く見当たらないのだ。

ググるとまず出てくるWikipedia品川県」項

にはご覧のとおり、同県の公印印影しか図版が載っていない。こういう行政区画についての項目には色分け地図が添えてあることが多いのに、ここにはひとつも載せられていないのが意外。

品川区の「しながわデジタルアーカイブ」で公開されている『品川区史』通史編下巻の「品川区」項

を覧ても、やはり地図は終いまで出てこない。

品川区サイト「品川歴史散歩案内

の「明治維新後の品川」第2回にも品川県についての記述がある…

…が、地図はない。

おぉ、「品川縣ビール」なんてあるんだ。次のシーズンに試してみよーかな…

…などと思いつつ「品川縣ビールとは」のところを眺めてみたが、やはりその管轄区域をざっと説明してあるだけだった。

フツーならば、おおまかにでもその地図みたいなものはブランドイメージとして掲げてあってもよさそうに思えるが……やはりそもそも、そうしたものの材料がないのだろう。

因みに、品川県が救民授産事業として設立した麦酒製造所については、☝「明治維新後の品川」の続き、第10回に解説がある。

眼を近づけてよぉ〜くみてもわからない「品川県管内図」

「図版研レトロ図版博物館」架蔵資料の東京都『東京百年史』第二巻

東京都『東京百年史』第二巻

を引っ張り出してきて覧たところ、第二節「東京府の開設」3「「府外」の代官地」に品川県設置とその前史、武蔵知県事支配について触れてあった。

東京都『東京百年史』第二巻本文第二節

そしてこの中に、最初の「東京府」と周辺各県との境界を示す図が載っていた。

東京都『東京百年史』第二巻本文第二節

しかし、品川県全体は描かれていないため「荏原郡と豊島郡や多摩郡の一部は含まれているらしい」ということはわかるけれども、その全体像はつかめない

ここでちょっと余談:『東京百年史』第二巻☝p. 58で、明治元年の記事に「品川県」と使うのは「適当な用法ではない」とのご指摘があるが、その当時は「品川県」とは呼んでいなかっただろう、という意味ではたしかにそのとおり。

『太政類典』第一篇第六十二巻二十一「葛飾小菅岩鼻若森品川大宮宮谷ノ諸県ヲ置ク」

しかし『東京府史料』三十二「府治一」を覧てみても、『太政類典』『府史提要』同様、やはり「明治元年十一月五日 品川縣ヨリ受取」と書かれている。

『東京府史料』三十二「府治一」第四類「管地分合」品川縣

つまり、例えば日附を一八六八年十月二十三日(旧暦九月八日)明治改元よりも前、年初から「慶應四年」ではなく「元年」と書いてしまう…

『太政類典』第一篇第六十二巻索引

…のと同じく、「実質同じなのだから改称後の名に統一してしまって差し支えなかろう」というある種の合理的発想が、当時の史料編纂者たちに共有されていたあらわれ、とみる方が当を得ているようにも思える。

ところで見たところこの図版、何か古い史料から引っ張ってきたものと思われるのだが、元々何に載っていたのかは今のところわかっていない(ここに出てくる『府史提要』(東京都公文書館蔵の明治元年〜二年が載っている、写本を除く三種)

、『太政類典』第一篇のうち「東京府下品川台町及大崎村ノ内ヲ品川県ニ属ス」

『太政類典』第一篇第六十三巻本文十二

が含まれる第六十三巻

(☟同巻収載件名一覧)

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/result?IS_KIND=hierarchy&IS_NUMBER=100&IS_START=1&IS_TAG_S51=prnid&IS_STYLE=default&IS_KEY_S51=F0000000000000000188&IS_EXTSCH=F2009121017005000405%2BF2005021820554600670%2BF2005021820554900671%2BF2005031609204303022%2BF2005031609204303023%2BF0000000000000000188&IS_ORG_ID=F0000000000000000188&LIST_TYPE=default&IS_SORT_FLD=sort.tror%2Csort.refc&IS_SORT_KND=asc

、『明治史要第一篇

、『地方沿革略譜

を当たってみて、それから都公文書館史料編纂係の方にもお願いしてざっとお調べいただいてみたのだが、その範囲では見つからなかった)。

東京都『東京百年史』第二巻本文第二節
東京都『東京百年史』第二巻本文第二節

次にWikipediaにも引用されている、品川県に関してのほぼ唯一のまとまった資料集、東京都品川区『品川区史』資料編別冊第一『品川県史料』を覧てみることにしよう。

東京都品川区『品川県史料』

実はこれの巻末に、大判の折り込み図版がついている

東京都品川区『品川県史料』巻末附図

「な〜んだ、あるじゃないの品川県の地図☆」と喜ぶのはまだ早いどうしてこれがどこにも紹介されていないのかを考える必要がある。

まず、前提知識をお持ちでなければこの図全体が「品川県管内」なんだな、と早とちりなさるところだろうが、関東近辺の古地図を多少なりともご覧になった方には、これは武蔵国全図をまるまる模写したものだな、ということがおわかりになるだろう。

