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【La Pianista】⑪

第11章   譚詩曲〜ballata〜

 国そのものを半島と呼んでもいいような、地中海に突き出した長靴型の国イタリアは、海との繋がりの深い海洋国家と言えるだろう。特に北部の街、ベネチアやジェノバは、中世には強力な艦隊により二大海洋共和国として激しく覇権争いを繰り広げていた。その圧倒的な軍事力を背景に、両国は地中海貿易をほぼ独占し、商業の中心地としても栄えていた。
 カンパーニア州の州都ナポリも、ベネチアやジェノバほどではないにしろ、歴史的な港湾都市であり、海との繋がりが強い地域だ。現在でもその名残は、ソレントやアマルフィ海岸、サレルノ、ポッツォーリ、カプリ島やイスキア島など、海岸線に沿った観光名所の形で遺されている。これらの街は、全てナポリを拠点に日帰りで観光が出来る距離にあり、温暖な気候や豊富な海産物を楽しめるスポットとして、ツーリストに根強い人気がある地域だ。

 しかし、同じカンパーニア州でも、少し趣の違う地域もある。半島とは言え、海から離れた内陸部は山間地になり、オリーブや葡萄の畑が一面に広がっている。ナポリから、海とは逆方向になる東へ50kmほど進むと、アヴェッリーノ(Avellino)という山間部の小さな街に辿り着く。
 この辺りまで来ると、海洋国家の趣は消え、山々に囲まれたとても静かで落ち着きのある街並みが広がり、人々も穏やかで良くも悪くもイタリアっぽくない地域と言えよう。僅か50kmの距離とは言え、ここでは、食文化からしてナポリとは全く違う趣となる。海の幸よりも山の幸。ジビエ料理など、肉料理が沢山食卓に並ぶのだ。
 また、古のベスビオ火山の大噴火により堆積した火山灰が、この地域に肥沃な土壌を育んだと言われている。ただでさえ、昼夜の寒暖差が大きな地域の中で、日照時間が例外的に長いというミクロクリマが存在する。そして、複雑な丘陵地形による風通しの良さ。これらは、葡萄の栽培に最も適した好条件ばかりだ。必然的に、ワインの名産地としてイタリア全土に名を馳せている。
 ナポリから車で僅か一時間程度の小さな街だが、特筆すべき歴史的建造物など目ぼしい名所もなく、観光客がわざわざ足を伸ばすことも滅多にない分、地域の特性や風習が堅実に守られている。

 そんなアヴェッリーノだが、四年に一度、国の内外から沢山の人が集まり、少しだけ街全体が活気付く期間がある。マルトゥッチ国際ピアノコンクールが行われるのだ。
 その年、秋も深まる十一月下旬のこと。マルトゥッチ国際ピアノコンクールの審査員として、数年振りにアヴェッリーノを訪れたブルーノ・ロレンツォは、コンクール事務局から明後日の三次予選に進出したピアニストの名簿とデータを受け取り、目を通していた。約一ヶ月にも渡るコンクールのうち、ロレンツォが審査するのは、三次予選の一日だけだ。明日は、三次予選を担当する七名の審査員が一堂に会し、事務局より審査方法についての説明会が行われる予定だ。
 ナポリからアヴェッリーノへは、公共交通機関を利用しても片道一時間程度。自宅からターミナルまで、そして、アヴェッリーノ内での移動を考慮しても、十分に日帰りが可能な距離だ。だが、車の運転が不得手な上、電車やバスでの移動も苦手なロレンツォは、同じく審査員を務めることになった旧友と再会することもあり、久し振りの休暇も兼ね、敢えてこの地で二泊することにした。
 度々コンクールの審査員を依頼されるロレンツォだが、原則的に一日だけの審査しか請けない方針だ。今回も、一次、二次の予選、及び決勝の審査員は断っていた。なので、三次に出場する十二名が、どの様なパフォーマンスを繰り広げ勝ち抜いてきたのか知る由もなく、逆に言えば、全く先入観のない状態で審査に挑める為、気楽でもあった。と言うのも、ここまでの道程を知っていると、特定のピアニストを贔屓目に見ることは絶対にない、とは言い切れないのだ。
 例えば、一次、二次の演奏に琴線に触れる何かを感じていれば、三次の出来がイマイチでも、期待を込めて加点してしまうかもしれない。審査員にも情はある。公正さが必須だと理解しているが、出演者に評価を下すこと以上に、自らの感情を排除することはとても困難なのだ。だからこそ、教え子が出演する場合は審査員に招聘されないし、教え子に限らず、コンクール期間中に出演者と審査員が接触することも禁じられている。そういった意味においても、出演者と何の接点も予備知識もない今回の三次予選の審査は、ロレンツォにとっては精神的に取り組みやすい条件だった。
 しかし、名簿に目を通していると、否応なく、それが間違いだと気付かされた。知らない間に、接点が出来ていたのだ。つまり、出演者名簿の最後に『Megumi Higashihara』の名前を見つけたのだった。

