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毛先が球

(本作は1,972文字、読了におよそ3〜5分ほどいただきます)


 いつものアラームの音が、疲れ切った身体を鞭打ち、睡眠から覚醒へと強引に誘う。たとえ寝不足でも、どれだけ二日酔いが酷くても、パブロフの犬のように、この音を聞くと起きなければいけないと刷り込まれている。これが、「学生」を「社会人」へと変貌させる上で、デフォルトとなる習慣だ。
 苦痛で退屈な一日が、今日もまた始まろうとしていた。目に見えない糸に操られているかのように、俺は毎日を惰性で生きていた。

 しかし、その日は違った。いつものルーティンで、洗面所に向かったのだが、ふと鏡を見た時に、ちょっとした異変に気付いた。何ということか、右の鼻から長い鼻毛が飛び出していたのだ。しかも、ソレは剛毛かつ直毛で、よく見ると毛先が球だったのだ。
 お堅い職場の窓口に立つ俺は、普段から身だしなみには細心の注意を払っていた。そんな俺が、まさか鼻から毛先が球状になってる鼻毛をぶら下げて出社するわけにはいかない。俺にとって鼻毛の飛び出しは、パンティを被っているのに等しい行為だ。しかも、毛先が球……その恥ずかしさは、穴開きパンティ並みだ。

 すかさず引っこ抜いてやろうと指先でつまみ、引っ張ってみた。しかし、鼻毛は抜けることはなく、僅かな抵抗を感じながらもスーッと数センチメートルも下に伸びた。そして、カチッと小さな音と手応えを感じ、ピタッと静止した。
 痛みは全くないのだが、鼻毛とは言え、身体の一部が「物」のように感じ、気味が悪くなり、俺は思わず鼻毛から指を離してしまった。
 その瞬間、鼻毛はシュルシュルと穴の中に引っ込んでしまった。まるで、家電の電気コードの巻き取りの様でもあったし、指先に伝わった感触は、ブラインドを下ろす時に近かった。

 更に、異変はそれだけではなかったのだ。鼻毛が引き込まれると同時に、ズボンが一気にストンとずり落ちたのだ。慌ててズボンを履こうとするが、どういうわけか、手を離すとずり落ちてしまう。
 まさかとは思ったが、右の鼻に指を突っ込み、さっきの鼻毛を探した。幸い、それは毛先が球なのですぐに見つかり、ゆっくりと引き下ろしてみた。
 すると、予想通り、鼻毛を引っ張るに連れ、ガッガッガッ、とズボンがせり上がってきた。まさに、ブラインドの紐のような役割を鼻毛が担っているようだ。そして、ようやく腰まで上がってきたのはいいが……さて、どうしたものかと考えた。指を離すと、またズボンはずり落ちるだろう。
 俺は、元々、ブラインドの扱いは苦手だった。止めようと思っても、上手いこと止まってくれたためしがない。そもそも、持ち上げたブラインドって、どうやって止めるのだったっけ……
 試しに、毛先の球をそっと回してみると……なんと、ファスナーが開いた。これはイカン! と逆に回してみると、今度はファスナーが閉まった。
 その時、つい指を滑らせてしまい、再び鼻毛は穴にシュルシュルっと巻き上げられ、同時にズボンもストンとずり落ちた。

 クソッ、またやり直しか……再度、鼻毛を探そうと鏡を覗き込むと、何と左の鼻の穴にも同じような鼻毛があるのを見つけてしまった。
 やはり、剛毛かつ直毛で、毛先が球。
 好奇心から、無理矢理引っ張ってみると、やはり同じような感触はしたものの、どうやらこの鼻毛は下がり切っているようで、僅か数ミリしか動かなかった。そして、つい指を離してしまったのだが、鼻毛は一気に穴の奥の方へと巻き上げられた。
 同時に、今度はパンツがずり落ちた。
 どうしよう。かなり奥まで引っ込んでしまったから、探し出すのは難しいかもしれない。試しに、ズリ落ちたパンツを履き直してみるが、予想通り手を離すとストンと落ちてしまう。

 しかも、鏡に映る困惑気味の自分の顔を眺めていると、顎髭にも一本、眉毛には二本、頭髪には十数本、同じような毛が生えていた。念の為、脇毛や胸毛も調べてみると、やはり毛先が球状になってる体毛が何本か見つかった。

 こうなったら、半ばヤケクソで、片っ端から引っ張ってみようと思った。自分の身体がどうなっているのかという、好奇心も抑えきれなかったのだ。
 試しに、眉毛の一本を引っ張ってから手を離すと、例の如く、シュルシュルと巻き上げられ、靴下が脱げた。同じ原理のようだ。
 なんだか妙な気分で楽しくなってきた俺は、顎鬚、頭髪など、手当たり次第に引っ張ってみた。すると、シャツのボタンが弾け、眼鏡が落ち、腕時計もポトンと床に落ちた。
 更に、歯が何本か抜け落ち、右足の膝から下がポロンと取れ、左足は付け根から外れ、眼玉が飛び出し、首が捥げ、ついに両手までが外れてしまった。もう、どの毛がどのパーツと繋がっているのか分からないし、元には戻せないだろう。
 そして、どうやら最後の一本は、社会のしがらみと繋がっていたようだ。意識が遠いた俺は、全てから解放された気がした。