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人の世は住みにくい / エッセイ

 僕の日常を表したようで、というとおこがましい。人の日常のある側からみたあり様。それでも自分の日常を背景にしてこれを浮かべるとき、身にしみてくるのである。

『智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい』

 漱石の『草枕』の冒頭がそれである。僕はこのうち『情に棹させば流される』は受け入れてしまえる。確かに情に頻繁に流されていると、振り回されて面倒だということも言えなくはない。けれど、それはこの世、人の世の優しさでもある。しかしあとのふたつには疲れてしまう。

『智に働けば角が立つ』
 これは他者からの嫉妬や張り合いとして日常に見つけることができる。僕は基本的に得意や経験を隠すようになった。自分には得意とする領域がいくらかある。そこに熱中した結果であるが、同じ分野の話題になっても特に自分に経験があることは話さない。表層の下にみせる張り合いの気配に嫌気がさすからである。こちらが一つ言えば、相手が一つ張り合う。なぜそうなのだろうか。時代の閉塞感からだろうか。自尊心がいつも満たされていないからだろうか。僕は嫉妬や張り合いを感じると、その不毛さに引っ込み、相手に華を持たせる。目の前の相手に承認させることなどどうだってよい。

『意地を通せば窮屈だ』
 意地を通すことなんてないけれど、そのような行動は上に書いたようなことの強行突破みたいやもんだ。嫉妬を増幅させていたり、誰かを押さえ込んでいたり、それで生じた歪みを他者に背負わせる行為である。そんなことをしては、周囲は変容し、結局は更に自らが窮屈になる。おまけにそれなりの良心があるならば自己嫌悪にもなろう。しかし意地を通す輩は沢山いる。「隠れ意地通し」なる亜種までいる。間違いを認めないのも同根なのだろう。間違いを認めない行為は、自分は間違えていない、間違いを認めたくはない、つまり自分は正しくありたい、自分は正しい、と言いたいことからだろう。平たく言えば、頭がよいと思われたいのである。しかし、頭がよいのは自分を客観視し、そこにある間違いを認識し、自分の間違いだとすぐに認めることができる人間である。よって、間違いを認めない行為は所望する結果を逆行する。

 兎角に人の世は住みにくい。僕は人が好きだけれど、人にうんざりしてしまう。浅はかさを周囲に撒き散らして勘違いしている人に疲れる。そのすぐ横で人に優しさをむける人がいる。優しい人。その存在に心がほぐされてゆく。他方を関わりのない世界にしてしまって、ようやく息を吸い込むことができる。

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