「道」について
1. 「道」と「世界」の捉え方
①カーナビ的認識で捉える世界
"この道をまっすぐ行けば目的地に着く"
カーナビやGoogleのルート探索では、直進、〇mで右折、その先〇mで左折という経路表示に従って行けば難なく目的地に到着する。
私の場合、カーナビ的認識に拘束されていると、「道なり」=「まっすぐ」であり、「まっすぐ」=「直線」とうっかり捉えてしまう。
「道なり」に進むとき、地図上(ルートマップではない)のどこをどのように進んでいるかということはあまり意識しない。道なりに進むとき、道をまっすぐ歩いている・走っているつもりでも、予想だにしていない場所に出て「えっ?」となることがある。これも、道なりの道を直線である、と知らず知らずのうちに認識してしまっているが所以である。
②面ではなく線で捉える世界
目的地に向かって田舎の主要道(国道◯号線)なんかを走っていると、道沿いの森林、道沿いの店、「道沿いの○○」が色々ある。道沿いに展開されるそれらは、直線に沿って存在するものだと認識してしまう。少なくとも私は、それらが道からは見えない奥行きをもって、土地として広がりをもって存在しているものだとは瞬間的に分からない。
私は、高速道路のインターチェンジが並ぶ順番で、または電車の停車駅が並ぶ順番で、直線的に土地が配置されていると思ってしまいがちである。東京で電車に乗っている時なども特に地理的感覚<電車の停車駅の順番で直線的に世界を捉えていたなと思う。 そのため、それらの地域・地名が実際には面で広がっており、様々な土地と隣接していることに時として驚いてしまう。
③世界を捉える基準としての「道」
そもそも道のないところ、道から外れたところは我々の日常生活からは無縁の地であって、必要の地ではない。
今や鉄道や幹線道路などの交通網が整備され、日本中どこへでも行けるという感覚を我々は持っている。しかし、それはあくまで「道があるところ」までである。道のあるところまでしか我々の世界だと認識できていないということに我々は気付いていない、のかもしれない。
例えば、地図を航空写真で眺めると、人の生活とは無縁の地が存在していることに気付く。
厳密にいえば、その地に蓄えられた水が水源となって我々の豊かな暮らしを享受できていたり、その地に生い茂る木々により我々が酸素を享受できていたり・・・という点で決して無縁ではないのだが、なかなかそこに思いを馳せられない。気づかぬところでそういった土地からの恩恵を受けているものの、道のない世界=未知の領域であり、そもそもそこを「世界」として認識していない可能性がある。
そんなふうに考えると、ルートマップやカーナビは便利だが、こわさもある。多角的に道と土地との関係を捉えていくためにも、その「ルート」が土地のどの部分にどう敷かれたものなのかを確認し、逐一地図と示し合わせていくことが欠かせないのかもしれない。
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