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【落選小説集】ハルコさんの、日常と1泊。

応募時タイトル『ハルコさんの、日常と1泊2日。』

 ハルコさんは彼女を象徴する、福々しい笑顔の下で、不安や憤り、理不尽さなどの、いわゆるネガティブな感情を、粛々と感じ続けている。ちょっとした温泉みたいだわ、と思いながら。誰かに「うるさい、しね」と言ってみたいとか「ホント、あのとき言ってた事と違うじゃねーか」とか「同情するなら金よこせ」のような感情が溶け込んだ温泉に、肩までどっぷり使っているようだ。その湯船に足先を浸した瞬間は、熱さでめげそうになったが、頑張って両足を浸け、膝を折り、ヘソまで、そして肩まで浸かってみると、熱いことは熱いけど、身体が活性化していく感じが気持ちいい。
 感情の熱さに慣れてくると、強ばった身体が緩んでくる。ハルコさんは感情の温泉に浸りながら、プロフェッショナルとして、この職場で最後の仕事を黙々と片付けるべく、パソコンのディスプレイを凝視し、指をマシンのように動かし、キーボードとマウスを連打する。
 今日でこの会社ともお別れ。明日からの仕事は「現在、選考中」で、まだ決まっていない。

 ハルコさんは四十七歳だ。結婚経験はあるものの、三十五歳のときに離婚し、子どもはおらず、今は札幌市内で一人暮らしをしている。羽振りのいい正社員として働いていたこともあったが、四十二歳のときに強烈なパワハラに遭遇して退社を余儀なくされ、以来、派遣社員として三年、大手企業のパートタイマーとして二年間働いてきた。共に七十歳を過ぎた両親は小樽で元気に暮らしており、横浜に嫁いだ四歳下の妹には、夫と二人の娘がいる。
 ハルコさんは三十三歳の頃、五歳年下の職場の後輩と恋愛結婚をした。さわやかで、元気で情熱的で、背が高く、骨に響くよい声で、酒を飲ませれば陽気で、初歩的な英会話には困らず、休日には友人とフットサルをするのが趣味の、申し分ない夫だった。ただし、睡眠時間が人一倍必要なハルコさんに「そんなに寝ていたら健康に悪い」「人生は短い。寝てばかりいたらあっという間に死を迎える」などと言い、布団にくるまっているハルコさんをたたき起こし続けた。当初、ハルコさんも「そうね、そういうものかもしれないわ」と考えたが、フットサルの練習試合があるから弁当を持って応援に来いだの、友だち夫婦の家でバーベキューをやるから行くぞ、だのという夫のオーダーに応え続けていたら、ある日、だるまさんが転んだの「だ」の瞬間のように、ハルコさんは動けなくなった。動けなくなったハルコさんを見た夫は、その職務を果たすべく、ハルコさんに「ぴったりと寄り添う」を実行した。作戦は彼の裏目に出て、ハルコさんは五百円玉サイズのきれいな丸いハゲを四つ作った。そして福々しい笑顔に添えられたエクボはそのままに、不健康にシワシワとやせ衰えてしまった。おそるおそる頭に指を這わせ、あるエリアが本当に、つるん、とした指触りなのをはっきりと感じたハルコさんは、笑顔を崩さず夫に状況を説明し、離婚を承諾するよう迫り、夫は了承した。その夫は離婚から二年後、合コンで持ち帰ったのをきっかけに交際を始めた女性と、交際から八週間目で彼女を妊娠させ、現在は再婚している。
 ハルコさんには、社会人としての野心はない。幼い頃からずっと、ひとり黙々と単純作業を集中して行うことが好きだった。文房具屋に行けば、箱のあちこちに散らばった消しゴムを、向きを揃えて並べ替えたり、ペン立てにずらりと並んだペンの上下を揃えたりするのが、彼女にとって至福の時間だった。こんな風に生き、こんな風に死ねたらいいな、と少女時代を過ごした。
