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実験室 / 掌編

 既に女はそこにいた。男がいつ来たのかと聞くと、ややあってから目も上げず六時頃だと言う。それから今までざっと三時間、女は次々にリトマス試験紙を細く筒状に丸めている。傍らには完成した山と役目を終えた山があった。男は女に訊いた。
「何度目だ?」
「次が五回目です」
「度で訊いたのだから、度で答えたまえ」
「次が五度目です」
「よろしい」
 女は手を止め、顔に逡巡の色を湛えている。
「この状況で『次が五度目です』という表現がしっくりきません」
「何がしっくりこないのかね」
「五回目というと未完の響きがありますが、五度目というといくらか完了の響きがあるといいますか」
「五回目も五度目も同じことじゃないか。何を馬鹿なことを言っている。目は目玉の目だ」
「目が目玉の目なのは知っています。そこは今問うていません。それに目玉の目であっても、ここでは幾度目という序列に添えるものであって、眼球のことではありません」
「ああ、そうとも。眼球のことではあるまい。それに今は、眼球が話の主眼ではないのだ」
「何言ってるんですか。うまくもない」
「何も言ってはいないさ」
「何も言ってはいないって、『眼球は主眼ではない』なんてくだらないこと言いましたよ。それも『眼球のことではあるまい』と言い終わったにも関わらず、ちょっとして思いついたもんだから、慌ててこの潮が引かないうちに『それに今は』なんて、慌ててイキがってほざいたんじゃないですか」
「まずはじめに指摘しておかなくてはなるまい」
「何です」
「君が私の言ったことを一字一句違わずに覚えていることに驚いた」
「それはここに書いてあるからですよ」
「書いてあるとはどういうことだ」
「だから、上の行に書いてあるじゃないですか」
「そんな馬鹿な」
「なんということだ。そっくりそのまま書き残されているじゃないか」
「今頃気がついたなんて信じられない」
「世界はこんな風に出来ていたのか」
「あとは何です」
「あと……」
「『はじめに指摘』云々といったなら、あとがあるでしょうが」
「いや、この衝撃で忘れてしもたみたいやわ」
「何ですか、急に関西弁で」
「え、あ、ほんまや、地元の言葉出てしもとる」
「衝撃を受けたらそうなるんですか?『出てしもとる』のなら、直してください」
「ああ、そうだな、直すことにするさかいさ」
「なんですか、それ」
「いや、ちょっとしたら、直るさ、せやから、話を続けたまえ」
「話を続けたまえって、続けるのはあなたです」
「あなたって言うなや」
「また衝撃を受けたんですか。いつも冷静ぶって話されてますけど、裏ではハリボテって呼ばれてますよ」
「んな阿呆な。ってか、それ俺にバラすなや。自分らほんまよう言うわ。たまらんわほんま。ちょ、何なんまじで、ほんと、人をからかうものではないっちゅう話なのだねん」
「……やばいですね。ん?今、何飲んだんですか」
「錠剤」
「何の」
「薬。言葉。直る。治る、か」
「そんな、こわごわぶつ切りに話して」
「でも君、関西弁、嫌がること、なかろう」
「何も関西弁を嫌がってませんよ。急に関西弁になったり、それも混じったりしてるのが小憎たらしいんです」
「小憎たらしい言うなや」
「すごく分かりやすいですね。今、衝撃を与えて試したんです。その錠剤ぜんぜん効いてません。お捨てなさい」
「ちょっと、待って、くれ。落ち着けば、大丈夫でんがな、まんがな」
 女は目を手元にうつした。丸められたリトマス試験紙を赤と青に分け、きれいに並べていった。
「調子は、どうかね」
「普通です」
「これから、五回目かね」
「さっきも言ったじゃないですか。それに『五度目』じゃなかったんですか」
「堪忍したまえやねん」
 女はおもむろに赤の細筒を右の鼻の穴に挿しはじめた。ひとつ、またひとつ。その穴がいっぱいになると、左の穴にも青色を同じように挿していった。女の小鼻ははちきれんばかりである。それを見て男は果てしない『コスモス』を思った。連想的にお花のほうもしきりに浮かんでくるのだった。
「いよいよか」
 男は言ったが、女にしんどい目を向けられただけである。女はつと立ち上がり、おもむろに鼻から突き出た両の筒を両の手で掴んで、ぐいと前方へ引き抜くと、明日へ架かる希望の橋が透明にきらめいた。女の顔がぱっと華やいだ。その時、床でパキャンとけたたましく鳴った。
「ごめん。薬の壜が落ちた」
「ふん」
「君は少々抜け目がなさ過ぎる」
「あなたが小物すぎるんです」
「なんと。そこまで言うか」
「もう我慢なりません。毎日毎日偉そうに。『君』だの『どうかね』だの『やりたまえ』だの。ペダンティックかと思えばものを知らないし。そうなってくるとね、足元で黒く光ってる革靴も、胸元の鮮やかなネクタイも、ベニヤ板に添えられた全くのお飾りのボンボリよ。あなたはいつ鍍金が剥がれてお粗末に鈍く光る地金が露わになるかと不安なのよ。あなたはいつもそうだったじゃない。『醤油を取ってくれたまえ』『なかなかいい味じゃないか』『だから君と結婚したんだ』って、何様って感じよ。いい味だ? カレーライスとハヤシライスも分からずに? だから君と結婚したんだ? 思えば叶ったことだとでも? いい加減にしてよ。もっと自分というものを見つめなさい。そういうの虫唾が走るのよ。汚点よ、汚点。歳の離れたあなたを大人だと勘違いして結婚してしまったんだから。ああ離婚してよかった。今もあなたと一緒だったらと思うとゾッとするわ」
 女は一息にそう言ってから、
「アルカリ性よ」と呟いた。
「え」
「だから、鼻水はアルカリ性って言ったのよ。よかったわね、知りたがってたことが知れて。くだらない。私はもう辞めさせてもらうわ」
 そう言って女が勢いよくドアを開けて出ていくと、そこに一人の助手が立っていた。
「聞いていたのかね」
 薬が効いているらしい。
「すみません」助手は言った。
「彼女の目をみたかね。私の若い頃そっくりだ」

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