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短編小説 | 最愛


 彼女が死んだ。最愛の女が死んだ。
 僕は彼女の死を受け入れるために、長いの時間を必要とした。今でも心底受容できているわけではない。

 医者が「ご臨終です」と言ったあとも、ずっと何かの間違いだと信じて疑わなかった。

 病室から自宅に彼女が届けられたとき、「お帰りなさい」とつぶやいた。もともと色白だった彼女は、「ご臨終です」と告げられたあとも美しいままだった。
 僕は彼女の額から首筋へと指を滑らした。彼女を初めて抱いたときとまったく同じ感触が僕の体を満たした。指先にひんやりとした冷気を感じたが、真冬だからちょっと冷えただけなのだろう。

 彼女と二人きりの部屋で、僕は彼女に添い寝した。彼女にキスをして、彼女の胸の膨らみを感じる。彼女と指を絡ませながら一晩中愛撫しつづけた。

 2、3日過ぎたあと、葬儀屋が彼女を引き取りにきた。彼女は死んでいないのだが、医者に臨終を告げられたあと、一言も発することはなかった。

「とりあえず、火葬しなくてはなりません」

 「何を言ってるだろう?」と思い、「やめてくれ!」と僕は叫んだが数人の者たちに羽交い締めにされた。気がついたときには、僕は病院のベッドに寝ていた。

「彼女さんのご遺体は火葬されました」

「火葬だって?燃やしてしまったのか!」
 僕は怒りに震えた。

 それから1年が経ち、今僕は彼女の墓の前に立っている。彼女は生きている。にもかかわらず、肉体は失われて、彼女は骨壺の中に入っているのだろう。

 何度か確かめようとしたが、いつも「もうあなたの彼女は亡くななりました」と主張する者たちによって制止された。きっとみな僕のことを、彼女が死んだショックで頭がおかしくなったのだと誤解しているに違いない。「おかしいのはお前らほうだ」という僕の主張はことごとく否定されつづけた。今しばらくの間は、彼女と二人きりになることは出来そうにない。いつも僕のまわりには監視する者たちがいるから。

 やむなく僕は、監視の者たちが僕から離れていくまで待つことにした。最愛の彼女が僕を残して死ぬなんてあり得ないことだから。僕が生きている限り、彼女が生き続けていることは、間違いのないことだから。

 彼女が墓の中に眠ってから3年が過ぎた。僕を監視する者がようやく誰もいなくなった。彼女と二人きりの時間を作るために、誰にも彼女のことを話さないように気をつけたことが実を結んだ。そろそろ彼女と二人きりで会うことが出来そうだ。僕は彼女の墓へ出掛けた。

 真夏の暑い日だった。天気の良い夏至の日だった。7時半をまわっていたが、辺りはまだ明るかった。1人で家を出て、てくてくと数時間かけて彼女の墓へ歩いていった。明るいがこんな暑い日にブラブラ歩いている者は僕のほかにはいなかった。
  
 小一時間歩いて、彼女のいる霊園にたどり着いた。この場所を訪れるのは、久しぶりだった。
 山の一部を切り崩したところに作られた霊園の上から三段目、右から五番目の場所に彼女の墓はある。数十の群集墳が殺風景な霊園のランドマークの役割を果たした。迷うことはなかった。

 彼女の墓の前に立った。

「待たせたね」と僕は声をかけた。返事はなかった。辺りには誰もいない。僕は墓石の下から骨壺を取り出そうとしたが、開け方がよくわからなかった。

 その時、花瓶の下に一通の封書があることに気がついた。暗くて何が書いてあるのかわからなかったが、僕は僕宛の手紙であることを直感した。

「ちょっと明るいところに行って、君の手紙を読んでくるね」と語りかけたあと、街中の公園へ向かった。

 手紙にはこう書かれていた。

「あれから3年が経ちましたね。早いものです。私はずっとあなたがここにやってくるのを待っていました。私は3年前に肉体を失いましたが、けっして死んだわけではありません。今でもいつでも、心はいつもあなたに寄り添っています」

