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ブランコは微かに揺れていた

(本作は3,220文字、読了におよそ5〜8分ほどいただきます)


 俺は紫が好きだ。 
 紫は、妖艶でいて、高貴な印象を与える色だ。官能的で、気品に満ちている。また、その色合いによっては、インスピレーションを高めてくれ、心身をリラックスさせてくれることもある。 
 一方で、俺は紫を畏れている。紫は、見る者の欲望を掻き乱し、本能を剥き出しにすることもある。また、時にはネガティヴな神秘性を孕み、不安定な緊張感に引き込むこともあるのだ。紫の持つ二面性……おそらくは、「動」の赤と「静」の青が混じり合う色、つまり、対極の性質を併せ持つ特性が、受け手の心理によりイメージを変換させるのだろう。言い換えると、紫に抱くイメージは、その人の精神状態を表すとも言える。そう、紫は人を見透かしているのだ。 
 その夜、絶望と落ち着きと欲望と恐怖、そして孤独感が、複雑に入り混じっていたことは確かだ。紫の夜……紫のワンピースの少女を確かに見た。しかし、少女に何をイメージしたのか、今は覚えていない。 

 少子化が進行した都会の隙間に、人々から忘れ去られた小さな公園がある。陽当たりが悪く人通りも少ない、言わば街のデッドゾーンだ。数台しかない古い遊具は、ろくにメンテナンスも施されていないのだろう。ペンキは剥げ落ち、金属は錆び付いている。果たして、最後にこの公園で子どもが遊んでから、どれぐらいの月日が経つのだろうか。遊具に染み付いた子ども達の笑い声の記憶も、既に荒廃に溶け出してしまったかのようだ。
 不快な軋み音を立てながら、ブランコが静かに揺れている。風のせいなのか、精霊の戯れなのか、人気のない廃墟のような公園で、ブランコは寂しく小さな振幅運動を繰り返す。 
 公園の一角にある四角く区切られたエリアに立ち、狭い夜空を見上げた。おそらく、元は砂場だったのだろう。カチカチに硬化した地面は、もはや砂遊びには不向きな土壌に変わり果てている。生命力の強そうなイネ科の雑草が、養分の無さそうなこの地からも芽を出し、茂っている。どうやら、雑草には少子化の心配はない。 

 その時、突然女が現れた。いや、少女と呼ぶべきか。あどけなさの残る笑みと若々しい肢体は、その存在だけで、寂れた公園を華やかに彩る。これぞ、若さの魔法、若さのパワーだろう。 
 そして、紫……そう、外灯に照らされた彼女は、紫のワンピースを着ていた。 
「あなたが、ササキアヽヽヽヽさん?」不意に少女が話し掛けてきた。残念ながら、俺はササキアなんて名前じゃない。ところが、否定も肯定もしない俺に向かい、少女は話を続けた。 
カロンダヽヽヽヽさんの方が良いのかな? でも、良かった、優しそうな方で」……俺のことなど何も知らないくせに、勝手に人を評価し、安心する。 
「じゃ、行きましょ、予約は入れてあるよね? どこのホテルにしたの?」 
 馴れ馴れしく、少女が腕を絡めてくる。おそらく、ササキアという人物と、ここで待ち合わせしていたのだろう。そして、俺のことをササキアだと思い込んでいる。ということは、彼女はその人物と面識がないということとだ。ササキア……これは、おそらく特定の世界でのハンドルネームだろう。匿名のやり取りで出会い、欲望の交換を目的に待ち合わせた……容易に推測出来る。 

 紫の蝶が舞う幻覚。そして、不安と緊張と恐怖……更に、エロティシズムと快楽。様々な感情や感覚が交差し、相殺し合い、または融合する。赤と青の配分比率は目まぐるしく変わっても、どちらかが0になることはない。常に紫……そんな夢だった。 
 目を覚ましたのは、深夜三時を少し回った頃。全身から嫌な汗が吹き出し、気怠い疲れが纏わり付いている。最初に気付いたのは、音だった。もしかすると、浅い眠りから目覚めに導いたのも、この音かもしれない。 
 ぼんやりした意識のまま、照明を点けた。音は止まないが、特に気にとめることもない。壁に掛かった蝶の標本が目に入る。数日前、デパートの催事場で見つけ、紫の大きな翅に魅了され、衝動買いした標本だ。紫には、人を惹きつける悪魔的な吸引力も備わっているのだろうか。美しい。そして、神秘的で妖しい蝶。紫の翅に魅入る。 