 積極的な野心はないが、ハルコさんにだって、夢や理想の人生はある。つまり消しゴムを並べる延長線上の暮らしだ。京都・大原に住むベニシアさんのような暮らしができたら、どれだけステキだろう、とハルコさんはときおり夢想する。身体が不調なときはハーブやアロマオイルを投入し、ストーブは薪ストーブ。古いものや、クラフト作家の友人たちがつくった調度品に囲まれて、深呼吸をしながら、お気に入りのソファで本を読んだり、ときどき映画館やコンサートに足を運ぶ。空を見上げ、近所を散策し、ベニシアさんが英語で読み上げるエッセイのように、美しい景色の中で、もの思うのだ。もっとも、ハルコさんにクラフト作家の友人たちなどいないし、住まいは古民家ではなく、賃貸アパートだ。保存食や常備菜をつくり、職場では手製のお弁当を持参し、コンビニに行けば「ちょっとした縁日の屋台」のようにはしゃぐハルコさんだったが、ていねいな暮らし、と、言うよりも、節約という観点からこうなっちゃった、みたいな要素が強い。若い頃にはデパートの一階にある化粧品店でフルセット購入をしたものだが、なにしろベニシアさん風に暮らしたいハルコさんなので、今はハーブの手作り化粧水と、スイートアーモンドオイルしか使っていない。メイクは日焼け止めを兼ねたティント乳液と、眉と唇をさっと描く程度だ。
 ハルコさんは札幌市内の美術系短大を卒業後、広告制作会社へ入社した。特に野心を持っていなかった彼女は、概ね、チラシや通販カタログのデザインレイアウトをその社会人時間で費やすことになる。やがて写植版下の時代からDTPの時代へ移行し、ハルコさんはDTPオペレータとして、粛々とチラシや通販カタログの印刷用データを作っていた。
 ひとり黙々とする作業が好きだったハルコさんだが、誰かと向き合って初めて発揮される能力、というのも備わっていた。それは「相手の病巣のようなものがわかる」というもので、ときに症状の緩和ケアができることもあった。身体的・医療的な分野はもちろんのこと、精神的にも、組織のシステムエラーのようなことでも、何かのトラブルのときに原因がハルコさんの目にはそこだけ3Dみたいに飛び出して見えたり、それに手で触れるとピリピリと痺れのようなものが伝わってくる。それでさまざまなトラブルが未然に回避できたり、重宝がられたりした。しかし、ハルコさんには自己を主張するような要素が皆無だったので、概ねその発見は、聞こえるか聞こえないかのささやかなサインでしか伝えることができず、彼女の手柄になることは、ほとんどなかった。
 その、いわば「特殊能力」のおかげで、相談相手やそばにいて欲しい人という地位を得たが、その多くはハルコさんにはちょっと面倒に映った。
 ハルコさんは、他人のことは敏感に感知しても、自分のことは、からっきしだった。
 離婚直後に正社員として入社した会社では、ハルコさんの勤勉さと特殊能力に社長が気づき、さまざまにこじれていた案件をハルコさんに完結させるよう命じ、ハルコさんは、ただ粛々と、とっ散らかったそれらをきれいに整列させ、癒し、片付けていった。そのときの自分の待遇を「ドラマチックな職務的大恋愛」と、ハルコさんはごく親しい間柄の人たちに説明するときに用いている。難しい案件と言われていた業務を、呼吸を整えながら集中して完結させ、忠実な犬のように褒めてもらい、比較的高い給料を与えられていた。だが、その職務的大恋愛は、一転、社長自らの強烈なパワハラで幕を閉じる。ハルコさんはこのエピソードを語るとき「そんなとこまで大恋愛だったよ」とオチをつけてクロージングする。福々しい笑顔を添えて。