 突然、三ヶ月前の真夏の記憶が蘇っていた。ナポリ音楽院で開催した夏季特別ピアノセミナーで、ほんの数十分だけだが、彼女と同じ空間で同じ時を過ごした。そして、その時に彼女の演奏を聴いたのだ。今でも目を閉じると、脳裏に彼女の音楽が流れ出す。それぐらい、印象的な演奏だった。瑞々しい感性と、天才的な閃きに溢れた熱演に、これは、久し振りにモノになる逸材だ……そう思ったものだ。
 しかし、演奏が終盤に近付くに連れ、暗雲が立ち込めてきた。そして、クライマックスに入ると、一気に失速した。決定的に、ダイナミクスが足りなかったのだ。
 それでも、何とか全身の力を音に変換しようと、彼女は懸命に体重を指に乗せ、ボリュームを増そうとしていた。だが、それは最もタブーな回答だ。ダイナミクスは、決してフィジカルで解決しようとしてはいけない。そう、彼女の唯一にして、最大の欠点は弾き方にあった。姿勢や運指、脱力、筋肉や関節の使い方……おそらく、幼少時の指導者に問題があったのかもしれない。基礎を叩き込む時期に、曲をどんどん弾かせたのだろう。いや、彼女が弾きたがったのかもしれないし、こういう稀に出没する天才肌の子どもは、弾かせると何でも弾けてしまうのだ。なので、指導者が判断を誤ってしまうことは、有り得る話だろう。
 いずれにせよ、この弾き方を続けると、折角の才能が開花する前に摘まれてしまう。セオリーから、あまりにも外れている。一度、リセットする必要があった。その為にも、彼女は曲を慎重に選ぶべきだし、そう提案したのだが……彼女は、ロレンツォの忠告を頑なに拒絶し、指導を受けることさえ放棄した。
 あれから、もう三ヶ月が経つ。彼女はこのコンクールにエントリーし、ここまで勝ち進んでいた。ある意味、当然とも言える。彼女の才能と実力があれば、優勝だって十分にあり得るだろう。しかし、三次予選は彼女にとって、大きな正念場になることは必至だ。と言うのも、選曲次第では何とでもなったのだろうが、よりによって三次予選で彼女が選択した曲は、あの日のレッスンと同じ曲——『巡礼の合唱』だった。

 翌朝——即ち、三次予選の前日の朝——、ロレンツォは、アヴェッリーノが誇る数少ない文化施設、チマローザ音楽院に来ていた。ここは、メグミが通う学校だが、彼女に会いに来たわけではない。明日の審査員が集まり、事務局よりコンクールの審査基準についてのガイダンスが行われるのだ。
 マルトゥッチ国際ピアノコンクールにおいて、他のコンクールと最も違う点は、低い年齢制限はさておき、マルトゥッチの作品だけという、ヴィルトゥオーゾ系のピアニズムに特化した曲しか取り上げられないことだろう。まだまだ成長期でもある二十二歳以下の学生達に、超絶的な技巧を求めることに、矛盾や疑問を抱く人も少なくない。
 だが、意外なことに、審査基準を確認すると、このコンクールでは技巧を全く重視していないことが分かる。この審査基準は、コンクール規約にも明記され、オープンにされている。しかも、出演者からのリクエストがあれば、自身の採点に関してのみ、開示にも応じている。つまり、公開されている明確な審査基準があり、出場者は自身の採点結果も確認出来るのだ。これは、裏を返せば、審査員の能力や裁量も問われていることになる。そう、審査員にとっても過酷なコンクールと言えるだろうし、それこそがこのコンクールの一番の特徴かもしれない。
 審査の項目は、表現力、拍節感、構成力、音色、解釈、ディナーミクの六項目に分かれている。これらは更に細分化され、それぞれの配点が決められていた。

【1】表現力[計25点]
 ①楽語、指示語等の正確なアナリーゼ[10点]
 ②ペダリング(技術力、表現力)[5点]
 ③曲調に見合う音量、音色のコントロール[5点]
 ④キャラクタ(ステージマナー、スター性)[5点]
【2】拍節感[計15点]
 ①テンポ設定[5点]
 ②rit、rall、accel、rubato等の表現[5点]
 ③適切なテンポの保持やブレ[5点]
【3】構成力[計15点]
 ①楽曲への理解[10点]
 ②リズム、和声、音色の設定と構成[5点]
【4】音色[計15点]
 ①pp〜ffへ、音量変化に伴う音質の統一性[5点]
 ②表現に適した色彩感[5点]
 ③曲との適合性[5点]
【5】解釈[計15点]
 ①アーティキュレーション、フレージング[10点]
 ②オリジナリティ[5点]
【6】ディナーミク(ダイナミクス)[計15点]
 ①各レンジの音質の切り替え、または統一性[5点]
 ②ディナーミクの幅[5点]
 ③クレッシェンド、ディミヌエンドの連続性[5点]