 紫の夢。少しずつクリアになっていく意識。覚醒と比例して、見ていた夢の記憶も呼び戻される。紫の夜、紫の少女に出会った。彼女は、俺のことをササキアと呼んだ。 
 ササキア……ハンネのネーミングなんて、大した意味のない場合が多い。ペットの名前だったり、好きな何かから派生させたり。嗜好や思想を反映させることもあれば、本名やリアルなニックネームに因む場合もあるだろう。 
 そう言えば、中学生の頃、同級生に杉田という双子がいたことを思い出した。杉田正樹と杉田直樹……クラスメートは、彼らのことを「スギタマ」「スギタナ」と区別して呼んでいた。ササキアも、もしかしたら佐々木アキラや佐々木アキヒロといった名前が由来かもしれない。 
 だとしたところで、俺は佐々木ではない。佐々木なんて知合いもいない。彼女は、ササキアに会いに来て、俺と会った……いや、実のところ、本当に彼女と会ったのか確信を持てないでいる。そう、全てが夢だったのかも……少なくとも、彼女と腕を組み、歩き出したところで記憶が途絶えている。彼女は誰なのだろう? そして、ササキアはどんな男なのだろう? そう言えば、あの公園はどこにあるのだろう? 何故、俺は公園にいたのだろう? ダメだ、記憶を辿ろうとすると、全てが紫に掻き消されていく。 
 そして、今、音が変わった。 

 紫の蝶を眺める。生きて自由に飛び回ることと、死してなお、妖艶な美しさを保つこと、どちらが幸せなのだろう? 美は儚いもの。そう分かっていても、恒久化させたくなるのも理解出来る。 
 彼女は、確かに美しかった。しかし、生きている限り、未来永劫保証された美なんてない。だから、彼女の美しさは限定的な現象だ。それに、表面的なハリボテだ。だから……俺は、彼女に何をしたのだろう? 

 赤い血の記憶……生臭く、生温かい液体。紫のワンピースが赤黒く汚れていく。途絶えていく息づかい。恐怖に慄く眼光。か細い指先。どういうことだ? 目を閉じると、そんな光景が再生される。夢で見たのか、現実で体験したのか、脳内のスクリーンに生々しい記憶の断片が、ランダムに映し出される。 
 俺は、彼女に何を求めたのだろう? 
 彼女は誰だ? 俺は一体誰なのだ? ササキアは来たのだろうか? いけない、ワンピースが、紫が、汚れてしまう。 

 突然、音が激しくなった。その時になって、ようやくそれが全自動洗濯機から発せられる音だと気付いた。どうやら、すすぎから脱水に切り変わったようだが……さて、一体何を洗っているのだろう? しかも、こんな時間に。 
 もう一度、少女のことを考える。若い生命が美しいのか、ハリボテが魅力的なのか……少なくとも、紫のワンピースはとても美しかった。保存するためには、中身は必要ない。蝶の標本と同じだ。 
 洗濯機が、終了を通知する音を発した。俺は、壁に掛けてあった標本を手にし、ケースをバラし、そっと蝶を手に取り、翅を慎重に捥いだ。胴体なんて要らない。生命を感じるモノは必要ない。欲しいのは、恒久的な美……紫の翅。
 標本ケースの裏面に、蝶の名前の書いたラベルが貼られている。何度かは目にしたが、名前には興味がない。そう言えば、彼女の名前も知らない。 

 オオムラサキ……学名は「Sasakiaササキア charondaカロンダ 」 

 洗濯を終えた紫のワンピースを干しながら、中身のことを思い出そうとする。しかし、それが少女だったこと以外、何も覚えていない。顔も声も身体も、全く興味がなかったのだ。そう、欲したのは紫の翅。中身は要らない。だから、彼女の翅だけを慎重に捥いだのだ。
 一つだけ覚えていることがある。そうか、ということは、俺は公園にいたってことだ。 
 そう、確かあの夜、ブランコは微かに揺れていた。