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羊の瞞し 第1章 MELANCHOLICな羊(2)

前話目次

(2)ショールームにて

 松本響が勤める会社、「ピアノ専科」のショールームは、土足厳禁になっている。その為、来店した客に驚かれることも多い。確かに、ピアノのショールームとしては珍しい様式だろう。
 しかし、日本の住宅環境では、ピアノを設置する場所の殆んどが土足厳禁のはずだ。この事実を逆手に取り、「より家庭に近い環境で音を確認していただく為、敢えて土足厳禁にしている」……そう説明するように義務付けられていた。すると、大抵の客は納得するし、感心されることも珍しくない。
 実際は、入店した客が心理的に店から出にくくなるように靴を脱がせているのだが、入店時にそのトラップに気付く人はほぼいなかった。

 月曜定休のピアノ専科では、週頭にあたる火曜日の朝、開店前に営業会議が行われる習慣があった。松本は、いつものように従業員出入口から入店した。すると、既に全員揃っていることに焦り、思わず時間を確認した。AM8:25——会議までは、まだ五分ある筈だ。
 しかし、いつもは時間にピッタリに来るくせに、この日に限り、たまたま早く着いた社長は気に食わないようだ。落ち度のない松本を睨みつけている。もっとも、こういった理不尽な仕打ちは、ピアノ専科に限った話でもないだろうが。

「松本も来たし、始めるか」
 社長のさかき昭人が口を開いた。
 ピアノ専科の営業会議は、ショールームの空いたスペースで立ったまま行われる慣例だ。会議というより朝礼……いや、傍目には、殆んど立ち話に見えるだろう。しかし、その内容や雰囲気は、立ち話とは程遠い。
「えぇっと、今日は……三週目だな。週間報告は抜きにして、今月のここまでの売上げ成果を発表してもらおうか。見込みも含めてな。じゃあ、杉山からいこうか」

 杉山龍樹は、松本よりも歳下、三十代半ばの営業マンだ。三年前までは、大手メーカーの特約店で、調律師として外回り調律などの業務を担っていた。スマートな人当たりと巧みな話術で、常にトップクラスの売上げを記録していたらしい。見た目もクールなイケメンで清潔感があり、女性に人気の調律師であった。
 しかし、彼にはクリティカルな欠点があった。手癖が悪いのだ。然るべき施設で受診すると、クレプトマニアと診断されるかもしれないレベルだ。
 実際に、彼はお客様宅で目に付いた物があると、持ち帰ってしまうことが頻繁にあったのだ。大抵はボールペンやメモ帳など、なかなか発覚しないような小物を盗んでいたのだが、それでも、他人の自宅に上がって作業を行う調律師としては、致命的な悪癖と言えよう。
 そして、ある日のこと。彼は、訪問調律先で、棚に飾ってあったフィギュアを盗んでしまった。一般的な思考だと腑に落ちない話ではあるが、彼には特段フィギュア収集の趣味なんてないそうだ。つまり、それが目に留まり、欲しくなってヽヽヽヽヽヽ盗んだわけではない。ただ単に、盗みたくなったヽヽヽヽヽヽヽだけなのだ。いや、もっと言うならば、行為を実行する緊張感と、成し遂げた後の解放感を楽しんでいるだけなのだ。
 だが、その日はいつもと違った。彼が持ち帰ったフィギュアは、プレミアの付くレア物だったのだ。その家庭の高校生の息子が、数ヶ月もバイト代を貯めてようやく購入出来たものらしい。毎晩手にして眺めては、悦に浸った宝物だったのだ。
 息子が帰宅すると、当然の如く大騒ぎになった。すごい剣幕で、会社にも電話が掛かってきた。その日、他に家に出入りした者はなく、無くなった物もフィギュアだけ。そして、そのフィギュアはピアノの横の本棚に飾ってあった。午前中にあった物が、夕方になくなっている。奥様は、その日ずっと家に居た……理詰めするまでもなく、調律師が盗んだと帰結する。それ以外の可能性は、ほぼゼロだろう。
 問い詰められた杉山は、悪びれた様子もなくあっさりと罪を認め、形だけの謝罪をし、フィギュアを返還した。そうすれば、簡単に許してもらえると勘違いしていた。
 もっとも、謝罪と返還は当然すべきことに過ぎない。それぐらいでは客人の怒りは治まらず、杉山の社内での処罰を求め、窃盗事件として警察沙汰にもすると言い出した。どうやら、身内に弁護士もいるらしいのだ。
 それだけは避けたい会社は、数万円の迷惑料の支払いと、杉山の即日解雇を申し出た。それにより、ようやく溜飲を下げてもらえたのだ。