 この一件で、ハルコさんはつくづく、自分は組織に向いていないと感じ、職場を合法的に転々とできる派遣会社に登録した。短ければ数ヶ月、長くても一年程度で、その場から離れられるというシステムは当時のハルコさんにとっては、相当魅力的だった。だが、ハルコさんの高いスキルも、年齢という壁が立ちふさがり、発揮するのが難しくなる。所詮、派遣会社というのは、そういうものだ。そろそろ定着したくなったハルコさんは、ようやく、大手企業の札幌支社でOAオペレータ兼事務雑用というパートタイマーの職を得た。事務の、長期雇用を見越したパートタイマーなら、そうそう退職に追い込まれることもなかろう、という考えと、派遣社員で最後に紹介されたコールセンターでのクレーム処理係が本当に負担で、パートでも何でもいいから、ここから出たい、という動機からの就職だった。
 ハルコさんは生来の性格と、経験から来る高いスキル、そして特殊能力と福々しい笑顔で、稼ぎは少ないけど、ひと安心という状況を獲得した。それがこの日、退職する予定の会社だった。
 ハルコさんが採用されたのは、大手文具メーカーの札幌支社で、主にオフィス家具を法人向けに販売するセクションだった。ここでもハルコさんの「整列」「デザインレイアウト」「特殊能力」「福々しい笑顔」は重宝された。採用されて一年後の人事考課では規定限度額分まで時給を上げてもらい、他に勤務するパートタイマーや社員とも、つかず離れずの良好な関係を保つことができた。また「特殊能力」のニーズは隠れて高く、階段の踊り場で上司と折り合わないと泣き続ける女性社員をハグしたり、就職氷河期入社の男性社員が、定年間近の部長のITスキルのなさと認知症レベルに自由すぎる奔放な行動を嘆くのを、少し悲しげな微笑みを向けながら諭したりし「癒し系のハルコさん」と重宝がられた。
 そろそろ、あと二カ月と少しすれば二年目になる、という夏のある日、ハルコさんは部署のトップの上司に呼び出された。この上司、来春には定年退職する男性で、禿げかけた白髪頭をよく掻きむしっていた。その白髪頭はどうやらカラートリートメントのようなもので染髪しているらしく、老成したヒヨコのようにも見えた。
 上司は頭をかきむしりながら、神妙な顔で、ハルコさんの二年目以降の処遇について話し始めた。結論から言うと、次回の契約更新日以降はこれまでの週五日フルタイムから、週一~二日勤務にして欲しい、ということだった。
「それをお断りすると、どうなりますか?」
 ハルコさんは訊いた。そんな話、今のハルコさんは認めるわけにはいかない。週三日以下勤務になると、健康保険と厚生年金が外されてしまう。上司は頭をかきむしりながら
「う~ん、契約の更新は、なしになっちゃうかな」
 と言った。そして部内の事情を話し始めた。「おとなのじじょう」としてはもっともな話だったが、ハルコさんにとっては、「堕ちろ、さもなくば、死ね」と言われているようなものだった。この場所ではもう、週五日のフルタイマーとしてのハルコさんは、いられない、ということなのだ。
 こんなとき、ハルコさんは相手の要望を自分のことのように受け入れる。ハルコさんはよく読んでいた占星術師のブログにあった「今はまだ、動くべきときではありません。水星が巡行に戻るまで辛抱しましょう」という記事を読み、一ヶ月後に上司に退職の意向を伝えた。そのとき、奇妙に話しがトントンと進んだことに微かな違和感を覚えたが、ハルコさんの特殊能力は、自分のことは何も見えない。これまでのご縁に感謝し、この、一見悲劇にも似た状況を「ある種の吉兆」と捉え、業務を丁寧に引き継ぎ、入れ替わりで入社した新しいパートタイマーを優しく教育し、ハルコさんは心の底から、福々しい笑顔で状況を受け入れた。

 ところがである。
 最終出社日であるこの日、昼食後に女子トイレで歯みがきをしていると、同じ部署で働くハルコさんの直属の上司に当たる女性に話しかけられた。その女性はハルコさんに新しいパートタイマーといかに相性が悪いか、その新人がCADオペレータという「スペシャリスト枠」で入社したが、本来求めていたインテリア部門の製図は描けず、そもそも港湾関係の図面しかできない、と開き直りの態度に出てきたのが腹が立つ、ハルコさんが任されていた業務は一切任せられないのだ、と愚痴をこぼし始めた。その程度ならハルコさんは彼女をなだめるのなど朝飯前だったが、聞き捨てならなかったのは、ここからだった。
