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地に足をつけて

(本作は999文字、読了におよそ2〜3分ほどいただきます)

 この香りを表現するならば、「魅惑的」という言葉しか思い付かないんだ。例えるなら、甘美な四重奏のハーモニーに耳を傾けるようでもあるし、優雅で官能的な高級娼婦も連想したさ。或いは、映画でしか観たことないような繊細で手の込んだ晩餐も思い出したし、初恋の淡い記憶も蘇ったし、透き通るような色彩の絵画も脳裏に浮かんだよ。
 そんな魅惑的な香りが漂っていたんだ。

 目的もなく、ただフラフラと深夜の散歩をしていた僕は、当然、その香りの源を探すことに決めたんだ。大体の方向は目処が付いたし、少しずつ、そこに近付いているのも分かった。だって、徐々に芳香が強くなっていくんだ。でも、それに伴い、自我は崩壊していく……それでも、ひたすらに香りを求め、一心不乱に歩を進めたよ。本能の赴くままにね。
 するとさ、突然目の前にそれが現れたんだ。一瞬、我が目を疑ったよ。だって、ほんの数日前、この道を通った時には、間違いなくそんなものなかったからね。断定出来るよ。こんな僕でもさ、さすがによく通る所に、しかも道を塞ぐように一軒家が建っていれば、それが幾ら安っぽいシンプルな平屋でも、気付かないってことはないよ。だから、この数日の間に、建てられたのは間違いさ。
 それにしても、僅か数日でこんな物を建ててしまうなんて、近年の建築技術はすごいとしか言い様がないね。

 まぁ、そんなことより、どうやら匂いの元は、この家だってことは分かったよ。不用心なことに、入り口も窓も、全て開け放されていたんだ。だから、匂いがダダ漏れでね。間近でその香りを嗅いだ僕は、その麻薬的な吸引力に理性が麻痺してしまって、欲望の権化と化したんだ。
 もう、こうなったら、中に何があるのか、確認せずにはいられなくなって、躊躇することもなく、どうにでもなれ!  って感じでさ、僕は入り口から堂々と足を踏み入れることにしたんだ。その時には、後ろめたさも罪悪感も完全に消えていたよ。

 でも、一歩、二歩と進むに連れ、沸き立つ心の躍動に反比例し、足取りは重くなったんだ。脚力には自信があったのに、数歩目でついに足が前に進まなくなったんだ。そう、六本の足が、全部床にへばりついて離れなくて。
 その時気付いたんだ。この粘着力、これが噂のアレなのかと。

 僕はもう、全く身動きが取れず、死を待つのみの境遇だ。それでも、足元から立ち込める「魅惑の香り」に包まれ、心なしか幸せを感じている。