見出し画像

re:9日目 (体験談~美術鑑賞と私の知ってるある人のこと)

彼はまるで、人間に反感を覚える椅子のようだった。私に沿って形を合わせないものは許さない。。人の道理を学んだ彼はまるで野良猫が人に愛されないまま自力で社会に順応してきたようで、やはり独特な面影をしている。人に合わせようとするが、ある時破裂して怒りが爆発してしまう。私はその様子や状態を実際に彼と知り合って幾度か経験してきた。真面目で冷徹な印象を周囲に放つ彼だが、誰に向けても許されない蟠りは私の非常識な言動を起点にし突発的な怒りを湧き出さずにはいられなかったのだ。
 「私に座るな。ふざけるな。早く立ち去れ。」まるでそう言わんばかりに
人を寄せ付けない椅子。。背もたれのない紺色の丸みな椅子は公園の鉄棒ののように鮮やかな青で塗られ、大きい目が二つ、丁度腰を下ろす面に彫り込みがある。まさにアニメで登場しそうな人を良く思わない喋る椅子だと思った。

 私は今日名古屋のある展示を見に行っており、上記は実際に座った時の感想である。五つ無造作に並ぶ中で二つ座ることができたが、第一印象の「そこにあるのか」という大きな目や、近づくものの姿を写すので椅子に見定められるような感覚に慄いたのと、凹んでいるせいで座り心地がとても悪かった、という3点が理由で1分足らずで立ち上がることになった。
   この展示は様々な椅子によって表現した多様なアーティストたちの心象を受け取れるもので、私はそれら作品を通して先に話した彼の作る作品と根底にあるであろう表出欲求たるものを考えていた。"かれこれ40年生きてきた間ずっと社会や一般人間への反抗欲求を抑えてきた。生きるために人間の正義たるものを学び、頑なに手本を見出し目標を明確にしてきた。大量のエネルギーの全てを仕事に置き換えてきた。" まず思いつくのはこの三つ。最初会った時から説明不可能な違和感を覚えた記憶が色濃いのだが時間の経過とともにやはり彼は並々ではないと言う気持ちが数えきれない。少なくとも彼と関わった私だからそう言い切る。まだ核心に迫り切ったとも言えない。正直いうと核心に迫り切る自信がない。


途中、映像の展示があった。そこにはご高齢の方達が50名ほど、椅子の並べた芝生の上で歌を歌ってダンスで身体を揺らしてリズムに合わせている。並んで決められた椅子の後ろについた彼らは椅子を上下に揺らしながら目を瞑って歌い続ける。彼らは、ここにいないものをここにいるものとして椅子の後ろに立ち、誰も座ってない椅子に魂が宿るかのように自分たちの衰えた身体を励ましていたのだった。私はその映像を見ているとき心臓が揺すぶられるのを感じた。内側からものすごい熱が湧き出しじわじわ温められていくのだった。映画を見た後の感動とも違い、もっと深いもの、生命を感じる、そんな感じだった。 きっと今日の展示の映像を見なければ誰も座っていない椅子に心動かされるなんてわからなかったと思う。


彼は空間芸術家としても活動しているのだけれど、まず空間に一つの椅子を置くところから製作を始めその椅子に座る人を感じるらしい。もっとも彼には幻覚があり病院に行ってないからもう治らないと思うとも聞いている。人間の日常の中で培われてしまった傲慢さ、それはあえて問われなければ気づかないようなもの。でも彼は、同じ人だけれど、椅子のような不遇のせいで芽生えた精神により誰もが気づかないようなことをとうに作品作りへ生かしていたのだった。それも身体中に覚悟の印を刻みながら。何度も人に裏切られながら。私は椅子が彼を支えていたと言っても過言ではないとまさに今日こそ思う。


今回の展示のおかげで空っぽの椅子で心熱くなるのを体感することができてまだ足を踏み入れたことのなかった心象線を知見し得た。私は未だ彼の椅子の作品や空間を見たことがないけれど、実際に目にする一歩手前として彼のやってきたことが正しかったことだとわかってよかった。


以下、第4章の解説を一部引用

" 椅子がいつしか分身のような存在に変わっていく。
ぽっかりと席が空いたとき彼らの不在を示す証となるのである。"

" 椅子は、生活の痕跡、記憶を宿す場所、不在の人間の気配をまとった
幻影としてのイメージが宿る場所 ‥" 






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?