 ハルコさんに実質上のクビ宣言を突きつけた件の上司に彼女が訪ねたところ、いつの間にか「ハルコさんのたっての希望で」退職することに話が変わっていたのだ。ハルコさんは彼女にこの上司からの「週一~二日出社か、退社か選べ」という発言を告げていたが、それについても上司は「いやいや週五日で、ちっとも構わないんだよ俺は」と言い放ったのらしい。そして彼女の「いらんこと言い」は、新人の時給がハルコさんを大幅に上回っていたということまで報告してきた点で、そもそも、もう取り返しがつかないようなこの期に及んで、なぜハルコさんに告げてきたのか、めったなことでは感情の導火線に火がつかないハルコさんだったが、これまでの蓄積と、関係者全員のデリカシーと誠実さの欠如に、ホトホトうんざりしてしまった。ハルコさんは持っている力の限りを振り絞り「不愉快な話ですね」と宣言し、立ち去るのがやっとだった。ここでハルコさんの「感情温泉」の蛇口はひねられ、彼女の心に感情の湯がごうごうと音を立てながら、濁流となって流れ込んできたのだった。

 既にこれは、ハルコさんの持病とも言うべきものかもしれない。ハルコさんは見積書を作成するために商品コードを入力し続ける業務に没頭し続けた。他に伝票作成をひたすら行い、百枚を超える伝票Aと伝票Bに商品コードの相違はないかを一枚一枚チェックし、ときどき席に訪れ、こっそりプレゼントをくれる同僚たちを相手に、いちいちていねいに驚きながら、そのプレゼントを喜び、再会を約束した(おそらく、その約束は履行されない)。定時を過ぎ、社員たちがハルコさんの肩を叩きながら帰宅する中、ハルコさんは最後までやるべきことを行った。この日は、どうしても作成を終えなくてはならない伝票が多くあったのだった。ハルコさんに「死刑宣告」を告げた上司はこの日出張で、頻繁に電話連絡を入れていたものの、ついにハルコさんに「お疲れさま」の一言もなかった。その点だけはハルコさんの不愉快スイッチに触れていたが、元来、ハルコさんは得意な仕事を黙々とし続けることが幸せだったのだ。これまでの不愉快や明日からの不安はさておき、ハルコさんは仕事をきれいに片づけるという快楽を、適温の温泉のように愉しみ続けた。

 ハルコさんは息苦しくて目が覚めた。ハルコさんの胸元に、腕が載っていた。微かないびきと、深い呼吸が聴こえる。ハルコさんは、布団の中にいるのに、どうにもスースーと涼しく、湿った感じに違和感を覚えた。
 そうだ。枕にはバスタオルが巻かれておらず、布団との間にタオルケットもない。
 いつもの麻のシーツと掛布団カバーではなく、綿六五%とポリエステル三五%のカバーリングだということが肌を通して伝わってきた。ハルコさんはいつもの「寝るとき用の絹のパンツ」も「四枚重ねの冷え取り靴下」も「ユニクロのスウェットパンツ」も「ユニクロで買ったミッキーマウスのスウェットワンピース」も身につけていないことに気づいた。全裸だった。ハルコさんの胸元に載っていた腕はちゃんと持ち主につながっており、ハルコさんはまず、その点にホッとした。腕の持ち主は退職したてホヤホヤの職場の男性社員だった。伝票百枚処理をハルコさんに命じた、彼。ハルコさんは脳内で市原悦子を登場させ「まあ、嫌だ」と言わせた。
 持ち帰ったのか、持ち帰られたのか。
