見出し画像

喋るのが下手になった / エッセイ

 「吉本入ったらええわ」

 僕の生まれ育った大阪では、ひょうきんな子供を捕まえて大人はこう言いました。大阪だけということはなく、近隣もそうだったのではと思います。ひょうきんと書きましたが、関西では「ちょけ」と言います。「ちょける」という動詞の名詞形でちょける人を表す。ちょけるというのは、ふざけるという意味といってよいと思います。

 僕はちょけでした。人見知りのちょけだからややこしい。隠れちょけ、ということになるのでしょうか。外ではめっぽう大人しいくせに、気心の知れた相手の前では、飛んだり跳ねたり変な奇声をあげたり身を波打たせたり、とまあ、そんなんでした。勢いに乗って喋りはじめるとこれがまたよく喋った。子どもなりの屁理屈をペラペラと。

 いつの間にか大人になりました。もういい歳です。ある時期に非常に言葉と文章に向き合いました。それまでものらりくらいと創作と称してものを書いていましたが、この時ばかりは言葉や繋がりや意味やそこに漂いはじめる空気感に執着したのです。ああでもない、こうでもないと、例えば目の前に生えているひとすじの草を鉛筆でスケッチするように、言葉でスケッチしました。これがまたしっくりこない。何度も書き直し書き直ししていました。あの手この手で色々と試すんです。思いつくかぎりの方法で、やけに凝ってみたり、シンプルにしてみたり、視座を変えたり、対象を語らなかったりと何でもござれです。何となく近づけたと思ってもしっくりはきていない。そんなことをしているうち、自分の中が空っぽになったような気になります。どうやって書いていたんだろう、と元々手数が全然なかったように思えてきます。囚われた発想の枠から飛び出そうとします。しかし、いくら大胆に身を振ってみても陳腐なレールから外れることが出来ないのです。そして、はたと思います。発想の枠なんかに囚われているのだろうか。そのような枠に囚われていることにしてしまえば、自分の胸奥には発想豊かに芽吹く種があって、囚われているからそれが芽を出さないだけだということにしてしまえるのです。要するに、易きに流れています。発想の枠なんていう牢獄は別にないのかもしれません。ないものから飛び出すなんてことは不可能です。では、そんなものがないのだとすれば・・・と、その考えも恐ろしいわけです。

 こんなことをぐじゃぐじゃしているうち、喋る言葉までこだわりはじめてしまいました。誰かに何かを、そのニュアンスを含めて出来る限り伝えようとすると、ふと頭に浮かぶ言葉では全然しっくりこないのです。すると口から出かかった言葉を飲み込むことになります。

「連休はどこかに行かれるんですか?」
「ああ・・・連休は、え、僕、実家が大阪なんですが、親がもう歳で、あわわ・・・何でしたっけ? ああ連休でしたね、そうですねえ、連休っていつまででしたっけ、特に予定ないんですけど、むむむ、てへぺろ、せっかくの連休なんで何かしないともったいないですよね、ゲホゲホ、ハクション」

 と、つっかえるわ調子狂うわでめちゃくちゃです。書き方にこだわった弊害が喋り方へのこだわりとして現れたわけです。
 僕が演劇なんかに目覚めればおしまいです。見た目や言動を表現としてしまったなら、全く動けなくなるか異常行動をとるでしょうから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?