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心の保ち方 / エッセイ

 家のなかも、一歩家から外に出ても、人工物だらけである。まみれている。とことんに。あなたの家も街もさして変わりはしないかもしれない。それなりの人口規模の発展した街に住んでいるのだとしたら。

発展?

何が?

 世の中は利便に埋め尽くされている。利便のピースが嵌まっていない不便の地表が露出しているのを見つけると、たちまちにしてどこかから人がやってきてそのピースを埋めてしまう。余地はない。考えることもない。僕らは、考えない方向に、動かない方向に、時間がかからない方向に、ひた進むのである。理由など、そんなものは昔はあったかもしれない。今もその時と同じ理由なのかもしれない。けれど知っているだろうか。ある音は背景のコードが変われば響き方はすっかり表情を変える。意味を変えるのだ。その朱の一点は橙色の背景には目立たず、純白の背景には突き抜けて赤く、まるで一雫の血である。フレーズはそのままに意味は異なる背景の下で変わってしまい、過剰に膨れあがる。資本主義の名の下に、と言えばまだ様になっているが、詰まるところ、欲望や競争を餌に駆動している虚しい機構が資本主義である。輝かしい時期、明るい面がないではない。しかし甘い文句だけを謳いあげ、その汁を舐めすぎた。その傍らにずっとあった翳りに目を向けなかったのである。気がつけば、僕たちは利便や娯楽を受け取って、それが享受される画面の中ばかり見るようになり、けらけらと笑っている。そのようなものがもたらされた世界はとうの昔に様変わりしていて、隣人が誰かも知らず、伝統は無駄なことだと排除し、なるべく動かず、少しも動かず、そのために人を使い、またある場所からは人を排除する。その虚しく過剰な源では、競争と供給が永遠に繰り返されている。人間は駒であるが、駒になれるならまだいい。しかし専門性の無い人はその仲間に混ぜてもらえない。いや、混ぜてもらえないのがある面ではよかったのかもしれない。馬車馬のように働き、競争の中で余裕なく、生き抜くために他者より自分を良く見せようとしたりするよりは。そのような中では、少しのことで自尊心や自己肯定感を挫かれる。それが今の世の中である。

 メンタルの保ち方、ストレス社会を生き抜く方法、色々な書籍や記事が溢れている。それだけストレスや閉塞感を感じている証だろう。金にならないものは生み出されないことに心血を注ぐ世界である。その意味で、陳列を見ればある程度は証となるだろう。自尊心を守る鎧をまとって、他者を切りつける剣を携え、上昇すべき地位への地図を手に入れることが現代社会で自分の精神を保つ方法だとは僕は思わない。こんなものはいつか朽ちる。朽ちずとも生身の中身が疲弊してしまう。晴ればかりの日が続くわけがない。グラスの水はいつか尽きるし、それは世の理である。そのようなやり方ではなく、今の世界のあり方の歪みをまずは知ることが先決で、次に人間というものが自然物であるということを思い出すことが大切だと思う。その自然物である自分が今、如何に非自然的でどれだけ疲弊しているかに気づくことである。これは何も、自然へ還れと言うのではない。火を使い出した時から人は道具を使うし、文明の利器を全て否定するのでもない。しかしこれらは再現なく肥大する。その極端な行く末が人間に本当の意味で合っているとは僕には思えない。今の世界でも人間本来と齟齬が生じて、それが現代人の閉塞感に繋がっていると思う。テクノロジーによって確かに僕たちは救われている。しかし当の僕たちはテクノロジーの使い方については器用に操るくせに、本当のところは未だにズブの素人である。電車に乗ったなら向かいのシートでは軒並みスマホに視線を落とす。全員がそうであることは全く珍しくない。しかし全員がスマホを見ていない状況は非常に稀である。

 心を軽くしたいなら、自然の中に出かけるといい。そうでなくとも、広大な自然に想いを馳せるといい。いかに人の世の雑事が些事であるかがわかる。吹けば飛ぶ地表の蠢きである。宇宙から見れば点にも入らない。慌ただしい世界では1年もしないうちに良くも悪くも忘れ去られる。空間的にも時間的にも万事が結局は瑣末な出来事なのである。競争のなかに身を置かず、競争のなかに居らざるをえなくとも、競争に自分は関わらず、他者と虚しく張り合わず、私的な時間、私的な取り組みに軸を置くのがよい。自分の世界を他に持つのである。今の世では仕事人間になっては大方損をするだろう。しかも取り返しのつかない大損である。人はなぜだか自分は選ばれ者だとどこかで信じている。他者と違うと思っている。夢を見るのは良いが、出世しようとあの手のこの手でも、たいていは性格悪く立ち回っているに過ぎない。それは粉飾に過ぎない。そんな夢は夢の部類でも質が悪いほうのもの。生き抜いて、出し抜いてなどという成功はしないほうがいいし、まず自分が擦り切れて出来ないだろう。これは何も敗北主義ではなく、このような夢は健全ではないということである。

 画面ばかり見ずに紙の本を読んでみるといい。はじめは落ち着かないだろう。自分の時間感覚があくせくした世の中のものになってしまっている証拠である。すぐ結果や結論を求める「待てない病」にかかっている。SNSはこの病の仕組みを利用しながら悪化もさせている。待てずにそわそわいらいらするのは症状である。いらいらをただのいらいらと捉えずに、ああこれは自分が待てなくなっているんだな、まずい、と思ってみることだ。また、スマホのスクリーンタイムを確認してみよう。いかに自分がスマホ画面を長時間見ているか衝撃と共に知ることができる。その間はほとんどが受け身ばかりで頭などまったく働いていない時間だ。ぼうっとする時間は大切だが、これはまた別である。スマホコンテンツは人を待てなくもするし、創造的ではなくすし、疲弊させる。病みつきという言葉がよく似合う。スマホから遠ざかることだ。暇な時間はスマホ、隙間時間はスマホになり、本当の暇な時間や隙間時間などなくなってしまっている。これでは生きていない。昔携帯電話にはストラップを付けるものだったがスマホにはストラップがなくなった。それは人間がスマホのストラップになったからだろう。まさに人間は賢いスマホのストラップである。

 「上善如水」と言う言葉があるが、自分はこのように生きたいと思った。なぜならこれまで書いたように企業で競争し、それに疲弊したからである。如何にその行為が虚しく無意味なものかを僕は知った。そしてそれまでも常にすぐ傍にあったにも関わらず見えていなかったそのままの世界が、どれほど健やかで美しく、わくわくとときめきを与えてくれるものであったかを思い出すことができた。

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