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痛みと傷みと悼み(2024年 #03)

2024.08.07

傷というリアリティ

私たちにとって、真にリアルなものが何か考えた時、そのひとつには「傷」や「痛み」がある気がする。私の身体に刻まれた「傷」、強く感じ取られた「痛み」、それらのグロテスクと強度に耐えるのは、なかなか容易なことではない。個人的な話だが、腰椎椎間板ヘルニアを発症し、動けない程の腰の痛みと足の痺れを経験した時に、私の生のあり方はいくらか変わってしまったように思う。それくらい、「傷」や「痛み」というのは、私たちにリアリティの強度をもって迫ってくるものである。

先日、広島の平和記念資料館を訪れた。そこで目撃した資料の数々は、惨たらしい傷としての「傷み」として、あるいは声にもならない「痛み」として、私に迫ってくるようであった。被爆した人々の「傷み」そして「痛み」を感受し、それに圧倒され、飲み込まれる。私にとって、平和記念資料館はそんな経験であった。

このリアリティは平和への糸口か

そこで改めて、平和を考える。
私たちは「痛み」、あるいは「傷み」、という経験を通じて、連帯し、平和をなすことはできないだろうか。他者の「痛み」「傷み」を「悼み」ながら、それを平和への道に変えることはできないだろうか。

これら三つの「イタミ」について、私はその語源を詳しく知る訳ではないのだが、これらはおよそ共通のルーツを持つ語なのだと思う。それくらい、これらの「イタミ」は、強固な繋がりを有するような気がしてならない。

感じ方に程度の差異はあれど、私たちが経験する「痛み」や「傷み」は、他者も経験し得るものである。平和への呼び声は、私たちに向けて、他者の「痛み」「傷み」を偲び、「悼む」ことを求めているはずだ。そうであるとき、私は誰のどのような「痛み」を「悼む」ことができるだろうか。親しい間柄の人、今日電車で隣に座ったあの人、広島に暮らす人たち、パリで競技する選手たち、遠くの国で今なお消えかかろうとしている声、動物や植物たち、地球。真に平和を実現させるなら、私たちはこれら全ての存在に対して、等しく「悼む」ことができる必要がある気がする。加えて、目に見える「傷」としての「痛み」だけでなく、目に見えない「傷み」にも目を向けられなければならないかもしれない。

しかし、そんなこと本当にできるのだろうか。これが、とても遠い道のりの先にある、絶望的な理想に見えてしまう自分がいることも、「痛み」と同じくらい、私にとってはリアルである。


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