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短編小説 | 追憶(再)

(1)
 突然のことだったから、この一年は、じたばたしてばかりだった。もう用済みになってしまったものは、おおかた処分が終わった。
 しかし、箪笥の一番奥にしまってあった、昔、夫が私に買ってくれた服を、今、私は処分することが出来ないでいる。

(2)
 彼と最初に出会ったのは、もう30年以上も前のことだ。自慢ではないが、私は人並み以上の容姿を誇っていた。しかし、今をときめく大女優には、到底及ばないことを自覚していた。
 容姿で上をいく人がいるのは、仕方ない。上には上がいる。しかし、そのギャップをそのまま放置することは、女を捨てることなのではないか?
 天然の見た目で劣るのならば、せめて、なるべく素敵な服を着て、きちんとメークする努力を怠ってはならない。
 あえて口に出して言ったことはなかったけれど、心の中では、いつもそう思っていた。
 同じようなコスメで迷ったときには、あえて高いものを選ぶ。同じような服も、安いものと高いもので迷ったら、あえて高いものを選ぶ。自分の眼力だけに頼っていたら、安い女になってしまうような気がして。

(3)
 素敵な服をいつも着ている彼に心をひかれたのは、そんな頃だった。
 はじめて彼とデートするとき、私はいつも以上に気合いをいれて、服を選んだ。上と下のコーディネート、履いていく靴との色合い。行く場所と服との適宜性。出掛ける直前まで、ずっと悩んだ。  
ようやく「これだ!」という組み合わせが決まって、家を出たときには、すでに約束の時間を過ぎているほどだった。

(4)
 すでに私の家の近くで待っていた彼は、私が遅刻したことにはいっさい触れることはなかった。そして、一言こう言った。

「今日の服、エミによく似合っている。いつもかわいいけど、今日は気軽に声をかけられないくらい綺麗だ」

 私は彼の言葉がとても嬉しかった。いろいろ考えた甲斐があったなぁ、と心底嬉しかった。それ以来、しばらくの間、彼とのデートのときは、多少遅刻してしまうことがあっても、妥協することなく、納得のいくまで、どの服を着ていこうかと考える日々がつづいた。

(5)
 ある日、私はまた、いつものように、彼とのデートに遅刻した。そのときの彼の様子は普段とは異なるものだった。

「エミ、ずっと待っていたんだけど。今日は早く来てほしかったんだ。どうして遅れてきたの?」

「だって、はじめてのデートのとき、私の服をすごく褒めてくれたでしょ?いい服を着ていたほうが、あなたが喜んでくれるかなぁと思って」

「そっか。オレ、あまり見た目は気にしないんだよね。服だって、それなりに清潔感があって、それなりに似合っていれば、特にうるさく言うつもりはないんだけど」

(6)
 私はショックだった。今までの努力はなんだったんだろうかと。
 中学三年のとき、はじめてプラダの服に袖を通したときの感動は、今も忘れられない。服ひとつで、人間の心の在り方がこんなにも大きく変化するなんて。
 それなのに「服なんて、清潔感があればいい」だなんて。

(7)
 その後の経緯は、話が長くなるので省略するけれども、「服」に関する考え方以外では、彼をとても尊敬していた。また、彼のほうも、年上らしく、いつも私のわがままを聞いてくれた。
 私たちは、子どもに恵まれることはなかったが、およそ30年間、一緒に連れ添い、幸せな日々をおくることができた。
 しかし、不幸は突然やって来た。夫は白血病だと告知されてから、わずか一年後に他界してしまったのだ。

(8)
 いま目の前に、ずっと前に、彼が量販店で私に買ってきたピンク色の服が一着残されている。
 ロゴの入った量販店の袋を見ただけで、私は「いらない」と言ってしまったことがあったのを思い出した。
 その頃は、お互いに仕事が忙しくて、ゆっくり話をすることがなかった。

 今更ではあるが、私は袋を開けてみた。そこには、夫が量販店で買った、私が大好きなピンク色の服があった。
 はじめて袖に腕を通した。あまり高いものではないが、私によく似合う服だった。そして、服の入っていた量販店の袋を捨てようとしたとき、もう1つ、プレゼントが入っていることに気がついた。
ピンク色の服ととてもよく似合う、プラダのピアスがそこにあった。涙が止まらなくなった。


[終]
 
 

記事を読んで頂き、ありがとうございます。お気持ちにお応えられるように、つとめて参ります。今後ともよろしくお願いいたします