 数ヶ月後、杉山はピアノ専科に拾われた。ここでの業務は、前職とは職種そのものが違ったのだが、むしろ杉山にとっては、隠し持っていた天性の才能が引き出される現場だったのだ。
 調律師として養った技術や知識、そして持ち前の人当たりの良さもプラスに作用し、瞬く間に松本の成績を追い越すようになった。詐欺師としての才覚が、見事に開花したのだ。
 松本も技術者上がりではあり、その経験や知識は業務に活用されたが、残念ながら杉山ほど弁が立たない。歳下の後輩に追越された悔しさもあるが、それ以上に杉山の成績には一目置いていた。彼には、「騙す」ことや「言いくるめる」ことに天賦の才能が備わっており、とても敵わない相手だと認めざるを得なかった。

「はい! では、発表させて頂きます」
 威勢良く返事をし、胸を張って発表に移る杉山の表情を見て、松本は絶望的な気分になった。
 おそらく、今月も負けただろう。いや、杉山の成績と比較するまでもなく、松本は今月も全く成果を上げていない。だからこそ、杉山もそうであって欲しいと願っていた。それなら、そういう流れの時期だということで済むかもしれない……秘かにそう期待していたのだ。
 しかし、飄々としつつも自信漲る杉山の表情は、そんな一縷の希望を一瞬で打ち砕いた。

「まず、A難度が十七件、全て実施済みです。他に二件見込みがありますが、残念ながら降水確率は70%と高めを想定しています」
 朗々と杉山が報告をする。彼は、良くも悪くも感情的になることはない。彼の「感情らしきもの」が見られる時は、演技している時だけだ。常に冷めており、「我関せず」を貫く傍観者だった。自分のことでさえも。

 A難度とは、ピアノ専科の隠語で「運送だけ」の仕事を意味している。
 ピアノ専科は、新聞や折込広告、フリーペーパーなど、紙媒体の広告をメインに仕事を取っていた。中でも、格安運送を見出しにしていたのだ。つまり、ピアノを移動したい人がターゲットだ。
 相場では、二万円前後掛かるアップライトピアノの県内移動を、ピアノ専科は八千円で広告を出していた。この格安料金に、しかも紙媒体の広告を見て飛び付く客は、殆んどが高齢者だ。息子、娘夫婦が家を建てた、孫がピアノを習いたがっている……こういった転機に使っていないピアノをプレゼントしたい……そう考える老夫婦こそ、ピアノ専科の絶好のカモなのだ。
 依頼を受けると、杉山や松本などの営業が「下見」と称し訪問する。そして、ピアノの様々な問題点を指摘し、高額な修理を実施するように、言葉巧みに仕向けるのだ。
 ピアノは、わざわざ工房や倉庫に運んで直すとなると、とんでもない高額になってしまうもの。でも、移動するのなら、どうせいずれはやらないといけない修理であれば、この機会についでに直しておく方が得策である。その方が運送費も浮くし、貰い手にも喜ばれる……そう説明すると、修理の実施を検討する人は多い。簡単に言えば、ピアノ専科の業務は、ピアノの運送をベースにした技術サービスだ。
 問題は、修理の契約と実施にある。杉山や松本の手にかかれば、老夫婦を騙すことは赤子の手を捻るように簡単なことだ。過剰に不安を煽り、このままプレゼントしても貰い手は迷惑でしかないと言えば、殆んどの場合は修理してから贈りたいと考えるようになる。
 そうなると、後は楽だ。ちょっとした不具合も大掛かりな修理が必要なように説明し、一万円で直る作業にも五万円の見積りを出したりする。また、椅子やカバーなども上手く売り付け、運送だけの依頼から、いつしか数十万円の仕事にまで膨らませるのだ。
 しかし、それだけならまだマシと言えるだろう。法的にもセーフだ。修理代なんて、相場でやらないといけないわけではない。どこの業界でも、同じ商品やコンテンツなのに、業者によって何倍も価格差が生じることは珍しくない話だ。要は、消費者が相場を調べれば済む話でもある。サービス内容と価格を調べ、選択する権利も義務もあるのだ。
 もっとも、だからこそピアノ専科は、それが不得手な人が集う紙媒体を活用しているのだが。