 残業が終わったとき、部署にはふたりだけだった。送別会と言ってはナンですが、と彼が言い、ススキノの南にある、日本酒がズラリと並んだ薄暗い居酒屋のような店に行った。品が良く、盛りが少ないな、というのがハルコさんのその店に対する評価だった。おいしい料理が並んだが、食べ物としての生気というのか、勢いに欠けた印象だった。いわゆる、オシャレな店だった。いつも勤務先のラウンジや階段の踊り場でするような会話、つまり、彼が一方的に話をし、ハルコさんは福々しい笑顔を自由自在に操って応対した。そうしながらハルコさんは、彼の話に耳を傾けつつ、自分が口に含んでいる酒と肴の味の分析に集中していた。澄んだ味、とろみのある感触、口の中から喉を滑り降り、胃に到達する、至福の液体の存在。五臓六腑を通して、ハルコさんの全身を駆け巡るアルコール。遠く響く彼の声。そして、あら、と思ったら、寝転されたハルコさんの上に馬乗りになった彼が、神妙な顔でハルコさんを見つめていた。内容を覚えていない、ということは、ハルコさんは即座に「継続するご縁なし」と判断した、ということだろう。ハルコさんは自身と、横に寝転がる男とのこれまでをそう解釈した。
 枕元にあるデジタル時計は、まだ寝ているべき早朝であることを示していた。正社員の男の子は、ハルコさんの見立てによれば、朝九時までは確実に起床しないコースで深い眠りに入っていた。ハルコさんと性交渉を持つ多くの男性が、行為のあとは爆睡まっしぐらになった。ハルコさんにとって、実に四年ぶりの性交渉だったが、この彼も眠りの底に深く、確実に没入していた。
 身体に感じる他人の温かさが惜しい感じも少しあったが、ハルコさんは気配を消してベッドから抜け出し、トイレで用を足し、浴槽に湯をためた。湯がたまるまでの間に、歯を磨き、クレンジングで化粧を落とした。ハルコさんにとっては性交渉と同じく久しぶりのラブホテルだった。ハルコさんは嬉しかった。ラブホテルが大好きなのだ。ラブホテルに限らず「ホテルはラグジュアリーからラブまで」というのがハルコさんの好みの基準で、泊まったからには、自分なりに採点をしてみたり、お気に入りリストを更新した。
 ハルコさんは、ホテルの中でも「ラブホテル」は別枠だと考えている。大人のためのテーマパーク、とさえ思うことがある。すべてがエンターテインメント。すべてがゲストのために。
 クレンジングのパウチを破きながらも、洗面台にズラリと並んだアイテムを眺める。大風量のイオンドライヤー、くるくるドライヤー、ヘアアイロン、男性用のヘアムースや女性用のいろいろ。基礎化粧品も二種類用意されている。ギャル向けの多機能なものと、オーガニックがウリのものと。ハルコさんは福福しくニヤけながら毒づく。すかしてていけ好かないハンパなアッパーミドルランクのホテルなんかクソ、と。着替えを入れる箱と、バスタオルがひとり二本。この至れり尽くせり感と、非日常感。ホスピタリティと下世話。コストパフォーマンスの高さ。それがラブホテルの魅力。
 ハルコさんはゆっくりと湯に浸かる。入浴剤はソープタイプのものと、ソルトタイプのものがあった。ソルトタイプはクナイプだったので、一瞬持ち帰ろうかと思ったが、今日、ここで使うことにした。いい匂いのする温かな湯の中で、ハルコさんはようやく脚を、全身を伸ばし、深呼吸できた。
 昨日、会社を出たのは夜の八時半を少し過ぎた頃だった。それからはプライベートタイムだったが、ハルコさんの感覚としては、サービス残業のようなものだった。オシャレで品のいい(肴の盛りが少ない)、日本酒のおいしいお店でごちそうになったとはいえ、ハルコさんにとってそこでの会話は、無料で行うカウンセリングと、ヒーリングのようなものだった。楽しい時間だったし、お酒もおいしかった。それでもおそらく、正社員の彼が癒され、生気を取り戻したのに比べると、プライベートタイムが削がれた分、ハルコさんの過剰労働だ。ハルコさんの「特殊能力」は、いつも、どうしても「売値」が低くなってしまう。何とかしたいな、と、ハルコさんは足を伸ばしながら思う。それでも、そういう思いは湯の中に溶け、ハルコさんの体内には一切残らないことを、ハルコさんは知っている。ややふっくらとしたハルコさんの身体が、筋肉が緩み、呼吸が深くなる。ようやく本当に、業務が完了し、契約が満了したのだった。