ではこれのどのあたりが「品川県」なのか、ということだが、下の方にある凡例を見てみると、…

東京都品川区『品川県史料』巻末附図(部分)

…こんな風に書いてあるだけで、「ここが品川県」とわかる項目はない

で、「これの説明は」というと、本文を最初から読まないとわからないのだ。

東京都品川区『品川県史料』前編

まずは前編「品川県」冒頭、「東京府」の管轄範囲についてのざっくりとした説明からはじまって、…

東京都品川区『品川県史料』前編

…次にその周りの地域を治めていた三人の「関東代官」が明治改元と相前後してそれぞれ「武蔵知県事」に任命され、…

東京都品川区『品川県史料』前編

その支配地に翌年には「小菅県」「大宮県」「品川県」が設置されるに至った、という経緯が書かれているのだが、それに続けて…

東京都品川区『品川県史料』前編

…西南部を受け持っていた松村長為が「武蔵知県事」に就任した前後の支配町村名が、なんと蜿々二十七ページにわたって書き連ねてある。

東京都品川区『品川県史料』前編

これが☝「品川県管内図」で網掛け表示になっている「「旧高調帳」登載の管轄村名」の元になっているリストらしい。

東京都品川区『品川県史料』前編

品川県成立事情のこまごました解説に引き続いて、…

東京都品川区『品川県史料』前編

…となり合う府県とのやったりとったり出たり入ったりの町村管轄変更やらなんやらかんやらが短期間のうちに頻々と繰り返されていて…

東京都品川区『品川県史料』前編

…しかも府県境界がぐじゃぐじゃ入り組んでいるところが多く…

東京都品川区『品川県史料』前編

「どこからどこまでが品川県」とはっきりさせるのがきわめて難しい、という事情が書き連ねられてある。

東京都品川区『品川県史料』前編

それの終いのところに「『品川県管轄村名控』」という、「その段階での品川県の範囲をみることができる」とされる資料名が出てくるのだが、…

東京都品川区『品川県史料』前編

…後篇「県史料」冒頭の「凡例」五に…

東京都品川区『品川県史料』後編

…それが多摩郡境新田の名主の家だった平野家が所蔵しておられた文書で、それを安政三年版の『武蔵国全図』にプロットしたのが☝件の折り込み地図、という説明が出てきて…

東京都品川区『品川県史料』後編

…ここで初めて☝「品川県管内図」凡例にいう「平野家文書」が『品川県管轄村名控』を指している、ということがわかる仕組みなのだった。開巻一番、本文を一行も読まずに巻末附図をひろげるヤツがいる、ということはおよそ想定されていないようだww

このことだけでも十分にわかりにくいと思うのだが、もうひとつ決定的に重大な難点が、この折り込み図版にはある

東京都品川区『品川県史料』巻末附図(部分)

品川県管轄村名控にある町村名は、☝凡例によればそれを太い枠で囲ってあるはず……なのだが、この絵図に眼を近づけてよぉ〜くよく眺めてみても、どれが太くてどれが細いのかがちっともわからないのだ。

例しに、中野近辺を拡大してみよう。

東京都品川区『品川県史料』巻末附図(部分)

さぁて、いったいどの町村が「品川県」に属しているでしょう? わっかるっかな、わっかるっかな♪

『品川県管轄村名控』プロットやりなおしに挑戦してみた

『品川県史料』で描き下ろされた「品川県管内図」は、品川県に含まれていた町村と、その前身である武蔵県知事支配地だった町村とをふたつの表現法で区分けて対比させて見せよう、というご発想自体は至極真っ当だったと思う。

ただ、この図で最も「見せたい」のは「どの範囲が品川県だったのか」ということだったはずで、それから考えれば「平野家文書にある町村の方を網掛けにしておかれれば、まだぱっと見でわかる地図にすることができただろう。

しかし、参考としてついでに盛り込んだ要素である「旧高調帳」の町村の方が目立ってしまうような、しかも肝腎の「品川県」管轄のところがまじまじと見つめてみてもはっきりとわからないような描き方になってしまっているのが実情だ。

それに加えて、「品川県」にもその前身の「武蔵県知事支配地」にも入ったことのない町村までが武蔵国全域にわたってこまごまと描き入れられてしまっているため、読者にとっては「見るべきまと」が非常に絞りづらい。武蔵国全体を含める必要があったかどうかは疑問だし、輪廓は描くにしてもせめて県境から離れた地域は省略するなり色を薄めるなりしてあった方がまだよかったろう。

「品川県」の範囲を示す図版としては、これではすこぶる使いづらい。見やすく加工しようにも、著作権保護がまだ切れていないからいちいち許諾手続きを踏む必要がある。そんな面倒に踏み込むくらいならば使わなくていいや、ということになるのは無理もない。

これだけの図版をすべて手描きで拵え上げられるには、調査も含め相当の手間暇をかけられたことだろう。にもかかわらずこの労作が、結果としてはどなたにも全く活用されることのない資料になってしまっているらしいのは惜しいことだ。

さて、どう考えてもどうにもなりそうにもない「品川県管内図」はあきらめて、図版研ならばこういう風にするかな、というプロット図版を試しに作ってみようか、ということになった。