 やはり僕は間違っていなかった。彼女は生きている。僕は続けて手紙を読みつづけた。

「こんなにも私のことを愛してくれるのは、あなた以外にはいません。これから先もきっとあなた以上に私のことを愛してくれる人は現れないことでしょう。ただ、肉体を失うと、なかなかあなたのもとへ出向き、話しかけることが難しくなりました。だから、これからは私の墓のもとへ手紙を置いておくことにしました。天涯孤独な私の墓を訪れる人は、今ではあなた以外にはいません。また気が向いたときにはいつでも、私のもとへ来ていただけると嬉しく思います」

 それから、彼女の待つ墓へ頻繁に訪れるようになった。いくたびに墓前に必ず彼女の筆跡で書かれた手紙が置いてあった。

「今日も暑い中、私を訪ねてくださりありがとうございます。五年前の夏、あなたと手をつなぎながら湖畔を歩いたことがありましたね。今でも、まるで昨日のことのように、懐かしく思い出します。肉体を失ってしまったことで、あなたをじかに感じられなくなったことは痛恨の極みです。けれども、あなたがこうして私のもとを足しげく訪れてくださることはこの上ない幸せです」

 このようにして、彼女が肉体を失ってしまったあとも僕たちの交際はつづいた。
 僕は彼女との交際について、まだ誰にも話していない。話してしまえば、「そんなことは何かの間違いだ」とか「肉体のない彼女がどうやって手紙を書いているんだい?」とか、くだらないことを言って、僕たちの交際を邪魔する者が現れることは明らかなことだから。
 
 死者にも不滅の魂があることを信じている者さえ、死んでしまった人間は何も語ることが出来ないと信じてしまうのは何故なのだろう?

 生きていることと死んでしまうことに、そんなに大きな違いがあるだろうか?

 肉体を失うことをもって「死」と言うのならば、僕の彼女は死んでいるのだろう。しかし、彼女は明らかに僕の言葉を聞いている。そして、肉声ではないけれども、僕が彼女の墓に行くたびに、手紙を残していてくれる。意志疎通ができるから死んでいると誰が言えよう?

 いつしか、肉体を持っていた彼女と過ごした時間よりも、「文通」による彼女との付き合いの時間のほうが長くなっていた。彼女が肉体を持っていた時の思い出よりも、墓前に置かれた彼女の文字による思い出のほうが多くなっていた。

「私が文字だけの存在になっても、私と付き合ってくださるのは、とても嬉しいことです。こんなにも私は愛されていたんだなって。そう思うと、今はありもしない瞳から、涙がこぼれてくるように思えます」

 僕は手紙を読んだあと、彼女に語りかけた。

「泣いてもいいんだよ。泣きたいときは。思いっきり泣いてごらんよ。涙が流せなくたって、僕は君の涙を感じることが出来るからさ。また、必ず来るね。今日は遅くなっちゃったから、このまま帰るね。明日も来るよ」

 その時、ポツポツと雨が僕の頬に当たった。

 肉体を失った彼女は、いつまでも変わらなかった。姿こそ僕の前には現すことはなかったが、20年経った今でもなにも変わることはなかった。

 しかし、肉体を持つ僕は、しだいに歳を感じるようになっていった。今も昔も彼女への愛情はなにも変わっていないが、体力的な衰えを感じ始めていた。

「ねぇ、あの時のように、私のことを抱きしめてくれないかしら?」

 その日の手紙には、それしか書いてなかった。

「もちろんだよ。でも、どうすればいい?君にはもう肉体がないんだろう?」

 その時、私は明らかに彼女の肉声を聞いた。

「あなたも私の世界へ来ればいいのよ。そういえば、あなたは長い髪の毛の私が好きだったわね」

 私は背後から、何か私の首のまわりに巻き付いてくるのを感じた。
 この懐かしい香りは、彼女のものに相違なかった。

「苦しい?ちょっとだけ我慢してね。あなたはもう少しで、私のことを抱きしめられるようになるから」

 僕の意識は次第に遠のいていった。








 


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