 ハルコさんは大風量のドライヤーで髪を乾かし、サービスで部屋に置いてあったミネラルウォーターを一本一気に飲み干し、目覚ましを九時に鳴るようセットし、部屋を後にした。お先に失礼します、と、ぐっすり寝ている正社員くんに念を送って。ごちそうさまでした。そう、人生はどの瞬間も、いただきます、と、ごちそうさまの繰り返しだ。
 ハルコさんはようやくタイムカードを押した気分でホテルの部屋のドアを閉め、ヒンヤリとした早朝の駅前通りに出た。中島公園から札幌駅に続く道。東の空に朝焼けの名残りがあり、これから帰宅する人と、仕事に向かう人の空気が混在した歩道を、肺いっぱいに空気を吸い込み、歩く。退職のお祝いでもらった花束と、引き上げた私物がサクサク歩くのを多少邪魔していなくもなかったが、足取りは軽かった。iPodのイヤホンを耳につけ、Playを押す。ハルコさんのiPodはクラシックで、クリックホイールタイプのものだった。ハルコさんは「指が薄い」と表現するのだが、自分はタッチパネルや自動ドアが反応し辛い体質だと感じている。iPodは何回か買い替えたが、それはどれもきちんと押しているという確証が得られるクリックホイールタイプだった。
 矢野顕子の『きよしちゃん』がイヤホンからハルコさんの耳に注がれる。シャッフルで流れてきたこの曲に「このiPodちゃん、すごい」とハルコさんは感動する。音楽ホールに響く音そのままのピアノ、切なく、力強いアッコちゃんの歌声、メロディライン、刻まれるリズム。どれをとっても、今のハルコさんにピッタリフィットする曲だった。何か、燃えるような気持ちを抑えきれず、駆け出したくなるような曲。ハルコさんにはそんな風に聴こえている。ハルコさんは、『きよしちゃん』を一曲リピートに設定した。
 地球上の札幌というポイントに立つハルコさんを、夕方にも似た朝の空と大気が、優しく抱きしめている。

 ハルコさんが札幌駅に到着したとき、構内は旅立ちの活気に満ちていた。キャリーカートを片手に、浮き足立った人たち、グレーの気をまとった中年男たち、揃いのジャージーに身を包んだ、部活の遠征と思われる学生たち。朝帰りの人たちは、何人いるのかな、とハルコさんは想像して愉しむ。昨日、セックスした人は、この中で何人いるのかな? 私のほかに、やった人、挙手! ハルコさんは群衆に心の中で軽く語りかける。
 ハルコさんのアパートは北十二条駅のそばにあり、めったなことでは彼女は地下鉄には乗らない。都心に出たら徒歩で移動する。このとき、ハルコさんは札幌駅を突っ切って自分の部屋に帰ろうとしていた。ふと、北口のコンコースの右手を見ると、ドトールコーヒーの前に旅支度をしている人たちが見えた。ハルコさんの頭上に、星が光ったのを彼女は感じた。
 朝セットを買って帰るのもいいかも。
 ハルコさんはそのささやかでステキなひらめきを実行することにした。ドトールの前に来ると、この気分のまま帰宅するのもどうだろう、という疑問が湧いてきた。荷物をアパートに置いて、どこかに行く? 違う。帰宅せずに、このままどこかに行きたかった。
 ハルコさんは店舗前のロッカーに、花束と荷物を入れ、ドトールに入った。旅立ち前の人たちに紛れ、朝カフェセットを注文し、料金を追加してカフェ・ラテのLサイズを注文した。これを持って、旅の気分を味わえるどこかに行くのだ。ハルコさんはハムタマゴサラダのサンドイッチとカフェ・ラテを受け取り、改札に向かった。
