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二色の花、春と桜 【短い小説】

 台所で濃い目のブラックコーヒーを淹れると、作業場兼リビングの部屋へ戻る。アロマディフューザーからもくもく吐き出される、草っぽいような水っぽいような蒸気が彼女を包んでいる。変な重ね着の仕方をした部屋着はなんだかドレスのよう。頭を抱え、布団に転がっている様子を見ると、なんだか今にも消えそうな気がしてくる。
 たまに、あぁとかうぅとか呻っている。
 焦げ臭い攻撃的な匂いのするカップを作業机に置くと、あちら側との間に匂いの壁を作った気になる。ヘッドホンを着け、パソコンモニターに向かい、神経を集中させて音の最終チェックを行うと、機械的に身体に覚え込ませてある工程を注意深く踏んで、今日必要な分のデータを作成し終える。そのまま残りの雑務を終えると、モニターを消灯した。

 無意識にコーヒーを一口啜り、低く唸り声を上げて脱力した。背中でするすると彼女が頭を上げる気配を感じて、安堵する。
 話しかけるべく振り返えろうとした瞬間、携帯にメッセージが来た。親しくしている女からだった。私が昔関わったアマチュアのグループが企画していたプロジェクトで、彼女がボーカル、私が音響系のメンバーの一人として呼ばれたのがきっかけで繋がった人だ。
 無機質で刺々しくてだけれども鮮烈で、身体の奥深くに隠し持った氷のナイフを声に乗せて投げてくるみたいに彼女は歌う。抗い難い魅力で聴き手を引き込んでくる人だった。
 メッセージには、愚痴なのか、なんなのか、よく分からない音楽論めいたものが延々綴られている。読んでいると、眉間にしわが寄ってくる。少し考え、音楽論のようなものに対する私の素直な回答と、幾らかの体調への気づかいを入れた返信を程々の長さで返し、それから携帯を放った。

 ため息をつく。

「おつかれ?」
 ぬるりとした舌足らずな喋り方をして、彼女が這い寄ってくる。ふわっと視界が白んだような気がした。
「飯食いに行こう」
「お味噌汁あるよ」
「ニンニクとラーメンがいい。花月」
「わたし激辛にして食べよう」
 彼女がにこりとして、それからふふふっと声を出して笑った。私は椅子から身体を下ろすと、彼女と同じ目線まで身体をかがめ、それから頬をきゅっと上げて笑うと、乱れた黒髪の張り付いた青白い左頬をぶった。

 うっと呻いて彼女の身体が倒れる。胸ぐらを掴んで起こし、首に噛み付くと、ひゅうっと身体を弛緩させるのが分かった。それから私の耳元で、
「優しいから」
と小さな子供みたいな変な言い方で、虚ろに呟いた。首から口を離してもう一回ぶつと、倒れた彼女に覆いかぶさってまた首に噛み付いた。
「死にたいよう。死にたいよう」
「そんなこと、いうな」
 私がたしなめると、突然笑いながら私に絡みついてくる。それから何か言いたそうに耳元に口を近づけて来て、でも逡巡する。
 頭の後ろに手を回して、撫でてやる。

 二人の色が消えそうな気がした。ふたりは、赤と青の、滅ぶときはきっとそれはそれは美しく散るだろう、ちっちゃくて惨めな見てくれの花。私が赤で、彼女が青。……逆かもしれないけど。
 それが、鈍色とも透明ともつかない世界に辿り着いて、散ることも新しく生まれることも無く、ただ静止してしまうような、そんなイメージに襲われる。

「行こう。腹へった」

 お互いが、軽く身だしなみを整える。

 二人で玄関に行き、それぞれがくたびれた自分の靴を履こうとすると、下駄箱の上に置かれていた彼女の祖母の形見だという古びた犬の人形に、彼女の右手が当たった。そのまま床に落ちて、こつんこつんと跳ねた。彼女はそれを、子供がいたずらの跡を隠すみたいに、さっと足で隅によけた。
「大切じゃないの」
 そう尋ねる声が震える。
 お互い目を合わさない。

「月、出てる」
「出てるなあ」

 二人並んで夜空を見上げながら歩く道はもう春で、桜の花が咲き始めていた。
 ふと、桜の木の下に人がいるのが、気になった。
 彼女もその人を気にしている気配がした。そしてなぜか私の腕に絡みついてくる。
「人、いんじゃん」
「今どきだれも気にしない」
 恥ずかしいじゃんか、という言葉が喉の奥に引っ込んでいった。本当はわるくない。女同士で、なんて厭な目をされる事も、最近いくらかだけれども減った。夜だし……。
 桜の下のあの人は、男か女か、なんでか凄く気になりだす。髪の長さも服装もどっちつかずで、よく分からない。じっくり見てみるとなんだか不思議な雰囲気の人。
 しばし桜の木を見上げ、それから地面に目を落とし、不気味なくらいじっとしていたかと思うと、ゆらりと頭を上げ、私の目を見据えてきた。突然頭をガツンと殴られたような気がしてよろめいた。

 見たな?
 わたしと会えるのを、知っていただろう?

 ……そう言われてるような気がした。

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