書きたい記事と読まれる記事と。
書きたい記事と読まれる記事は違う。一生懸命に書いた記事より、思い付きで書いた記事のほうが読まれることもある。
読まれる記事とはどういうものか?
思い付くままに列挙する。
読まれる記事(スキとかビューが多い記事)
①noteに関する記事。
②人の悪口が書いてある記事。
③写真だけの記事。
④企画などに参加した記事。
⑤コングラ届きました、の記事。
⑥誰々に紹介されました、の記事。
⑦今日誕生日です、的な記事。
…と自分でも書いてしまうのだが…
読まれない記事。
例えば、、、。
読まれない記事
①長編小説。
②専門的な記事。
③音声配信。
etc
私は「読まれる記事」より、「書きたい記事」を書きたい。
noteについて書くこともあるけど、書きたくて書いてるというより、書かざるを得ない場合に書いたり、なんとなくアイデアが浮かばない時のつなぎで書いたりしている。
たぶん、「読まれる記事」だけ書いていれば、もっと読まれるだろうけど、それに頼っていると、本当に自分が書きたいことを書けなくなるような気がしている。
それに加えて、noteでnoteの記事を書けば、ある程度読まれるのは当然だから、スキやビューが多くても嬉しくないんですよね。
まわりに迎合したような「差し障りのない言葉」の記事には、スキを押しやすい。「誕生日です!」という記事なら、「おめでとう🎉」とコメントを書きやすい。たまには、そういう記事もいいけど、面白くはないし、フォロワーでもなければ読んでも「あ、そうですか」で終わる。
「読まれる記事」を書くことは、読む人が多くなる代わりに、自らのアイデンティティを犠牲にする。繰り返していると、「そもそも私はなんのためにnoteしてるんだろう?」という、自分の感じる虚しさに押し潰されていくことだろう。
最初の頃は「へぇ~」って楽しみながら読んでいたのに、noteでnoteのことについて書く「ドーピング」を多用して、つまらないアカウントになったものも多い。
他人から反発されるようなことを書けば、一時的にフォロワーが減ったりもする。だが、逆説的に言うと、そういう「反発の多い記事」を書いてもなお読みつづけてくれるフォロワーを残し、ただ迎合している人を振り落とすことでもある。
「書きたい記事」と「読まれる記事」。どっちもあっても良いけれども、「読まれる記事」ばかり書いても、書き方は上達しない。むしろどんどん下手になっていく。型にはまったことしか書けなくなるか、人の悪口を言うだけのアカウントになり下がる。
どちらか1つを選ぶなら、やっぱり「書きたい記事」を書いたほうがいいんじゃないの?、って思う。
毎日投稿して、それなりにスキやビューがあったとしても、noteでnoteのことを毎日書くのはいかがなものか?
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