刊年が書かれていないが幕末のものと思われる、高柴三雄武藏國輿地全圖』が図版研レトロ図版博物館にあるので、これを撮影して南北ひっくり返し、それをベースに Adobe Illustrator で色つきの枠を上から貼り付けてみることにした。

高柴三雄『武藏國輿地全圖』

折角フルカラーで拵えるのだから、枠も『品川県管轄村名控』二十四番組ごとに色を変えて、それから隣接府県名も入れてみようという方針になった。

高柴三雄『武藏國輿地全圖』

新たに地図を全部描き起こしたりするのではなく、著作権フリーの手持ち素材に書かれている町村名の上に枠をコピペしていくだけだから、まぁ一日もかければできるだろう、というお気楽な考えで取り掛かった。

東京都品川区『品川県史料』後編

ところが実際やりはじめてみると、これが意外と難しいことに気がついた。

東京都品川区『品川県史料』後編

例えば、どうして「池上村」が隣り合う二番組と四番組の両方に出てくるのかがわからない。

東京都品川区『品川県史料』後編

五番組の「經堂在家村」があるあたりには「左家」と書いてあるように見える村があるが、はたしてこれでいいのかどうか。たしかに「在」の崩し字は「左」っぽくなるが……

東京都品川区『品川県史料』後編

八番組の「覚東村」は、絵図にあるように古くは「學東」と書くこともあった、というのは調べてみてわかった。元々は「學堂」という村名だった、という説があるらしい。

東京都品川区『品川県史料』後編

十二番組のところ、絵図には「下恩方村」があるはずのあたりに「下忍田」というのがあるが、調べてみてもそんな地名は出てこないし……「品川県管内図」を根拠に、ここだということにしちゃう。「上忍田」も「上恩方」のあたりだし。

東京都品川区『品川県史料』後編

十三番組の「日彰和田」は「日影和田村」のことだろう。十四番組の「堂山村」というのがどこにも書いていない……「品川県管内図」にもないのであきらめる。「北入曽」「兩入曽」はあるのに、なぜか「南入曽」が書いてない。「フシ沢」「藤沢」とつく村がいくつもいくつも並んでいて、どれがどれやらよくわからない。「三ツ木村」みたいに、同じ番組に複数回出てくる村が散見されるのはいったいなんなんだろう??? ……飛地とか、かな?

東京都品川区『品川県史料』後編

十九番組のところをやっていて、あれ、そういえばさっきも「北永井村」ってなかったっけ? と思ったら十六番組にあった。よくわからないが「池上村」同様に半々に色分け……十番組の「野中新田六左衛門組」と二十番組の「野中新田善左衛門組」みたいにはっきり違いが書いてあるところは、塗り分けで合っているんじゃないかと思うけれど。

東京都品川区『品川県史料』後編

ようやく身近な地名が並ぶようになってきて、終わりが見えてきた。井草が石神井と一緒に上白子村の十八番組に入っていたり、関が保谷と同様田無の二十番組に含まれていたりするのは、今の自治体とは組み合わせが違うけれども、なんとなくしっくりくる感じ。

東京都品川区『品川県史料』後編

十九番組や二十一番組の「本郷村」があるはずのところに「本々」とあってなんだこれ? と思ったら、「郷」の崩し字を「々」みたいに書いてあるようだ(細かい字だから、版木を丸くは彫りづらいのだろう)。

東京都品川区『品川県史料』後編

二十四番組の「永住町」「廣嶋町」ってどこだろう、と思ったら、「内藤新宿北町」「内藤新宿南町」の旧称だった……どちらにしても、絵図には「新宿」しか書いていないので、ごちゃごちゃするし書き加えないでおくことにする。

……という感じで、迷ったり悩んだり後で手直ししたり、と予想外に何日かかかってしまったが、一応大雑把な『品川縣管轄村名控』プロット図は出来上がった

『品川縣管轄村名控』大雑把プロット図

(2024年1月6日追記:韮山県の位置表示があまりにもいい加減過ぎたようなので、『太政類典』第一編第百五十一巻に載っている明治二年一月の「韮山縣郷村高帳進達」

の多摩郡のところを取り急ぎ大雑把にプロットしてみた結果

を元に描き直した)

『品川縣管轄村名控』大雑把プロット図(部分)
『品川縣管轄村名控』大雑把プロット図(部分)
『品川縣管轄村名控』大雑把プロット図(部分)
『品川縣管轄村名控』大雑把プロット図(部分)

精確性を期すならば、それぞれの土地の地誌をきちんと調べて……となるワケだが、そんなことをしていたらただでさえ制作が遅れまくっている『大正、阿佐ヶ谷、高円寺。』の「別冊」がいつになったら出せるのかますますわからなくなるので、「品川県はだいたいこんな感じで、高円寺や阿佐ヶ谷はこの中の二十一番組だったんですよ〜」というのがおわかりいただければもう十分、ってなところでやめておくことにした。

だからこの図版が「品川県の地図」として独り歩きしてしまうのだけは避けたいところ、ではある。

ただしあからさまに間違いがあれば、ご指摘はもちろん大歓迎☆

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