 ロレンツォは、夏に聴いたメグミの演奏を、記憶を頼りにこの採点基準に当てはめてみた。すると、⑹-②、つまり「ディナーミクの幅」以外の項目は、かなりの高得点が付く。特に、全体の四分の一もの配分になる表現力に関しては、ほぼ満点だ。おそらく、トータルでは、少なく見積もっても、85〜90点に達するだろう。
 今朝の公式ガイダンスによると、過去の大会での決勝進出者の平均点が、82点なのだそうだ。なので、ダイナミクスの弱点を抱えたままでも、彼女は決勝に進出出来る可能性が非常に高い。それに、あれからまだ僅か数ヶ月しか経っていない。根本的な欠点を修正するには、あまりにも短過ぎる。
 だからこそ、本番では下手にダイナミクスレンジを拡張しようとせず、むしろ、そこは犠牲にしてでも、他の項目で着実に加点出来る演奏をして欲しいと願った。要するに、無理せずに普通に弾けば大丈夫なのだ。
 しかし、一方では、彼女はそういった計算尽くの演奏はしないだろうと思っていた。いや、ほぼ確信していた。勿論、審査基準を熟読し、得点を重ねる為に何が必要なのかを理解する知性は持ち合わせているだろうが、そのまま理知的な演奏で反映させるキャラクタではないのだ。
 分かっていても、本能や感情に衝き動かされるタイプの演奏家なのだ。音楽の赴くままに、出すべきところはもっと出そうと試みるだろう。それは、心と身体が勝手に反応してしまう本能に近い衝動であり、脳で制御出来ないのだ。
 何とかして、今日中に彼女に会わなければ……ロレンツォは焦っていた。コンクールの審査員が、出演者にアドバイスをすることはタブー中のタブーだ。そんなことは分かり切っているが、彼女にあんな強引な演奏を、ましてや必要のない状況で続けさせてはいけない。コンクールの本番という、ただでさえ熱が入りがちな環境だ。下手すれば、ピアニスト生命を左右する怪我に繋がりかねない。

 夕方に知人と会う予定のあるロレンツォは、チマローザ音楽院の直ぐ傍のBARバールのテラス席でカプチーノを飲んでいた。イタリアの簡易的な喫茶店とも言えるBARバールでは、百円程度でエスプレッソが立飲み出来るのだが、座席を利用すると一気に何倍もの金額に跳ね上がる。その分、休憩や待ち合わせなど、寛ぐ場としては最適なのだ。
 ロレンツォは、今朝の会議で配られた採点基準の資料に目を通していた。すると、不意に若い女性に話し掛けられた。
「マエストロ・ロレンツォ?」
 声の方に目を向けると、なんとそこには照れ臭そうに微笑むMegumi Higashiharaが立っていた。
「おぉ、メグミ! 君に会いたいと思っていたんだ」
「私もです、マエストロ。夏の無礼を謝りたいと思っておりました。我儘を言って、申し訳ございませんでした」
 日本人らしく、深く頭を下げ謝罪するメグミに、ロレンツォは優しく語りかけた。
「いやいや、そんなことはどうでもいいよ。それよりも、君は、明日出演するのだろう?」
「ご存知だったのですか?」
「あぁ、私は明日の審査員なんだ。だから、本当は君と会ってはいけないし、話し合うことも禁じられている」
「すみません。でも、私から話し掛けたので、問題があるなら私の責任です。マエストロは無罪です」
「はははっ、そんなこと君は気にしなくていい。それに、私も会いたいと思っていたんだ。どっちからコンタクトしたかは重要じゃない。君は明日演奏する権利と義務がある。それだけは確かだ」
「ありがとうございます。精一杯頑張ります」
「いや、頑張らない方がいい。それを言いたかったんだ。君は、演奏に全身全霊を注ぎ過ぎる。もっと気楽に弾いても、君なら余裕で通過するさ」
 すると、メグミの表情に、少し戸惑いにも不安にも見える影が浮かんだ。
「あの……先生にも同じことを言われました。セーブして弾き通せと。でも……マエストロ、そんなことを私に助言しても大丈夫なのですか?」
「ダメだろうな。審査員失格だよ。でも、それはこちらの問題さ。君には才能があるし、ここで敗退してはいけない。勝ち進んで欲しいんだ。夏にも言ったが、『巡礼の合唱』は君のピアニズムとは合わない。その考えは今も変えないよ。でも、弾き通す技術は間違いなくある。それに、採点基準に当てはめて考えると、この曲を無事に弾き終えれば、君なら十分に決勝に行けるんだ。しかし、無理に音を出そうとして、他のバランスまで崩れると、厳しい採点になるかもしれない」
「マエストロ……ありがとうございます。私、もう行きます。誰かに見られるといけないので。上手くセーブ出来るか分かりませんが、今度はご忠告に従いたいと思います」
「あぁ、そうしてくれると嬉しいよ。健闘を祈ってる」
 メグミは、無言で小さく頭を下げ、逃げるようにロレンツォの元を立ち去った。


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