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いい湯だな

(本作は1,189文字、読了におよそ2〜3分ほどいただきます)


 数週間に及んだ激務が終了した夜、暖かい湯船にまったりと浸かった。ゆっくり入浴出来るのは、何日振りだろうか。窮屈なはずのバスタブが、快適な空間と錯覚するほどに、リラックスした時間が大河の河口のように緩やかに流れる。 
 やがて、体の芯まで温まってくるに連れ、心身の疲れが剥がれ落ちていくようだ。身体から乖離した疲れは、湯に流出し、溶けてしまうかのように感じた。
 そして……エネルギー保存の法則なのだろうか、溶解した疲労と入れ替えに、心地良い睡魔が、湯から体内に取り込まれていくのが分かった。

* 

 ふとしたことから、彼女の浮気を知ってしまった。怒鳴り付けたい怒りの衝動を辛うじて飲み込み、精一杯の平静を装いながら、穏やかに聞いてみた。
「アハハ、バレちゃった?  ゴメンね、アタシ、あなたのことそこまで真剣じゃないのよ。まぁ、良いきっかけにはなるよね。悪いけど、別れてくれる?」
 頭の中が真っ白になり、何も言葉に出来ず、呆然と時間が過ぎた夜。すっかり冷めて生ぬるくなった湯船に浸かると、彼女への愛情や未練、様々な思い出、そして不甲斐ない自分への嫌悪感が、湯の中に溶け込むように消えていった。
 やはり、エネルギー保存の法則なのだろうか……代わりに湯から注入されたのは、抑え切れないほどの強い殺意だった。 

* 

 彼女と過ごす予定だった休日。一人で部屋に篭り、様々な殺害の計画を練ってみた。確実に殺せ、尚且つ、バレない方法はないものかと、思考を巡らせ智恵を絞り続けた。
 しかし、ほとんどの殺人事件がそうであるように、完全犯罪を成立させるにはたくさんの障害があるという、当たり前の現実に打ちのめされた。それに、いざとなった時、自分には実行するだけの勇気がないことにも気付いていた。 
 やはり、根本的に捕まることが怖いのだ。
(うん……やっぱり、馬鹿げている) 
(あんな女のために、人生を犠牲にすることはないじゃないか) 
(もう彼女のことは忘れよう……) 

 そして、少し熱めの湯を張ったバスタブに浸かる。すると、さっきまで抱いていた恐怖心や躊躇いが、乾いたスポンジの吸水の如く、瞬く間に湯に吸い込まれていく。
(別に捕まってもいいじゃないか) 
(刑務所に入ろうが、あの女を殺すことこそが目的じゃないのか)
 エネルギー保存の法則は、恐怖心と躊躇いを燃焼し、大胆かつ剛胆な行動力を生み出した。 

* 

 数週間掛けて計画したプロジェクトが完了した夜、暖かい湯船にまったりと浸かった。ゆっくり入浴出来るのは、何日振りだろうか。窮屈なはずのバスタブが、快適な空間に錯覚するほど、リラックスした時間が流れる。

 普段から運動不足なのに、深い穴を掘った為か、体中の節々が痛む。やがて、体が温まってくるに連れ心地良い眠気が襲い、筋肉の痛みが緩和されてきた。
(あぁ、いい湯だな……) 
 そのまま、少しだけ眠ることにした。