言語化可能/言語化不可能、合理/非合理、科学/非科学 のはざま
ここで書く内容は、4年ほど前大学院に在籍していた頃に考えていたこと(最近そのメモを発見した)を再構成したものである。読み返すと実に大したことないが、どうか悪しからず
近年、自分の身の回りの現象や自分自身の感情について、逐一抱いた疑問をできる限り言語化しようとしている。何事に関しても、得体の知れなさが生じればそれを解消したいと思うようになったからであろう。これは、かつて分析を苦手としていた私にとってはよい兆しである。
しかし、この思考の癖を何にでも適用しようとしてある時壁にぶつかった。
長期休みか何かで実家に帰省した時のある昼下がり、父親と話をしていた時のことだった。
何故この話題になったのだったかは忘れてしまった。ただ、フランス印象派の作曲家、クロード・ドビュッシーの楽曲が好きな私は、「なぜドビュッシーの音楽がこれほどまでに自分にとって魅力的なのかを知りたい」とその時話した。ドビュッシーの楽曲を特徴づける要素としては、既に不協和音・変化和音・全音音階などが挙げられているし、おそらく当時のドビュッシーもこれらを「理論」として自身の音楽に組み込んでいたと思うのである。
私がドビュッシーの音楽を耳で体験し、えもいわれぬ気分の高揚を覚えるというのは、これらの理論化された技法の影響であることまでは理解できる。しかし、これらの技法が何故、どういう仕組みで私の感情にこのような影響を及ぼすのかが分からない。
例えば、全音音階を聴いて、通常のドレミファソラシドを聴くよりも「不思議な(まるで魔法使いが登場しそうな)感じ」を覚えるのはどうしてだろう。サンダーバードの旧車内チャイムを聴くと不思議と気分が高揚するのはなぜだろう。もっと単純な例でいえば、長調が明るいイメージを、短調が暗いイメージをもたらすというのはどうしてだろう。
音の配列と認知にはどういう関係があるのだろう。要するに「客観的事象(ここでの音楽)」が「主観的感覚(音楽を聴いて得られる印象や気分の変化、認知の側面)」にどのような影響を与えるのか、これが知りたい。こういうのは科学的でどこまで解明できる(されている)のだろうか。
↓サンダーバードの車内チャイム 記憶からの耳コピなので調は不確か
早口でこんなことをまくし立てた私に対して父親は「おもしろいね」と笑いながら、(その当時の)つい2,3日前に毎日新聞に書かれていた記事の内容を教えてくれた。ベートーヴェンの生誕250年を記念して、ウィーンフィルの元コンサートマスター•ライナーキュッヘル氏のコメントが掲載されていたとのこと。それによれば、〈ベートーヴェンの楽曲は「理解ではなく経験する音楽」で、例えばバイオリン協奏曲冒頭のティンパニ4連打によってなぜ感動するのかは「分析できない」〉といった内容が書かれていたらしい。
父親は続けて、自分がかつて記した論文の内容を引き合いに出した。
宗教体験を表す「ヌミノーゼ」という概念がある。それは合理的に語り得るものではない「非合理」であり、その「非合理性」を説明するために父親は「梅の花の香り」を例に挙げた。
そして、「音楽もまさにヌミノーゼと同じ『体験』であり、これがどうしてある種の感情を湧きあがらせるのかということは説明できない(=感覚的経験を媒介にしなければ了解し得ない)。つまり、そこを科学的に解明することは不可能なのではないか」とのこと。
確かに、ある感覚を100%言語化するのは無理であり、そうである限り「客観的事象(ここでの音楽)」が「主観的感覚(音楽を聴いて得られる印象や気分の変化、認知の側面)」にいかなる影響を与えるのかを厳密に分析することも困難であろう。
ただ実際、音の高低・質・音色などがどう認知されるかということは、私が知らない(ろくに調べていない)だけである程度までは研究されていると思う。これは私の想像なのだが、音が人に与える影響が、ポジティブイメージかネガティブイメージかというところまでは少なくとも明かになっているのではないか(脳波測定等で出来るのではないか)。ということで、先に述べた、「長調が明るくて短調が暗い印象を与えること」に関しては科学的に解明されているのではないかと思う。また心理状態と声のトーンの相関関係や、声のトーンと聞き手に与える印象の相関関係は、どうやら明らかにされているようである。例えば、相手に好印象を与える声のトーンは「ソ」の音らしい。
しかし、「なぜ長調が明るい印象を、短調が暗い印象を与えるのか」というところまでは明らかにされているのだろうか。もしかするとポジティブかネガティブかといった次元ならば解明されているのかもしれない。が、一律に「このような音の配列、和音であれば全人類に同じ効果をもたらす」といった結果は存在し得ないはずである。もしそうであれば全人類、曲の印象や好みが完全に一致してしまうためである。
客観的事象としての音楽から「不思議な感じ」「ノスタルジック」「気分の高揚」などどいった主観的感覚が生じるまでには、恐らく個人の経験や個人の好みといったものが介在するため、「なぜ」生じるのかを考えるのはかなり難しいのかもしれない。
確かにサンダーバードの旧車内チャイムを聴くと気分が高揚するのは、「私」に関して言えば恐らく次に述べるような理由もある。両親と過ごすことが少なかった幼少時代だったが、1〜2年に1度程度、両親とともに遠くへ出かける機会があった。その時に必ず乗ったのが、関西方面ならば特急サンダーバード、関東方面ならば特急はくたかであった。どちらに乗ってもかの車内チャイムが鳴っていた。このチャイムは、私を両親と共に何処か遠くへ連れて行ってくれるチャイムとして私の中で認識されているに違いない。
ただ、そういった思い出を抜きにしても、その音の配列だけでも私はえもいわれぬ高揚感を覚えると思うのである。ドビュッシーの楽曲に触れた時のように。
余談だが、客観的な言語事象がもたらす印象というものも、私にとってはかなり興味深いものである。修士の頃、このような本を読んだ
オノマトペを数値化するという実に面白い内容である
この辺はまた考えたい話題である
おわり
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