 ハルコさんのkitakaは、いつも一万円前後チャージされている。ハルコさんは改札機上の電光掲示板を眺めて、快速エアポートに乗ることに決めた。ホームに行ってみると、既に乗車口には行列ができていたが、一本見送れば、悠々と自分が座りたい席に着くことができそうだった。
 ハルコさんはお気に入りの進行方向右側の、窓の開口が大きく取られた席に落ち着き、サンドイッチの包みを開けた。電車は空港に向けて走り始めた。札幌の朝の空は明けて間もない薄い青空で、木々の紅葉は中途半端な茶色に黄色と赤が入り混じっていた。耳の中には『きよしちゃん』が延々と響き、景色がピアノを叩くのと同じ速度で流れていき、見慣れた札幌の街がハルコさんの後ろに下がっていった。ハルコさんは深く息を吐き、カフェ・ラテのカップに口を当てた。

 新千歳空港のターミナルビルに到着すると、そこは既にひとつの街のように活気づいていた。まだ朝の八時を回ったばかりなのに、無印良品が開いているのもハルコさんには嬉しかった。ハルコさんは無印良品を眺め、佐藤水産だの、立ち食いの寿司コーナーだのを眺め、じゃがポックルの店舗別の充実度をなんとなく調査し、北海道のクラフト製品を集めたショップで「もしお金がいっぱいあったら、どれが欲しいか」を検討し、JAL側のいちばん端にあるエアターミナルホテルまで歩き、達成感を得た。大きな荷物に挟まれた人たちと同じようにソファに腰を下ろし、出発便の案内放送に耳を傾けた。この日の日本は全国的に穏やかな天候なようで、天候調査も行われていなければ、機材繰りも順調なようすだった。ハルコさんは満足した。そろそろ日本上空のラッシュが始まるだろう。北に南に、ものすごい速さでジェット機が飛び交うのを想像した。私もどこかに行こうかな、とひらめいた。もちろん冗談だ。例えば札幌―東京間の二大キャリアの当日の航空運賃は、ハルコさんにとって、冬期暖房手当と同額だという認識だった。往復したら、家賃に光熱費まで賄える。だから、こういうのはイメージの中だけでいいのだ。例えば今日、私は、ふらりと東京に行く。お気に入りのホテルに帰宅するように宿泊し、東京国際フォーラムから丸ビルに向かって散歩をし、KITTEの展望フロアから赤レンガの東京駅や線路や新幹線の往来を眺めるのだ。そんなことをイメージするのは実に楽しかった。
 ハルコさんは少ない収入をやりくりして、必ず十二月の矢野顕子の『さとがえるコンサート』を見るために東京を訪れていた。羽振りのいい正社員だった頃は、月に一~二度、汐留にある東京本社に出張だってあった。銀座のコリドー街に、行きつけの店もあった。それこそ、週の頭に東京に行きたい、と思ったら、週末を東京のお気に入りのホテルで過ごす、なんてことをやっていたのだった。
 懐かしいなあ。
 ハルコさんは、しみじみそう思った。札幌にはないディーン&デルーカでサンドイッチをテイクアウトしたり、成城石井でデリのコーナーを延々眺めて、ワインとチーズとハムとピクルスを買ってホテルの部屋で一杯やりたかった。はとバスのオープン二階建てバスに乗って、レインボーブリッジをかっ飛ばし、左手に豊洲方面の、右手前方にお台場の、キラキラ光る夜景を眺めたかった。夕暮れどきの羽田空港行きのリムジンバスから、燃えるような夕焼けを眺めて、怖い、と、ゾクゾクしたかった。第二ターミナルの展望デッキの端から端までを走り抜けたり、離発着を眺めたり。川崎の工場地帯の……。
 ひらめきに従い、札幌駅から快速エアポートに乗って新千歳空港にやってきたハルコさんだった。彼女には珍しく、ノープランだった。ハルコさんはプライベートを愉しむとき、いつも何かしらのプランが先にある。それが崩れることはあっても、彼女にとって、待ち遠しい時間というのも愉しみのひとつだから、ひらめきで行動するなんてことは、もったいなくてできないことだった。
