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水が流れていない川!?「蛇尾川」(さびがわ)

きょうは雨が降っています。雨が降ると古墳が気になる、と以前エッセイ記事を書きました。

今日も川沿いの古墳が気になるところではありますが、「川」の連想から、「蛇尾川」を思い出しました。

今から7年程前、「ブラタモリ」の影響もあって、様々な「地形」に興味を持ち始めたころ、図書館に置いてあった「地学辞典」で、水無川「蛇尾川」(さびがわ、「じゃびがわ」と呼ぶ人もいる)の存在を知りました。

同じ7年前の頃、古墳にも興味をもった私は、「古墳探訪記」(No1~No5)という私家版ノートをつくっていました。ずいぶん長い間ほったらかしにしていたのですが、先日部屋を整理しているときに「再発見」したので、それをもとに記事を書きます(なので情報は7年前からアップデートされていないので、その積もりでお読み下さい)。

「蛇尾川」は、栃木県にある「千本松牧場」近くで、いわゆる伏流水となっています。

一見しただけでは「川原」のようにしか見えません。しかし、その「川原」の下を大量の水が流れています。

私は2014年8月、千本松牧場の「松方邸」(日本史にも登場する蔵相・首相を務めた「松方正義」の別荘)を見学した後、蛇尾川ほとりにある「会津中街道一里塚」(あいづなかかいどういちりづか)に車を止めて、蛇尾川見学へ向かいました(一里塚には車が2~3台止められます)。

多少わくわくしながら、細い道を抜けるとそこに「那須疎水蛇尾川サイフォン出口」の看板がありました(写真参照)。

サイフォンの看板を撮影したあと、お待ちかねの「蛇尾川」とご対面!!⤴️

が、そこにあったのは、ただ、ひたすら広がる川原だけでした⤵️。

と、ここでお話を終わりにしても良いのですが、折角、「一里塚」に車を止めたので、撮影した「一里塚」の看板に書かれていたことを、そのまま記しておきます(ノートに看板内容を書き写したあと、写真は消去してしまいました)。

◉現地看板
会津中街道は、1695年(元和8年)に自然災害で通れなくなった会津西街道にかわる道としてつくられました。全長128kmで、福島県の会津若松から県境の大峠(おおとうげ)・三斗小屋・板室(いたむろ)、そしてこの地の横林を経て、矢板・氏家の阿久津河岸に至っています。会津藩の廻米(かいまい)[江戸などに運ばれる米]輸送などに使われた道で、会津街道、会津東街道、会津北街道などとも呼ばれ、横林宿には物資の中継ぎなどを行う問屋が置かれていました。
一里塚は、江戸時代に一里(約4km)ごとに街道の西側に築かれた塚で、その上にエノキやマツなどが植えられました。旅人の目安であり、休息の場でもあったようです。横林の一里塚は地域の農村景観を形づくる貴重な文化遺産であり、江戸時代の廻米輸送の歴史を物語っています。
・会津西街道:会津藩の廻米輸送は、会津中街道がつくられる前は会津西街道やその他の道を利用していました。ところが会津西街道は、1683年(天和3年)の日光大地震によって葛老山(かつろう)が崩れ、川をせき止めてできた五十里湖(いかりこ)によって通行できなくなりました。
・五十里湖(いかりこ)
五十里湖は、江戸日本橋から50里の距離にあることから呼ばれたといわれ、1723年(享保8年)に大雨で決壊します。五十里ダム建設後にでけたダム湖も五十里湖と呼ばれています。


◉余談ですが・・・
栃木県と福島県の県境を越えると、白川市に着きます。白川藩は、あの「松平定信」が治めていたところです。
南湖公園、白河関、白河ハリストスの教会などが近いです!

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