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創作と恐怖 / エッセイ

『田園の憂鬱』を書いた佐藤春夫。彼は若き日の三島由紀夫に『小説の極意は怪談である』と言ったそうな。この言葉は妙に腑に落ちる。物語というものは人間にとって重要な概念で、古くは古事記にしても、地方の伝説・昔話にしても、宗教にしても、不可解なものや大いなる疑問があれば、人はその答えのようなものを物語に託してきた。
 僕は幼少の頃、妖怪がとても好きだった。テレビの特番なんかで時折やっていた、心霊特集も好きだった。しかし超自然的なことを信じてのことではなかった。心霊に関しては恐怖心はあったが、所謂お化けがいるとは信じていなかった。と、こう言うと少し違うが、恐怖心の分はどこかで信じている風であったのかもしれない。しかし信じることと恐怖することは別である。その論からいくと、矢張り信じてはいなかったのだろう。妖怪にしても同様である。その一風変わった奇妙な姿形のキャラクターに僕は惹かれていたのである。

 大人になったいまでも妖怪には関心がある。これも妖怪を信じてのことではない。民俗学として興味を持っているのであって、その類の本も少なからず読んだ。昔の人たちは不可解なものごとや疑問などの説明を妖怪に託してきた。そこに僕は人間味を感じるのである。時を経た現代ではそのような説明は不要で、もっと合理的で明らかなか科学的説明がある。この解には非の打ち所がなく、如何なる他の答えも太刀打ちできないようである。しかし、果たしてそうだろうか。僕は理系畑の人間である。科学が解き明かしてきたものを科学理論としてこの世界を正確に説明していると信じている人間である。同時に在野の文系である。それだけに、科学という言葉が人間の情緒に対して語られるものかは疑問である。科学的な説明は客観的世界を説明してはいるが、人間はその説明に腹落ちして納得する生き物ではないと思えてならない。当然ながら、スピリチュアルやオカルト、未だに語られる地球平面説などは論外である(信じるのは自由)。人の生きる意味を問うたとして、生物学的な諸事情を滔々と語られても、人はそれで「そうか!」と目の前の霧が晴れ、その語られた意味の下、活力漲らせて生きられるものではない。そのような深淵な問いに人が求める答えはもっと文学的な答えであって、日常のなかにあるような、そんな答えだと思う。そこに物語の大切さが見つかる。想像力とも言える。僕はそのような深淵な問いに府落ちする論理的答えなどないと考えている。個人的に問われたなら、好きに自分の生まれた意味をでっちあげて「私は、○○するために生まれてきたんだ!」と声高に喚けばそれでいいだろう、と言いたい。実際にそれをして生きるのなら、そのために生まれたに違いないではないか。仮にどこかに人類誕生の真の意味が見つかったとして(人類誕生の意味があるなら、アメーバにもビスマスにも南天にも路傍の石にも誕生の意味があるはず)それを語り教えられたとしても、それでも我々は「ああ、そうなの」と思いつつも依然としてピンときていないに違いない。

 もとい。そういえば、物語であった。昔話などに語られるような不思議で奇妙なお話、恐怖譚、怪談など、また娯楽性を帯びたそれなどにも関心があった。そこにはあたたかい人間の想像力と情緒があるような気がするからである。そうしてそのような興味から、随分怪談を読んだ。現代のものはそう多くないが、江戸、明治期から昭和期の怪談が多い。それから他資料の類。柳田國男もたくさん読んだ。そうして民族学的な面白さから創作へと視線が移り、恐怖とはどのようなものかということを考えはじめた。
 当時、資料を漁っていると、ケンダル・ウォルトンの論文『フィクションを怖がる(Fearing Fictions)』(1978)に行き当たった。この論文は勁草書房から出版されている『分析美学基本論文集』に収められている。恐怖について分析・考察される際にはほぼ参照されている論文である。ここではフィクション(虚構)であると認知しながらも恐怖を覚えるという我々の反応に言及されている。大変興味深いがまた別な機会に哲学の現象学と絡めてとりあげたい。つまりは、恐怖は哲学的な領域へと広がりはじめる。その流れで、マーク・ウィンザーという美術系の哲学者、氏の次のような言葉をみつけた。

『一見したところの不可能性』

 これは考えてみると、確かに恐怖を感ずる一つの条件のようである。
「いるはずのない人がいる」「聞こえるはずのない音が聞こえる」「視線を感じる」「急に寒気がする」「インターホンが鳴り、出ると誰もいない」などなど。確かにこのようなことがあって、即愉快満点とはならない。普通の感覚であれば不安や恐怖に襲われる(不安と恐怖の違いも奥深い)。ウィンザーのシンプルな条件ではあるが、これに照らして考えてみるだけでも、恐怖の浅瀬の辺りぐらいは掴めそうである。と考えるうち、このようなことを思った。創作観点からである。
 例えば、よくある恐怖の描写であるが、部屋にいると窓の外を女性が通り過ぎた。しかし、この部屋は二階である。というようなもの。手垢が付き過ぎていて陳腐だが、実際にそのようなこと場面に遭遇すれば震え上がるだろう。しかし、なぜ震えあがるのか。それは、『その女が浮いている』からなのだろうか。ここで、浮いているから怖いという印象を用いてあれこれと作ってしまうとよくないように思うのである。『立てないはずなのに立っている』からというほうが個人的にはいくぶん恐怖を喚起される気がする。このとき、では女の足元はどうなっているのか、という部分には触れずにぼかして不問としておくのがミソである。ここに想像力の幅があり、恐怖はこの幅に住まう。両者とも、先ほどみた『一見したところの不可能性』ではあるが、当然ではあろうがその条件だけではなく、この条件を満たしたなかにおいても、創作の立場から考えると、その語り方によっては恐怖にもなれば退屈なものにもなることがわかる。

 ここまで覚束ないなりに分析めいて書いてみたが、ロジックでやる創作は性に合わない。しかし、その都度その都度、文章や描写に苦心して、ああでもない、こうでもないと書いては消ししているのは、およそこのような営みと根は同じようにも思う。徒然なるままに、見切り発車で書いたので、これ以上支離滅裂とならぬよう、ここらでドロン。

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