 新千歳空港に遊びに来たことは何度かある。ビアガーデンの季節には、海の幸の炉端焼きを食べながら、サッポロクラシックをひたすら飲み、温泉に入って帰って来た。空港限定のお菓子を買ったり、飛行機の離発着を見たり。それでいいはずだった。
 空港の出発ロビーの天井は、高い。ハルコさんは、ぽけーっと空間を眺めた。目の前の電光掲示板には、JALの出発案内がパラパラと表示を変えていた。ふつうの土曜日の朝のせいか、満席に近い便は多いが、満席便は少なかった。ハルコさんはスマートフォンでJALのホームページを見た。予測の通り、石炭手当(冬期暖房手当のクラシックな表現だ)と同じ価格だった。ハルコさんはディスプレイに現れた金額に、プッと吹き出した。そうだよね、だって当日だもん。しかし検索するのが面白くなり、ではLCCはどうなのだろう、と調べてみた。意外なほど高額だった。二大キャリアほどではないが、LCCと呼ぶにはハイコストだわ、とハルコさんは思った。そして新規参入組を検索してみた。ハルコさんは、ハッとした。もし、今日、札幌から東京に行くなら、スカイマークが、明日、東京から戻るなら、エア・ドゥが「程よい価格」だった。ハルコさんのこの「程よい」とは、当日だというのに二大キャリアの半額以下で、LCCよりは高額だが、成田エクスプレスを使えばLCCのほうが割高になる、という基準だ。ハルコさんは自分の瞳に星が宿るのを感じた。キラキラとディスプレイを眺めてみた。札幌発のスカイマークは十時三十分の便が、明日の東京発のエア・ドゥは二十時十五分の便がハルコさんを誘っていた。この組み合わせが席を確保でき、最安値、かつ、羽田空港の第一・第二ターミナルを楽しめるプランだった。
 ハルコさんはJALの電光掲示板を眺め、決意した。
 スカイマークのカウンターに行き、便の手続きをした。札幌駅のロッカーに入れた花束のことを思うと、一瞬、心がチクンと傷んだが、入れたロッカーの場所と季節を考えたら、明日の帰札まで大丈夫だろうと予測し、無事を祈った。ハルコさんはそのままエア・ドゥのカウンターに移動し、帰りの便を予約した。
 やっちゃった。
 あーあ、やっちゃった。
 ハルコさんは、自分のやんちゃさに笑いがこみ上げてきた。ばーか、ばか、ばーか。クククク。ホント、ばか。
 ハルコさんは唇を噛んで笑いをこらえながら、エア・ドゥのカウンター前のソファに腰を下ろし、またスマートフォンのディスプレイを眺めた。ホテル名を入れて検索し、少し考えて、いつも眺めている「一休.com」や「楽天トラベル」ではなく、ホテルの公式サイトをタップした。代表番号に電話し
「東京タワーとスカイツリーが眺められるコーナーキングのお部屋はありますか? 今日、なんですけど」
 と訊いてみた。
 電話の向こうからは「申し訳ございません」の「も」が聞こえ、言いよどむ様子が伝わってきた。そりゃそうだ。土曜日の夜にあの部屋が空いてるはずがない。最初、電話の相手は機械的に断りの言葉を言うはずだった。だが、予約管理の端末を叩いてみると、違う結果が表示されていたようだった。
「お客様、本日、コーナーキングのお部屋、一名様、でございますね?」
「はい、そうです」
「……えっと、東京タワーとスカイツリーが見える」
「3417号室だったかな。何年か前に一度泊まって、よいお部屋だったので、ぜひまた泊まりたくて。これから急に東京に行くことになったものですから、どうかなって」
「……先ほど、キャンセルが出まして、お客様のご希望のお部屋は、本日、ご用意できます」
 ハルコさんは、おかしくて叫び出しそうになったが、そのまま大人みたいに続けた。
「では、予約をお願いします」
 通話を終えたハルコさんは、一連の振り絞り続けた勇気ある行動を思い、笑う代わりに、大きな深呼吸をひとつした。

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