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炒飯渇望症候群

(本作は2,000文字、読了におよそ3〜5分ほどいただきます)



 徹夜確定だな——時計を見ながら、溜息が零れ落ちた。今晩中に絶対に書き上げなくてはいけないのに、まだ手付かずのレポートがあったのだ。しかも、二つも。
 一つは、会社が開発している新商品について、マーケティング調査を行った報告書だ。他社同等機種との比較やモニターの評価など、データは揃っているのだが、もう何時間も文章化出来ないでいた。
 原因は、もう一つのレポートによるストレスだろう。これは、会社に内緒でやっている副業で、コンサートのプログラムに載せる曲目解説の執筆を依頼されていたのだ。
 この仕事は、元々は友人に頼まれ、フリーペーパーのスペースを埋める為に、五百文字程度の音楽小噺を書いていたのが始まりだ。と言っても、一話書いてギャラはたったの八百円……当然、副業なんて意識もなく、友人を助ける為だけに続けていたのだが、ある日、私の記事を読んだ方から、仕事の依頼を頂いたのだ。それが、曲目解説の執筆だった。
 こちらの仕事は、なかなか割が良かった。仕事量は少ないものの、ちょっとした小遣い稼ぎにはなったし、コッソリとライターをやっているという自己満足にも浸れ、時間の束縛もなく、理想的な副業だった。
 しかし、数年前からの新型ウイルスの蔓延は、音楽業界にも多大な影響を与えた。コンサートは激減し、たまに開かれても予算の削減からプログラムも簡素化され、仕事の依頼はなくなっていた。
 そんな折、久しぶりに曲目解説の依頼を頂いたのだ。取り上げる曲は、有名なベートーヴェンの交響曲第五番。しかも、まとまった文量を要望されている。これは、気合を入れねば……と思っていた矢先、本業の報告書が前倒しになり、急ピッチでデータ整理が必須となり……最悪なことに、納期も同じ日を指定された。

 今日は定時に仕事を上がり、飲まず食わずで、もう何時間も自宅のパソコンと睨めっこしている。職場では書けないと思い自宅に持ち込んだ仕事なのに、何時間掛けても一文字も書けないでいた。こんなことは初めてだ。
 書くまで食事は摂らないつもりだったが、空腹も限界に近い。何故か、無性にチャーハンが食べたくなってきた。本当は、近々ハンバーグでも作るつもりで買ってある挽肉が、そろそろ使わないとヤバいのだが……それでも、今はチャーハンが食べたいのだ。
 確か冷蔵庫にベーコンも玉ねぎも人参もあるなぁ、なんてことを考えてしまう。玉子もあるし、調味料も揃ってる。ご飯もタイマーで炊けている。その気になれば、直ぐにでもチャーハンが作れるんだ!
 しかし、誘惑に負けてはいけない。チャーハン作りの衝動を、必死で抑えた。今チャーハンを食べると、ビールを開けてしまうだろうし、身体は疲れ切っている。間違いなく、そのまま寝てしまうだろう。報告書も曲目解説も一文字も書けないまま、気付いたら出社の時間に……なんて、地獄の予感しかない。ダメだ! 書き終えるまでは我慢だ! 必死で自分に言い聞かす。
 しかし、どうしてこんなに書けないのだろうか。どちらかと言うと、文章を書くのは得意な方だ。それなのに、さっきから集中出来ず、頭の中でベートーヴェンの『運命』が流れている。しかも、音楽に合わせ、ベートーヴェンが例のしかめっ面で、チャーハンを食べている姿が脳裏に浮かぶ。
 これは、炒飯渇望症候群の末期症状なのか。優先順位としては、本職が最上位に来ることぐらい分かっている。それなのに、脳内でずっと「ジャジャジャジャーン」がリピートされ、しかも、いつしか「炸醤ジャージャーチャーハン」に変換されている。
 炸醤チャーハン、ピリ辛で美味しいんだろうなぁ……あ、そう言えば、挽肉を使わないといけない。豆板醤も甜麺醤も大蒜も胡麻油もあったはず! そうだ、炸醤チャーハンにしよう! その方がビールも上手い! 早く食べたい! もう、どうでもいい、副業は諦めよう。本職の報告書だけ書いて、炸醤チャーハンを食べてやる!
 すると、今度は一転して、スラスラと筆が進んだ。



 新商品のブロアバキューム『拌吸(はんすう)』について、モニター様よりベートーヴェンの肖像画の様な厳しい表情で率直なご意見を賜りました。他社と比較しても、先ずは価格設定の見直しがプレストで必要です。また、他社商品を解体し、みじん切りにして調べたところ、下処理がしっかりとされており、通奏低音とオブリガードのバランスも良く、様々な具材が心地良いハーモニーを奏で、隠し味のスパイスも程よく、対旋律も効果的です。他には、「拌吸」というネーミングの悪さも指摘されました。拌は反や犯など、マイナスイメージに結びつく可能性もあり、チャーハン(炒飯)のハンとも被ります。拌吸自体、「反芻」を連想させますので、このご指摘は運命だと割り切り、一度ダ・カーポしてレシピを見直す必要があります。



 次の日、課長からの鬼電で目が覚めたのが十時。コーダから一気にフィーネだ。