 問題は、時に客の目を盗んで弱音装置やアクションなどのネジを緩め、故意に不具合を作ることだ。そして、数万円の修理が必要と説明し、ピアノ内部のアクション(打弦機構)を持ち帰る。実際に行う作業と言えば、自分で緩めたネジを締めるだけなのだ。
 無から有を作り出し、虚偽の説明をし、法外な見積りを出し、その通りの施工をしないとなると、これは立派な詐欺に該当するだろう。
 このように、格安に設定した運送を餌に、食い付いてきた高齢者からあの手この手で取れるだけ毟り取ることが、ピアノ専科のメイン事業だった。
 しかし、必ずしも修理の仕事に繋がるとは限らない。むしろ、半分程度は「A難度」の運送だけだ。杉山が取った十七件も、ピアノ専科にとっては損益分岐点ギリギリ、若しくは赤字になることさえある仕事であり、ポジティブな成績には受け止められない。
 また、「降水確率」というのもピアノ専科の隠語で、キャンセルの可能性のことだ。杉山の二件の見込み業務に付いた70%という高い降水確率も、A難度の仕事では咎められることもなかった。

「B難度は九件実施、回収済みです。現在進行中が一件あり、明後日納品予定です。C難度は五件実施、現在進行中も二件あります。この二件は、降水確率も20%以下です」
 杉山の報告を受けた榊は、自然と顔が綻んだ。
 ピアノ専科は、運送を足掛かりにした業務がメインとは言え、アクションや鍵盤を持ち帰っての修理を単独で行う営業も行っており、むしろその方が利益率も高いのだ。この「修理だけ」の仕事をB難度と呼び、これは一件につき、約十数万円〜三十万円ほどの売上げになる。
 また、C難度はAプラスB、つまり、「修理プラス運送」というピアノ専科のメイン事業となるコンテンツで、一件当たり約三十〜四十万円の売上げが見込まれる。なので、ここまでの杉山の売上げはザッと見積もっても四百万円ぐらいになるだろう。彼の月のノルマは二百五十万円なので、今月はまだ二週間近く残した時点で、既にノルマを大幅に越えている。
 しかし、杉山の報告には、更に続きがあった。

「今月は、D難度も一件見込みがあります。これは、運送も長距離なので六万上乗せし、総額七十万で提示しました。降水確率は、65%です」
 D難度とは、運送のついでにオーバーホールを行う仕事のことだ。売上げ額が大きい上、利益率も高い。年に数件しか取れない仕事なので、一件取ると、担当者には僅かながらも臨時ボーナスが出るぐらいだ。
 しかし、降水確率がやや高いのが気になった。榊もすかさずその点を突いてきた。
「65%とは、どういうことだ?」
 杉山は、不機嫌な顔を隠そうともしない榊に、平然と答えた。
「D難度の実施は、八割方自信があります。しかし、クリーニングは断られる可能性が高いと踏んでいます。本体のオーバーホールは行うでしょうが、総額は六十万円程度に下がります」
「つまり、D難度そのものの降水確率は、20%ってことだな?」
「はい、そのつもりです」
「バカヤロ、最初からそう言え!」
「紛らわしくて申し訳ありませんでした。降水確率は20%に訂正します」
 そう怒鳴りつける榊だが、厳しい言葉とは裏腹に表情は満足そうだ。おそらく、彼の今月の売上げは六百万円に迫るだろう。いや、あと二週間の成果次第では、超える可能性もある。利益率の高いピアノ専科では、これは前例のない素晴らしい快挙だ。


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