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短編小説 | 顔自動販売機
毎週日曜日恒例・たらはかにさんの「#毎週ショートショートnote」。今週のお題は「#顔自動販売機」。
毎週応募している。今週はどんなショートショートを書こうかと考え始めた。
しばらくしたら、今度は池辰彦さんの記事がタイムラインに現れた。
記事を読んでみると、1日あたり、メイクにどのくらいお金がかかっているのか、ということを数字として捉えるという内容だった。
メイクということをテーマにして、ショートショートを書く✏️のもありかもね、なんて思ったのだが、普段メイクをしない私には書けそうもない。ショートショートの締め切りまで一週間あるから、ゆっくり考えることにしよう… …
しかし、顔について、どんなことを書けばよいのだろう?
「顔」という言葉から思い浮かんだことをつれづれに。
リルケ「マルテの手記」
大山定一[訳](新潮文庫pp11-12)
僕は顔というものがいったいどのくらいあるかなど、意識して考えたことはなかった。大勢の人々がいるが、人間の顔はしかしいっそうそれよりも多いのだ。
一人の人間は必ずいくつかの顔を持っている。長い間一つの顔を持ち続けている人もある。
(中略)
それと反対に、無意味なほど早く、一つ一つ、顔をつけたり、はずしたりする人々がある。自分ではいつまでも顔のかけがえがあると思っているらしい。しかし40歳になるかならぬかで、顔はもうこれが最後の一つになってしまう。
🤔40歳で「ラストマスク🎭️」👀❕
リルケ説が正しければ、もう私にはスペアの顔はない。
和辻哲郎「面とペルソナ」
坂部恵[編]、「和辻哲郎随筆集」(岩波文庫、pp21-22)
問題にしない時にはわかり切ったことと思われているものが、さて問題にしてみると実にわからなくなる。そういうものが我々の身辺には無数に存している。
「顔面」もその一つである。顔面が何であるか知らない人は目明きには一人もないはずであるが、しかも顔面ほど不思議なものはないのである。
我々は顔を知らずに他の人とつき合うことができる。手紙、伝言等の言語的表現がその媒介をしてくれる。
しかしその場合にはただ相手の顔を知らないだけであって、相手に顔がないと思っているのではない。多くの場合には言語に表現せられた相手の態度から、あるいは文字における表情から、無意識的に相手の顔が想像せられている。
それは通例きわめて漠然としたものであるが、それでも直接逢った時に予期との合不合をはっきり感じさせるほどの力強いものである。
いわんや顔を知り合っている相手の場合には、顔なしにその人を思い浮かべることは決してできるものではない。
絵を眺めながらふとその作者のことを思うと、その瞬間に浮かび出るのは顔である。友人のことが意識に上る場合にも、その名とともに顔が出てくる。
もちろん顔のほかにも肩つきであるとか後ろ姿であるとかあるいは歩きぶりとかというようなものが人の記憶と結びついてはいる。
しかし我々はこれら一切を排除してもなお人を思い浮かべ得るが、ただ顔だけは取りのけることができない。後ろ姿で人を思う時にも、顔は向こうを向いているのである。
レヴィナス『全体性と無限』
(「改訂版 倫理用語集」山川出版社、p269より孫引き)
耐え忍ばれた侮辱は、それが<他人>の顔を通して、私を見つめ、私を告発するとき、私への裁きとして生起する。耐え忍ばれた侮辱、異邦人・寡婦・孤児という存在こそが、<他者>の顔のあらわれだからである。
ほかにも、
三島由紀夫「仮面の告白」、
安部公房「他人の顔」、
美内すずえ「ガラスの仮面」など、
パッと思いつくだけでも、「顔」というものをテーマにした作品は数多くある。
さて、私が「顔」というものをテーマにして何かを書くとしたら、いったい何をどう書けばよいのだろう?
「顔」という言葉から脳裏に浮かんだ作品はすべて名作ばかりで、私が付け足すものはなにもないのではないか?
顔。
意味を知らない者は誰もいないが、奥深いテーマである。
おしまい
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