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『人生の短さについて』(セネカ)を読んで、何となく思うこと。

 人生百年時代とか。これは字面だけで捉えると純粋に寿命が百年ということなのだが、実態はそんな生易しいものではない。高齢者は「こんな長生きするもんやない。はよお迎えけえへんかな」と呟く。他方の人生百年時代では「いつまで働けばええねん」という批判的感情も芽生える。

 勤勉な日本人は敗戦後の新たな光を目指して、あるいは自由を、あるいは盲目的に、目の前の仕事に没頭した。その効果は目覚ましく、優良な企業を多く誕生・成長させた。高度成長期である。わたし自身昭和の最後の世代なので、昭和特有の活気の名残りが微かに漂っていたのが懐かしく思いだされる。しかし、当時から闇はすでにそこにあっただろう。サラリーマンを企業戦士と表してみたり、五時から男とかのキャッチコピーで栄養ドリンクを宣伝したり。残業して夜遅く帰るというのがある種の定型となった時代だろう。そのような大黒柱が定年を迎えると白蟻にやられたかのようにスカスカに燃え尽きてしまう。何をするでもなく、日がなぼうとして過ごす。趣味などあろうはずもなく。なぜなら、これまで会社に人生を捧げてきたのだから。会社に人生を捧げた夫の体は一つしかなく、当然家族のために捧げられるわけがない。これについて男は「俺は家族のために」云々と宣うがそれは今回は触れないでおく。

 転じて現代に目を向けてみると、相変わらず遅くまで働いている。ITだITだとキャッキャ騒いでいた少し前、妙にビジネス思考が流行り、気持ちの悪いビジネス書や自己啓発本が賑わい、ジェルギトギトパーマネントでサイドを刈り上げたようなヘアスタイルの男性が、皆同じ横文字を使って鳴いていた。どうもおかしいと思っていた。効率というものを無闇に祀りあげ、拝み倒している実相に。非効率を悪とし、能率的に動け、とケツを叩く。そのような思想を旨とすることが、ちんけな男の動物的な飾り、即ちカブトムシの角や孔雀の羽、よく分からない鳥のダンスとなって、いやそのようなものだと男が勘違いしてそれらを身に飾り、妙な安手の思想が広まった印象がある。つまりビジネスの現場である職場を越え、自分のアイデンティティの虚飾として身にまといだしたのである。馬鹿の一つ覚えのように効率を求め、非効率をノロマだとか言って悪者にしはじめた。無駄を無駄として省き、結果や核心ばかりを求めはじめた。そこにきてドライな厳しさを売りにした似非仕事デキるマンが「結果がすべてだ」とか分野や状況を加味せずに一辺倒にほざきだす。するとこれに群がる者までが鳴き声を真似はじめる。結果がすべてだ! 数字だ! と。阿呆じゃなかろうか。その結果への至り方もわからずに、結果がすべてだと? 手始めに再現性の担保について聞いてみたいものである。もとい、まあ効率に偏重しているわけである。すると時間を削りはじめる。無駄な時間を省こうとするわけだ。仕事をする上で無駄な時間を省くことができたなら仕事が早く済み、個人個人の私的な時間が充実するはず! と喜べないところに世の愚かさがある。余計なものを省いて生じた時間の隙間は別な仕事によって埋められる。それだけではない。何が何だか意味が分からなくなってくるが、無駄を省こうが省くまいが、順番待ちの仕事は無限にあり、いくら無駄を省いて時間を生み出そうが、サラリーマンは賽の河原の子どもであり、永遠に石を積み上げなければならないのである。

 このような時間感覚が蔓延していれば、早々に仕事を切り上げることも悪と見なされる。皆が早く退社できれば万々歳だろうが、そうではないから定時退社など絵に描いた餅である。その結果、長々と働くことになるが、それによって生じ続ける疲れとストレスの中に聖人がどれだけいるというのか。わたしの経験から言うと、利己的な人間や野蛮な人間というのはそれなりの数のさばっている。そのような人間が、ただ長期間その組織に在籍しているというだけで、上長としての資質を欠くにも関わらず、オートマチックに成り上がる。すると下にいる者はこの知性無き猛獣の機嫌に振り回されることになるのだ。「〇〇を苦に自ら命を絶つ」と表現されるが、最早これは「自ら」ではないだろう。

 効率を求めるということは、無駄を省くということである。連中は何もしない時間を無駄と考えており、関心のないものも無駄と見做す傾向が強まっている。関心のあるものだけを得たいという衝動、それはすぐに結果を求めるということだが、それは取りも直さず待てないということである。待てない性向は苛立ちに繋がり、苛立ちは争いへと発展していく。思えばInstagramやTikTok、YouTubeのショートなど、あのユーザーインターフェイスのデザインはすぐに内容・結果が分かるものになっている。終われば指先の動きひとつですぐに次の映像が流れ、それが無尽蔵に続く。脳内で小規模の発火が短期的に繰り返される快楽。その奴隷となっている。それに飼い慣らされてしまっているために、長いものを敬遠する。待てない、耐えられない、という人間を量産している実態がある。彼らの苛立ちは簡単に誘発され、他者との繋がりが希薄な世相にあって、より殺伐とした空気が充満することを危惧してしまう。

 セネカの『人生の短さについて』について、ここまで全く触れていない。エンデの『モモ』の時間泥棒もそうだが、自分の時間を大切に守らなければならない。他人に、それも会社のようなものに時間を搾り取られていては気づいた時には終末である。画家の熊谷守一の『へたも絵のうち』で書かれている生き方には、こちらが正しいと思わせてくれる発見がある。国分功一郎の『暇と退屈の倫理学』も少し前に文庫でも登場して名著である。辻信一の『ナマケモノ教授のムダのてつがく』も功利主義へのささやかな挑戦ということで面白い。余暇・閑暇というもの大切さに触れた書物である。皆既に知っているのだ。時間というものの大半を奪われているということを。そしてわたしもその一人である。しかし、その他大勢と同じで世の中に絡めとられているのである。そうはいっても人生のクライマックスは必ず訪れるし、このままでは必ずほとんどの時間を失ったと思わざるを得ないだろう。大切な人に捧げるなら、それも良い。しかし会社という実体のない空虚な機構に捧げるなど、何のための生であったか。セネカも怠惰を言っているのではない。もっと自分のためになる時間の使い方があるとあらゆる例や比喩を用いて説いている。この内容は、セネカがパウリヌスという人物に宛てたもので、わたしは光文社文庫のものを読んだが、訳も相まって読みやすかった。パウリヌスはセネカの妻の近親者、一説には父ともいわれていると記載されている。悠久の時を経て、古典としてわたしたちが読む分には興味深い書物であるが、近親者、もしかして義父に宛てたものだとしたら、非常に説教臭い息子である。しかし現実を前にパウリヌスも実感したのではないだろうか。このままでは、いや既にマジヤバいかも、と。

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